浜辺猫の蜃気楼
僕はとある日本海の島に住んでいる。人口は年々減ってゆくばかりで、今年はじめて1000人をきった。なんたって一番近い本州の港にはいくら波が穏やかだったとしても1時間以上はかかるから、立地は最悪なのである。ここに住む大半の人々は漁師で(まあ、漁師ぐらいしか働き口がない)まだ日も上がっていないような暗いうちから海に出て、サバやサワラ、ウニなどを取ってなんとか生活をやりくりしている。漁師にとって天候は切っても切れない関係であるから、台風の被害を受けた時は、島全体が暗く、しおれたワカメみたいに活気を失っていたことをよくおぼえている。そして、そろそろ台風の多くなる時期に差し掛かっていた。
僕はこの島で唯一の中学2年だった。だからクラス替えといった楽しみもない。毎年教室が変わり、その教室の前に貼られた紙に『A組 佐原隆一』とだけ記されているのを見るとなんだかうんざりする。一番近い年の知り合いといえば、3年の浜ちゃん先輩ぐらいである。昔からの幼馴染で、彼女のことはよく知っている。彼女もまた僕と同じように、学年に一人だけなので、休み時間の話し相手は必然的に僕しかいなかった。しかし最近、夏にはいった頃から、あんまり相手をしてくれない。浜ちゃん先輩には受験というものがあるらしく、休み時間にはいかにも難しそうな分厚い参考書を広げ、シャーペンを走らせていた。どうにも島から出て、東京の高校に行くらしい。東京と聞くだけで、僕は相当気が遠くなる。ずっとかけ離れた、異質な世界のような東京に浜ちゃん先輩は行こうとしているのだ。そして二度と戻らない――つまり会えないような気持ちがした。そう考えると、変に胸の中が騒いだ。
今日は廊下ですれ違った時に一言二言言葉を交わしただけだった。浜ちゃん先輩はきっぱりとしていて、すぐに教室に戻ってしまう。最近はそんなことを考えながら、毎日一人で帰路についている。まあ来年になると僕もこうなるかもしれないし、自分の身勝手なわがままは言っていられない。そう自分に言い聞かせる。
海は夕焼けに照らされて、ほのかに明るい。今日は波も穏やかで、海岸沿いの道には静かに波の音が聞こえる。潮独特の香りが海から吹く風に流されて、僕の鼻をつく。僕はしばらくの間何も考えずに海を眺める。すると見渡す限りの見慣れた海が、なんだか僕を吸い込むように彼方の方に目を引き付ける。無意識のうちに、水平線の向こうにある、知らない世界の想像が頭を埋め尽くすのに気付くと、僕ははっとする。しつこいほど、浜ちゃん先輩の未来を想像してしまうのだ。
その日の夜、僕は不思議な夢を見た。自分が猫になった夢。それははっきりと頭の中に記憶されている。
僕は――猫の僕は、海岸沿いの防波堤の上を歩いていた。偶然に立ち止ったカーブミラーで自分の姿を見ると、自分は茶色と白色の縞の入っている三毛猫である。どうやら、夢の中では自分が佐原隆一という人間であることはわかっていないらしい。驚くまでもなく、自分の姿をそのまま受け入れた。
前足、後ろ足を動かせて再び歩き出す。しばらくして、目の先の防波堤にもう一匹猫が見えた。それは綺麗なシャムネコで、じっと海の方を眺めている。時折、彼女は耳をひくひくさせたり、後ろ足で首を搔いたりしている。それら仕草が僕を執拗に引き付ける。
「こんにちは」僕は声をかける。しかし、彼女は何も言わない。少し僕の方を振り向いて、いくらか目が合ったが、また海を見つめる。
「今日はいい天気だね。こんな日に、こうやって海を眺めるのは僕も好きです。あなたはどうですか?」
彼女はまた答えない。今度は振り向いてもくれない。
それから、何回か言葉をかけたのを覚えている。そかしどれにも反応してくれない。僕はあきらめて、防波堤から身を下ろし、そのままどこかに歩いた。
一日目の夢はこんな感じだった。 そして、次の日も僕は猫になっていた。
僕は同じように海沿いにいた。台風が近いのだろうか、やや波も高く、空は曇っている。
しかし、まだ台風の息が届くには早いみたいだ。
何も考えずにただただ歩いていると、近くの茂みから何やら猫の声がする。気になって近寄ってみると、そこでは大きな雄の黒猫が、興奮しながら、一回り小さい雌の白猫の上にのしかかって、強引に白猫の動きを制しているようだった。白猫は必死に抵抗するが、完全に力で圧倒されている。その黒猫が何をしようとしているか、すぐにわかった。
その時、白猫の目と僕の目が合う。彼女は助けを求めるかのように、僕を見つめている。ここで退くわけにはいかない、そう思ったのだろうか、僕は次の瞬間黒猫に噛みついていた。黒猫は突然のことに対処できず、体制を崩す。その隙に白猫は一目散に茂みの向こうに逃げた。
僕と黒猫は互いに噛みついたり、爪でひっかいたりして争った。体格の差は歴然としていたが、そんなことは言っていられない。
その時、両者の低いうなり声が、周りに響いていたためだろう、箒を持った人間が駆け寄ってきて、うるさい!と怒鳴りつけてきた。もちろん警戒して僕も、その大きな黒猫も、その場から退散する。いくらか離れた時には、そこに黒猫の姿は見えなかった。
僕は再び海沿いを歩き出す。さっきの争ったせいで、いくらか腹のあたりに傷を負った。夢の中だから実際に痛みは感じない。傷はカーブミラーで確認することができたのだ。ちょうど縞のあいだが赤く染まっていた。
とはいっても別に傷のことは考えずに、しばらく歩き続ける。すると、目の前にまたあのシャムネコが座って海を見つめている。数メートル離れて僕は立ち止る。彼女は垂れているしっぽの先をゆらゆら揺らして、ときどきそれを丸める。時には大きく口を開けて、あくびをする。彼女は僕の存在には気づいていないのだろうか。
いくらか静かな時間が流れ、僕は彼女に近づく。やっぱり気づいていたように、彼女が僕の方にゆっくりと目を向け、しばらく僕を見つめた後、またもとに戻る。僕はまた無視をされると思うとなかなか話を切り出せない。好きなエサは何? 誰かに飼われているの?こんな質問で、彼女は返事を返してくれるのか、自信が持てなかった。
「ありがとう」
突然彼女が言葉を口にする。え?僕は予期していなかった事態に、さらに言葉を見失う。
「ハクを助けてくれてありがとう。友達なの」
彼女は海を見つめたまま、続けてささやかに言った。ハク……さっきの白猫が脳裏をよぎる。
「あああれか……僕は何も大したことはしていない。気づいたらすでに体が動いていた」
「でも血が出てる」彼女が僕の腹のあたりに心配そうに目をやる。痛くない?というように。
「これも大した傷じゃない」
僕は正直に答える。本当に痛いとは感じなかったし、現実、それで夢から覚めることはなかったから。しかし彼女の心配そうな瞳は僕の腹部をとらえている。そして彼女は僕に近寄り、傷を舐めはじめた。くすぐったくもなく、彼女はやさしく、それからある種の包容力をもって僕の傷を癒してくれた。僕はなんだか立っていられなくなって、丸くなって横になる。こうしてしばらく目をつむり、彼女の温かさを感じていたいと切に思っていたかもしれない。
「君は強いんだね。君はあのクロに立ち向かった。この辺じゃクロに逆らうものは誰もいない」
「そうなんだ」
「さっきね、ハクが襲われてここまで逃げてきたの。でも知らない三毛猫が助けてくれたって言ってた。私は君が思い浮かんだんだけど、やっぱりそうだった。ハクは私の初めての大切な友達。だから、君には感謝してる」
そう言って彼女は頬笑んだようにも見えた。猫が笑うというのは人間からすると分からないかもしれない。だが、猫であるその時は、僕にはそう理解することができた。同時になんだか照れくさい気分になる。
「あれ?照れてる?」彼女はにやにやして言う。
「そんなことは……」
「ふふ、なんか可愛いね、君って。たぶん私より年下だ」
僕はなんとも言えない。
「あっ、そういえばまだ自己紹介もしていなかったね。私はミウ。君は?」
…………。自分の名前?僕は言葉に詰まる。なんだか喉のすぐ近くまで来ていて、でもそこで止まってしまう。先ほども言ったように、夢の中では、自分が佐原隆一であることはわかっていないみたいだ。僕は困った顔をする。
「分からない。でもたぶん名前はあるんだと思う、僕には。根拠はないけれど、そんな気がする」
「そうなの……」
あっ、でもね、と彼女は続ける。
「私にも、似たようなことがあるの。この場所で、こうやって海を眺めていると時々心が締めつけられて、とても寂しくなる。なぜだかは分からない。けれど、私は心のどこかでその理由があるはずだと思っているの。根拠はないけれど、そんな気がする」
「そうなんだ」
それから僕と彼女の間にしばらく沈黙の時が流れる。でも、それを破ったのは僕の方だった。
「今は、寂しい?」
なんとなく僕は質問する。彼女はしばらく考えているように見える。それから首を横に振った。
「今は全然寂しくない。君の傷を舐めたり、こうやって君と話していたら、何だか落ち着くような気がしてきたの」
「僕と?」
「そう。なんだか安心するというか、それよりも楽しいというか……あ、昨日は君のこと無視してごめんね。私よく雄の猫から話しかけられるんだけど、ろくなことは無かったから。でも、ハクを助けてくれた強くて優しい君なら、もっと一緒にお話ししたいって思う。なんとなく」
僕はまた照れくさくなる。猫ではなく人間だったら、顔が赤くなっていただろう。
「僕もミウと話し合いたい。楽しくなりそうな気がするから。なんとなく」
それから二匹は互いに笑いあって話し続けた。好きなエサだったり、誰かに飼われているのかだったり。それから好きな異性についても話し合った。僕は彼女を暗示して答えたつもりだった。ちょっぴり冷たいところがあるけれど、本当は優しくて、何だか一緒にいると心が温かくなる、そんな性格の持ち主かな、と。僕は少しドキドキして、目が泳いでいて、時々横目で彼女を見つめる。彼女はしばらくの沈黙の後、ふふ、と笑った。そして彼女は言う。
「私もね、強くて、やさしい心の持ち主は好きだよ」
ここでこの日の夢は終わった。僕は重たい瞼を開け、時計を確認する。午前8時ちょうど。そろそろ支度をしなければならない時間だ。ゆっくりと体を起こし、背伸びをする。その時に僕は心臓の動悸が早くなっていることに気付く。さっき夢の中の出来事が、フィードバックして鮮明によみがえる。もしも、相手が浜ちゃん先輩なら……ついついそんなことを考えてしまう。
学校に着いて、僕は二階にある教室に向かう。生徒数が僕と浜ちゃん先輩の二人だけのこの学校はいつもがらんとしていて、でもその割には十分すぎる大きさがある。ふと通りかかった中学3年の教室を廊下側から覗くと、もうすでに自習をしている先輩の姿が見えた。僕は一瞬立ち止って、振り向いてくれることを期待する。それだけでも何だか嬉しいのだ。だがそれは僕のわがままに過ぎない。彼女は黙々とペンをはしらせている。僕は諦めて、そのまま教室へと歩き出す。
お昼休み、僕は久々に中庭で食べることにした。桜の木の下にあるベンチに腰を掛け、自分の頭上を見上げる。葉の間から差し込む静かで、きらきらとした木漏れ日の光が僕の目を射る。しばらくそれを眺め、深くため息をつく。そしてゆっくりと頭を下ろす。すると、浜ちゃん先輩が僕の目と鼻の先で顔を近づけていた。うわぁ!と僕は驚いて思わず顔を退ける。
「なにぼんやりしてるの?」
彼女は微笑みながら尋ねる。
「先輩こそ、どうしてここに……」
「あれ、ここにいちゃいけない?せっかくお昼を一緒に食べようと思ったのに」
「あ、いやいや」
僕は体の前で手を振り、ベンチの端による。先輩が隣に座って、鞄からピンク色の弁当箱を取り出す。何だか気持ちがそわそわして落ち着かない。隣で先輩はやったー今日はオムライスだ!と、にこにこしながらスプーンで食べ始める。僕は持参したサンドイッチをあまり噛まずに飲み込み、思わずむせそうになる。
それから二人とも食べ終わり、さて何をしようという雰囲気になる。まだ午後の授業までには時間がある。隣から先輩の鼻歌が聞こえてくる。僕は何か話題はないかと頭の引き出しを忙しく探し回る。でも、なんだかピンとくるものはなかなか見つからない。すると、先輩がつぶやくように言う。
「私ね、昨日素敵な夢を見たの」
「素敵な夢?どんな夢?」僕は少し興味を持って尋ねる。
「えーとね……」先輩はしばらく考える素振りを見せて、僕ににこっと笑う。
「な、い、しょ」
「えーー」ちょっと残念。
先輩はそれから立ち上がり、先生に質問があるから、と言って校舎に入ってゆく。
ゆっくりと風が吹き、木の葉がこすれあう音が響く。僕はこの久しぶりのひと時に、今にも叫びたくなるくらい心が躍っていた。
夜になって天気が変わるのが分かった。風が少し強くなり、月が雲の後ろに隠れる。そう、台風が近づいていた。予報では明日の夕方ごろから激しい暴風、高波、降水に注意とのことだった。そして今夜も不思議な例の夢を見る。
僕と彼女はあの海に臨んだ防波堤の上で話し合っていた。二匹の間には何の隔たりもないように心のうちから笑いあったりして打ち解けあっている。時折強い風が吹き、思わず身をかがめる。今日は空がどんよりと曇っている。
「もうすぐ天気が荒れそうだ」僕は遠くを眺めながら言う。
「そうだね。でももうちょっとだけお話していたいな」
「ああ、もちろんいいさ。雨が降ってきたら、あの桜の木の下のベンチにでも隠れよう」
「わかった」彼女は喜んだ素振りを見せるようにしっぽを高く上げて揺らしている。
それからしばらく話し合っているとぽつぽつと雨粒が地面を濡らし始めた。僕らはベンチの方へ移動しようとする。その時僕はふと唐突にある質問をしたくなった。
「ミウは、この海の向こうに何があると思う?」
彼女は進めていた足を止めて僕を振り返る。
「この海の向こう……」彼女はしばらく考えている。雨が少しだけ強くなる。
「僕はこの海の向こうに行きたい。そこには僕の知らない世界があるはずだ。君はどう思う?」
彼女は黙っている。それから彼女はぽつりと言う。
「私、今なんだか寂しい。君といるはずなのに、心が何かで締め付けられようとしている……
もしかしたらね、私」
彼女は言葉をいったんそこで区切って僕の目をそれから見つめて言う。
「君と離れたくないのかもしれない。すると、君は一緒に来ないかと私に言うかもしれない。でも私はここが好き。この島が好きなの。だから私は行けない……。この島で暮らしていきたいの。そんなことを今私は胸の中で感じている」
僕は口をつぐんでしまう。彼女の目はしっかりと僕を見据えていて、僕にも彼女の心の内が伝わってきそうな感覚になる。
「僕だって君といたい。今だって不思議な気持ちだよ。まるでどこかで操られていたかのように君に僕は出会った。そして離れられない関係になってしまった。もう僕にはどうすることもできない。僕は君が望むことならなんだってできる感じがする。とても強く」
僕もしっかり彼女の瞳を見つめる。
それから僕らはお互いに身を近づけてキスをする。猫同士のキスなんてあんあまり愛が感じられないかもしれない。しかしこの時の僕は、僕らは、心の底から深い愛情を実感していた。
ただ離れたくない一心で、僕らは長く、くちびるを重ねあった。
その時だった。
「よお、お取込み中もうしわけないけどよう」
低い声が僕らの間に割り込んできた。見るとそこにいたのはクロである。
僕はすぐさま威嚇の体制に入る。同時にミウは僕の後ろに隠れる。
「なんの用だ」
「おいおい、そうピリピリするんじゃねえ。素直にしてくれればお前さんには何もしないさ。あのよう、その子おれにくれねえか。めちゃくちゃ可愛いじゃん。すっごく体つきもいい。俺様は今、やりたくてうずうずしてるんだよ」
クロは不気味に舌で唇を舐める。まるで、目の前にご馳走があるかのように。息も荒く、興奮しているのが分かる。本能的に生きているクロには、何と言っても無駄だ。
僕はクロの言葉を無視して威嚇し続ける。
「おいおい、素直じゃねえなあ。仕方ない。手加減はしねえぞ、悪く思うんじゃねえ」
クロの目つきがかわり、鋭くなる。目はたちまち充血し、黒い毛が逆立つ。
両者は低く唸り声を上げ、にらみ合う。体前方を低く構え、それから爪を立てる。
そのままの状態がたぶん20秒ぐらい続いて、ついに僕は先制を突くように勢いよくクロに噛みつく。しかしそれより一瞬早くクロも身をひねり、急所に噛みつかれるのを避ける。再びにらみ合い、またすぐに両者は牙を立てた猛獣のごとく互いの腹に噛みつきあう。血がにじみ出る。それが防波堤のコンクリートにこすれて赤色に染める。僕は下敷きになって、全身の動きを封じられる。クロの重みのあるパンチが僕の顔面を爪で深くえぐる。僕は避けることができなかった。ただエネルギーが限りなく0に近づいていることが分かった。呼吸が荒い。それからだんだんと意識が薄れてゆく。クロは僕の状態を悟ったようににやりと笑った。そして、そばにいたミウに近づいていく。
「待て……」僕のかすれた声は、雨の降る音にかき消され、弱弱しく風に流される。
ミウはだんだん近づいてくるクロから後ずさる。しかし、そこには荒波の海が待ち受けている。
「さあ、こっちにおいでえ。楽しいこといっぱいしよう」クロはのしのしと足を進めながら不気味な声で言う。
「誰があなたなんかに……」ミウの声は震えている。
「おやおや、素直じゃない子はおじさん嫌いだよ。そういう子には無理矢理教えつけるしかないみたいだ。でも、女の子に手を出すのは気が進まないねえ」
クロはミウの耳元で、狂気じみた声で囁く。
「ねえ、助けてよ……ねえったら!」おびえて泣きそうになっているミウの声が、強い雨の音に溶け込んで海に投げられる。
「くくく、無駄だよ。君のボーイフレンドはもう、くたばったみたいだから。かわいそうにねえ。でも、おじさんの方がもっと男らしいよ」
そう言ってクロはミウの顔を下で上から下までゆっくりと舐めた。
「ひっ」もうミウには心が折れそうで、震えあがっていた。彼女のまなざしは、向こうでぐったりとしている僕に向けれられていた。僕はそれを、かすかに感じていた。しかし、外界との距離がだんだんと遠ざかってゆく。これでおしまいなのか?僕は負けるのか?
その時だった。ミウの精一杯の叫び声が聞こえる。僕の名前を呼んでいる。それは深い僕の耳の奥底にまで届き、僕の目をはっと開かせる。眠りかけていた僕の力が再び沸き起こる。
「起きて、りゅういち!」
そうだ、僕は隆一という名前なんだ。そして彼女は僕の名前を知っている。僕が好きになれる女性はあの人しかいない。僕は声の方に電光石火のごとく駆ける。雨や風は僕の意識の中にはなかった。ただ五感すべてが、目の前のクロだけに集中している。僕は頭から、クロの脇腹に突進する。予知もしていなかったクロはバランスを崩し、力の加えられた方向に吹き飛んでゆく。僕も、もう体を押し留めることができない。両者は宙に舞う。そして、勢いよく海の中に消えた。
浜田未海はベッドからゆっくりと目を覚ます。彼女は夕べの夢をあまり鮮明には覚えていなかった。なぜなら、あまりにもいろんなことが起こりすぎて、頭の整理がついていないみたいだったからだ。しかし彼女は、自分の心臓が早く動悸を打っていること、さらに頬が濡れていることに気付く。これは……思い出そうとすると、変に胸が鉛を含んだかのように重く感じる。
とてもいい夢とは思えなかった。
普段どおり、朝8時30分ごろに登校する。なんだか今日はペンを持って集中することができない。ペンを置き、中学2年の教室に向かう。そこには誰もいない。しばらく待っていることにする。9時になる。授業が始まろうとしていた。しかし、誰もこの教室には現れない。
諦めて自分の教室に向かう。すると、先生が少し機嫌悪そうに待っていた。しかしそんなことは気にしない。先生に、佐原君のことを尋ねる。風邪でもひいたんでしょうか、と。すると先生はしばらく黙って言う。朝になっても起きないみたいだ。まるで寝ながらにして意識を失っているみたいに、と。彼女の動悸が朝よりもまして、早く打ち出す。そして彼女の脳裏に、一匹の三毛猫が浮かんだ。そして荒波の海の中に消えたその瞬間も。
彼女は急に立ち上がり、教室を飛び出した。自分はどこに向かっているのだろう?ただ足が高速に回転して目的地までいざなう。上履きも履き替えずに、学校を出る。そしてしばらくして彼女の足は止まる。そこは近くの防波堤。防波堤の上で、彼女は猫の姿を探すために目を凝らした。それはなかなか見つからない。台風が過ぎて間もない海は、まだ潮も高く流れが速い。
ふと、流木が西のほうへ流れてゆくのが肉眼で確認できた。西には、たしか砂浜があったはずだ。彼女は再び走り、砂浜に到着する。
そこには、彼女が飼っているシャムネコと、倒れている見知らぬ三毛猫の姿があった。シャムネコは、私の姿を見て、駆け寄ってくる。いつの間に家を出ていたのか、そんな疑問が浮かんだが、すぐに振り払い、三毛猫の元に向かう。三毛猫はぐったりとしていて、息も浅い。目は重く閉ざされていて、腹部からは血が流れている。早く処置しなければ……しかしこの島には獣医はいない。小さな診療所で、一人医者がいるだけだ。彼女はそっと三毛猫を腕の中に抱える。今にも止まりそうな息の音が、掌に伝わってくる。しかし、彼女にはこうすることしか何もできない。ただ、この三毛猫を助けなければ、隆一がどうなるのか。彼女には何となく既に分かっていた。
「お願いだから……目を覚ましてよ、隆一」
彼女はつぶやくように言う。そして自然と瞼から涙があふれてくる。その涙は両頬を伝い、顎で一つになって三毛猫の顔に零れ落ちる。何度も。
浜辺に打ち寄せる波が、一瞬だけ止まったように彼女は感じた。いや、ここにあるすべてのものが動きを止めたような感覚だった。
彼は目を開けた。まぶしさに目を細め、何度も瞬きをしていた。そしてその瞳は彼女を見つめている。そしてミャオ、と鳴く。まるで、ただいま、とでも言うかのように。
翌日、彼女は学校にいつものように向かう。そして、中学2年の教室に足を向ける。
そこには一人の少年が、椅子に座って窓の外を眺めている。彼女はドアを音を立てないように静かに開ける。そして彼の背後にゆっくりと近づく。
明かりはついておらず、差し込む朝日のみが教室をほのかに明るくしている。開いた窓からゆっくりと風が吹き込み、カーテンを静かに揺らしている。彼は足を組みながら、そっと座っている。
「隆一おかえりなさい」彼女は言う。
「ただいま未海」彼は振り返って彼女の目を見つめる。
不思議な夢の出来事が、ここですべて共有されて、一つになる。
彼は彼女の手を取って、カーテンの裏に連れてゆく。そして、二人の影が少しだけ重なった。
この作品は、自分が初めて作ってみたものです。
稚拙で分かりにくかった部分もあると思いますが、読んでくれた方にはありがとうございました、と言いたいです。