エゴは自分を愛だと思いたがる
エゴは、本来動物に備わっている、自己防衛本能です、だから、肉体的な精神的な自分を外敵や他者から守るための機能をもっています。だから、エゴのやることは一見、愛に見えても、その思いやりは
、自分が人間関係で守られるために、私は協調性平和的で、私はあなたの味方ですというアピールであり、計算高いのかもしれません。
つまり関心は元を質せば自分の利害や保身がルーツです。
しかし、
愛は、同じ行為にしても、まず相手の状況や気持ちに関心の中心があります、自分の利害や感情より、相手の状況にまず耳をかたむけ、関心をもち慈悲をもち対処していきます、
その極端な現象として。エゴは自分を守るために、必死ですから妄想にしろなんにしろ。被害を受けるより相手を攻撃し、死守しそれが極端になるのが、殺害です。
しかし、愛は、自分の命を捨ててまで人の命を救おうと必死になります。極の状態で人はエゴと愛に試されます、それが表面化することは平和なときはなかなかありません。しかし普段はエゴは愛とは区別がつきにくく。
しかし同じ行為でも全く関心は逆です、自己保身のためか、相手への思いやりのためか、しかし一見優しい思いやりに見えても、それは道徳でありマナーであるという、エゴでも愛でもない、中間のものや文化や嗜みにより、
普段の人間関係は成り立っているのです。私はマザー・テレサが、愛の対極は憎しみではなく、無関心であるといった言葉を自分なりによく考えてみました。無関心であるということは、存在自体が認知されていないということです、それで私は「愛の始まりは、関心を持つこと」だと考えました。
そこで最近のテクノロジーの話で、現在の科学が物質において存在が証明される、<最小単位が、素粒子、だと知りました、ところが素粒子というのは、物質として存在が確認されるのは、観察されているときだけらしいのです。
後を調べてみると、素粒子は消えていて、痕跡だけが残っている、それで、素粒子は明らかに存在しているのが科学的に証明されたわけです。これが、物質の最先端の性質です。だから、物質は、観察者に対してきちんと関心を持たれていること時に気づいて、存在したり消えたりするのです。
話が脱線しましたが、私はそれを知り生命というものは、全て愛だと知りました。
そして花や草木や動物にしても、人間にしても、子供たちにしても、私たちは、まず愛という名の、関心を持つことから、平和で豊かな世界が実現していくのだと感じました。




