Act2:都合の悪い約束
叶わない望みを抱いている。
それは理想と呼ぶのが相応しいのかもしれない。
儚いその姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
叶える術はないからこそ、違う道を選ばなければならない。
「雫、グーでパンチはないだろ」
殴られた頬を軽く抑えてハーガンを抗議の意を込めて睨むが、慣れているからか雫はなんの痛痒も感じないと、ツーンと顔を背ける。
「もう一発殴られたい?」
「殴られて喜ぶ性癖は生憎持ち合わせていない」
そうであれば、目の前でムッと顔を歪めて拳を握りしめている姿に心が高揚するだろうが、殴られたら痛いとしか思わない。
「っで、話を要約すると、ハーガンがバイトしてる学校での補講?みたいので実戦訓練?みたいのがあって、それのフォローを任されたが、なんか知らないけどハーガンが担当してるクラスが負けたら敵方のチームの女教師と付き合うと約束してて、角を立てたくないからどうしても勝ちたいので助っ人を用意したいが、付き合ってくれる人がいないので私を連れてきた、と?」
「あー、まぁ、大体そんな感じ」
雫が淀みなく一息で先程、ハーガンが説明したことを聞き返すと、ハーガンはちょっと違うんだけどなぁ、と言いながら頬を指先で掻いた。
「超、私事よね?」
「まぁ」
「その人と付き合えよ」
良い機会だ、と雫はベッドから立ち上がった。
「うちの連中は認めないと思うぞ、ああいうの。それに、俺が好きな訳じゃないんだよ。俺の持っている肩書きが大好きなんだ」
ハーガンの言葉を聞きながら雫は改めて部屋を見渡した。可愛らしい、言うなれば雫の好みの部屋であるが、長居はするつもりはない。
「丁度良いし、政略結婚したら?」
「俺は結婚は好きな子としたいの」
シビアなリアリストとは思えない台詞に雫はクローゼットに伸ばした腕を思わず止めてしまう。
「うわぁ……夢見がち」
「あのな、普通はそう思うだろ?それに、お宅達と違って、俺は社交的で通ってるの。女の子を振るなんてそうそう簡単じゃないし、フォローも難しい。うちは、ああいう腐った特権階級で生きてるから身軽じゃないの、分かる?」
人形師である雫は他の人形師と比べると交流が極端に少ない。独りで出来る仕事だからか、協調性はないし他の人形師や魔術師からの噂など気にならないし実害にはなりえない。だが、魔術師協会に席を持ち、それ相応の立場のハーガンは身動きが取りにくいと言えば、取りにくいのだ。
「それはそっちの事情でしょ、私は関係ないわ。帰る」
「えー、助けてよ、雫」
悲壮感の欠片もないハーガンの声に雫は頭を振る。
要領の良いハーガンの事だがら手助けなど不要だろう、とあっさりと雫の中でハーガンを助けるという選択肢が消える。
「どうやって帰るんだ?」
「っ………脅すの?最低ー」
取り敢えず部屋から出ようとしていた雫は、ハーガンらしからぬ言葉に眉を顰める。
「まぁ、このままだと一方的過ぎるし取引しようか」
取引、と言う言葉に雫は胡乱な目でハーガンを見詰めてしまう。
「えー、ファリド居ないのに交渉事なんて無理なんですけど」
人生経験が乏しいことを差し引いても、腹で何を考えているのかを察して交渉事を進めるなんて雫には到底無理な話である。
「別に難しい事じゃないだろ?今回助けてくれたら、そうだなー、今度雫、人形師協会主催のパーティに絶対来るようにって理事から厳命されてるだろ?」
「げっ」
先達て届いた封書の内容を思い出し、雫は思わず声を漏らしてしまう。
仮病などを使い回避してきたが流石に大目に見ることも出来ないのか、今度の交流会には必ず来るようにと言われている。来ない場合はそれ相応のペナルティが課せられる。
「爺共の防波堤代わりに一緒に行っても良いよ」
「むっ……ファリド達に付いてきてもらうし」
ほんの少し心は動いたが、折れるには至らず雫はいつものようにファリド達と行けば問題がないとハーガンの言葉を退ける。
「人形師に人形が付いてくるのは当然だろ。ああいうのは、如何に自分の交友関係があるかとかを見せびらかして牽制する為にあるの。それは魔術師も人形師も同じだろ?ボッチだとなんか言われるぞ」
「うぅっ……――」
前回参加した時の事を思い出し雫は唇を噛みしめる。唯でさえ、人が集まるところは苦手なのに、チクチクと文句を言われ、腕は良いのに人間性が云々と罵られ、挙げ句、人形とどちらが主か分からない、とまで言われ、その催しから一週間は心神衰弱によりベッドの上をゴロゴロとせざるを得なかった。
「それは、有り難いけど――」
「此処にいる間の衣食住は俺が責任持つし、身の安全も保証する。この部屋だって、一応学生達が使っている中で一番良い部屋選んで模様替えもした。本当は天蓋付きのベッド運び込もうとしたけど、天井低いから無理だった。でも、クローゼットには雫に似合いそうな服沢山用意したし、化粧品も前、俺の家に来た時に気に入ってくれたってやつを調合させた――」
「………なんか、至れり尽くせりで申し訳ないんだけど。自分で言うのも何だけど、戦闘能力皆無よ。ファリド達に参加させれば良いじゃない」
少なくとも雫は一般人よりは強いが、ファリド達と比べれば話にならない弱さである。戦闘が必要な訓練ならファリド達の方が適任である。
「そうなんだけどさ、流石に人形は規格外で反則だろ。助っ人に関して規定はないけど、モラル的にアウトーになりそうじゃん」
「……私、何も出来ないわよ」
心身共に弱い事をを認めている雫は、足手纏いにしかならないとハーガンに暗に告げるがハーガンは頭を振る。
「魔術師の卵の一年生なんてもっと凄いぞ、色んな意味で。大丈夫だよ、雫を傷つけられるようなレベルの奴は居ない。まぁ、例えるなら雫がレベル99の勇者で、後はレベル1の村人って感じか、安心しろよ」
経験の差や、実力の差があるのならば問題はないか、と雫は納得しかける。実際、ハーガンにどうにかしてもらわなければ日本に帰ることは出来ないのだ。此処までお膳立てされて無碍に断るのは申し訳なく思ってしまうのが、小心者たる所以なのだろう。
「分かった、ハーガンの手伝いを――」
「バスルームには雫が使ってる日本製のシャンプーとかも揃えてるし、雫肌弱いだろ?だから、柔らかい綿のボディタオルも用意してる。下着も用意したし、ああ、ちゃんと肌に優しいやつな。他にも、欲しいものがあったら――雫?どうした?」
顔を俯かせてフルフルと肩を震わせている姿にハーガンは、首を傾げる。何か問題発言でも言って雫のモチベーションを下げてしまったか、と不安になってしまう
「…………っ、なんでそこまで用意するのよ、変態っ!!エッチ!!馬鹿馬鹿馬鹿ぁ」
ポカポカと涙目で殴ってくる雫に、ああ、デリケートな所まで触れてしまったか、とハーガンは漸く気付く。快適に過ごして欲しかっただけだが、雫にとっては嬉しさよりも恥ずかしさとか申し訳なさが先に立ってしまったのかと軽い拳を受け止めながらハーガンは考えた。
「大体、洋服用意したってどうしていつもサイズがジャストフィットなのよっ!!変態!!下着とか用意するっておかしいでしょ」
「普通に着替えに必要だろ。大丈夫、可愛いのちゃんと選んだ、きっと気に入る」
親指を立てたハーガンに雫は一層体を怒りで震わせた。
「変態、変態!!」
手近のクッションを雫は投げると避けるか受け止めると思ったハーガンは呆気なくぶつかりその反動で背後のベッドに飛び込む。
「ちょっ、ハーガン?」
「はい、捕まえたー」
心配そうに近寄ってきた雫の腕を掴んでハーガンは雫を引っ張り、抱き寄せる。
「うわぁっ」
足を滑らしてハーガンの胸に飛び込んだ雫はさっさと体を起こそうとベッドに手をつくが、それを許さないかのようにハーガンの手が雫の腰に回される。
「へっ?」
「雫ごめんね」
その一言の意味を問う暇もなく抱き竦められる。
「先生、予定の時間は過ぎてますよっ!!」
ノックもなしにドアが乱暴に開かれ、廊下の光が部屋に差し込み雫は眩しさで一瞬、気が遠くなりそうだがそれに耐えて声の主に目を遣る。
「先生っ……――」
栗毛色の肩までのボブに薄い青色の双眸、高い鼻梁に薄紅色の頬、形の良い唇で高身長の少女が、信じられないものを見るかのようにハーガンを見詰める。
「ああ、ごめんね。もう少し時間が掛かりそうだから先に行っててもらえるかな」
「はっ……はい」
戸惑いの眼差しでハーガンを見詰めた少女は、雫に目を遣り憎悪とも、嫌忌とも付かない感情を向け、一度ドアから離れた体を躊躇いながら引き戻した。
「先生、その子供……は?」
少女の消えそうな声に雫はハッとしてハーガンから密着している体を離そうとするが、腰に回されたハーガンの手が緩められることはない。
「ちょっとね……――」
言葉を濁し、如何にも意味ありげに目を伏せたハーガンに抗議しようと雫は口を開こうとしたが、体に走った悪寒に恐る恐るハーガンに目を遣る。
――余計なことは話すな
何よりも雄弁に語っていたその双眸に気圧された雫は小さい体を一層縮ませた。
「……先に、集合場所に行ってます」
静かな声でそう紡いだ少女が去り際に向けた視線に雫は苦笑いした。
嫌悪や憤懣の入り交じった双眸は、ハーガンを慕っていることから来る嫉妬であると、以前の経験から雫は知っている。ハーガンや他の見目麗しい友人の傍らに立てばいつだってその視線が責めるように体に突き刺さるのだ。
そう、あの可愛らしい少女は嫉んでいた。
「ハーガン……あの子、来るの知ってたの?」
少女の気配が遠ざかったのを確認すると雫は緩められたハーガンの手から逃れる。
知らず責める口調になってしまったが、雫は訂正するつもりはなくハーガンを睨んでしまう。
目の前の男の賢さと、何処までも人を利用とする性質は永遠に相容れないと改めて思ってしまう。好意を鬱陶しそうに振り払うその姿は、好意を欲している雫からすれば到底理解できない姿である。
「まぁね。何かに理由付けて来るからな。今回だって成績優秀の彼女は自主参加だ。それに、此処は本来俺が使うはずだった部屋。それに、俺言ってないだろ?俺に好意を持って色目を使うのは一人だって」
「たっ、確かにそうだけど……――」
これでは初めに提示した条件とは掛け離れて居るではないか、と雫は密かな不満を心に抱くが口に出す勇気など到底なく、ムッと唇を歪めることしかできなかった。
「大人はまだしも、子供の振り方は難しいからな。深く傷つけたら、一生の傷になるだろ」
お前なら分かるだろう、と暗に告げられた気になってしまい雫はそれ以上文句を言うことが出来なくなってしまう。
覚えのある痛みが胸で疼く。
締め付けられた胸は気道を塞ぎ、呼吸を難しくする。
「女除けになれって事?」
「んー、ちょっと違うんだよな」
女除けにはならないだろう、と流石に口にするのは憚られハーガンは曖昧に言葉を濁すことしかできない。
普段であれば、雫が“白鞘”であることを知ればある程度の良識を持ち、分を弁えている者は身を引く。だが、魔術師の中で“白鞘”の名前を迂闊に出して危険に晒すつもりはハーガンにはない。加えて、日本人の雫は幼い。実際、先程子供と評されているが、雫はハーガンよりも寧ろ年上である。その誤解を解くのも面倒である。雫から言わせれば外国の子供の大人っぽさがおかしいと言うだろうが、ハーガンからすれば未だに可愛い物が好きで、小動物を彷彿させるような動きをする雫に非があるとしか言わざるを得ない。日本で出会った雫と年の変わらない子達はあどけなさは確かにあるが、それでも大人の女性であった。内面の幼さが外見に滲み出ているとしか言えない。
「意味分からないんだけど、一体何なのよ」
「まぁ、分からなくて良いよ。生徒達にはお前の素性伏せるし、混ざってもらうし」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を発した雫に、もしかして、とハーガンは雫に確認の意味で目を遣る。
「生徒になってもらう」
誤解を解くために、言葉を重ねた。
「ちょっと、待ってこの年であんな若い子達に混ざれって言うの!?無茶よ、無茶!!私、もう20は優に超えてるのよ!?」
生徒に混ざるのではなく指導官のつもりだったのか、とハーガンは誤解をしている雫に最高の笑顔を作った。
「雫たんなら制服着ても大丈夫!!童顔だから」
グッと親指を立てて笑えば、雫はがぁーっと訳が分からない声を喚いて頭を抱えている。動物園の珍獣を見ている気分になり、暫く様子を観察したいがそう時間もないのでハーガンは大人しく声を掛けた。
「大人しく、制服着て教授陣に挨拶に行こうー」
「絶対、嫌っ!!この年になって制服なんて……コスプレじゃないっ!!しかも、スカートでしょ?絶対、嫌」
「雫たんの生足、ハァハァ」
「変態っ!!断固拒否する」
「えー、サイズもピッタリなのに」
「いつ、何処で測ったのよっ!!」
「見れば解るだろ、大体」
「んっ~、変態変態!!絶対嫌ぁぁぁぁっ」
■■■
厄介な相手と関わった、と認識することを自分の中で諦めと同時に受け入れたのは先達てのことである。
バイトのチューター――そんな存在を今迄幾人も見送ってきた。ある者は、金の為。また、ある者は魔術師協会での伝を広げる為、態々面倒なチューターを引き受けていた。だが、今回のチューターは少しばかり毛色が違った。
名門家出身の為、金に困ることもなければ、魔術師協会での立場も盤石なものである。抑も、魔術師という存在は“永遠”に至る為に自分の作業場――工房に篭もっているのが常である。研究への金銭が無くなれば異端狩りなど、魔術師協会の私事を請け負って報奨金を稼ぐこともありえるが、“永遠”を目指す魔術師の大半は篭もりきりである。普通の魔術師は他人へ、自分の知識を渡すなんて事は取引なしでするわけはない。こんなチューターをするぐらいならば、環境が整っているならば迷うことなく研究に没頭するだろう。“永遠”へ至る道を己で閉ざした者は教職に就き、次代の育成、魔術師の輩出に努めることもある。実際、クーエン・シャーンドールはそのタイプだった。凡才な自分に見切りを付けて積極的に魔術の研究はせず、指導者としての才能を開花させた。
出自も才能も全てに差がある、羨望すら抱く気力すらない相手――ハーガン・フォン・トリップスの行動は理解できなかった。それが凡庸と傑物の差だと言うのならば、諦めなければならない。
「クーエン先生聞いてます?」
ハーガンの声にクーエンは思わず飛ばしてしまった意識を現実に引き戻した。
目の前には、扱いに困るハーガン、そして見覚えがあるが決してこの場では見てはいけない少女の姿があった。
「ああ……嫌と言うほど聞いている」
「お家に帰りたい、お家に帰りたい、お家に帰りたい――」
光彩の無い目で顔を俯かせ、呪詛の如くブツブツと呟く少女はスカートの裾をギュッと掴み小刻みに震えている。その姿にクーエンは同情すら感じる。だが、それはその少女が何も知らない一般人であればの話である。
「雫、ほら、教授ちゃんと聞いてないみたいだから、もう一回自己紹介しなよ」
それは、今日の天気を告げるような気安さで、告げた当人以外が硬直している事が異常さを示しているだろう。
「……いや、先刻聞いたから良い」
「えっ、でも、先生、生返事だし、雫こんなんだしあんま聞き取れなかったのかなぁ、と思って」
なぁ、と同意を求めるように傍らの存在に水を向ければ、少女は小さな体を一層萎縮させ震える。
傍から見なくても、或る意味プレッシャーを掛けている苛めに他ならない。
『まい ねーむ いず しずく しらさや』
拙い英語よりも問題は名乗った名がクーエンにとって問題であった。
初めは、あまりの英語の酷さに驚いたが名前を頭に受け入れた瞬間、全力で脳が拒絶をした。
補講に知り合いを連れてきたいと言ったハーガンの言葉を容認したのはクーエン自身である。だが、誰が人形師をを連れてくると思うだろう。魔術師の学校に人形師を連れてきたと上層部に知られれば唯では済まない。
「なんでよりにもよって……――」
怯えた様子から巻き込まれたと推測される少女をクーエンは無意識に睨んでしまう。
白鞘雫――最高級に分類される人形の人形遣いであり、当人も腕の良い人形師。そして、他の人形師と同様に極度の引き籠もりであり、公的な場所に姿を現すのは稀である。魔術師協会との関係も他の人形師に比べれば良好な極めて優秀な人物。
協会の権力闘争に興味がないクーエンですら知っている人形師である。交流会で偶に顔を出せば、それこそ珍獣並みの扱いを受け、見かけたら運が上がるとまで言われている。ハーガンよりも年上の筈だが、幼く――否、学生達よりも幼く見えるのは東洋人の神秘だろうか、と詮無いことをクーエンは思ってしまう。
「お家帰る。お家帰って、お布団モフモフするっ」
「雫、取引したのに我が侭言わないの」
涙目で呟く雫にハーガンはにべもなく告げ、クーエンの反応を窺うように目を向ける。
「先生、許可しましたよね?」
言葉を促すようなハーガンの声は穏やかなその双眸は欠片も笑っていない――どころか、有無を言わさな威圧感がある。
「……だが、上層部が――」
教授としての立場上の言葉を力なく紡げば、ハーガンはニコリと笑った。
「大丈夫です、話は付けましたから」
既に過去形のハーガンの言葉に、やりにくい、とクーエンは唇を軽く噛む。
家柄的にも今迄の功績もハーガンの方が遙かに上であり、どう足掻いても太刀打ちは出来ない。分かりやすく言えば年下の上司に叱られる部下である。
「生徒達には影響が悪いから……一応、名前は伏せてくれ」
魔術師の卵が、謂わば真逆の立場にいる人形師の名前と顔を知っているわけもないが、もしもと言うことを考えてクーエンは言葉を添えた。
「はーい。雫、良かったね。制服も似合ってるよ」
ポケットから取り出した携帯電話のカメラを制服姿の雫に向けてシャッター音を部屋に響かせているハーガンに掛ける言葉無くクーエンは緘黙せざるを得なかった。
「撮るなぁ、こんなコスプレ嫌っ、せめてズボン、いやジャージで良い!!」
「却下。雫ターン可愛い」
ハーガンの手にある携帯を奪い取ろうとピョンピョンと雫は跳ねるが、リーチの差と身長の差で残念な結果になっているのをクーエンはぼんやりと見守った。
「外国人怖いっ、帰る。言葉通じないとか無理、絶対無理」
「あー、雫、本当、馬鹿で可愛いな」
「馬鹿じゃない。馬鹿って言う方が馬鹿だしー」
「あはは、じゃあ、顔合わせと行こうか――」
嫌がる雫を引き摺って部屋を立ち去ったハーガンを確認して、クーエンは深く息を吐き出す。
理解は到底出来ないし、永遠に隔意を抱くだろう。
そして、彼女はいい加減会話が日本語で交わされていることに気付くべきであった。
■■■
好奇、嫌忌、憐憫、様々な感情が入り交じった視線に晒されて雫は体を硬直させる。
多くの人に見られる事、それは雫にとって苦痛でしかなかった。
「――……っで、この子が俺の従兄弟の父親の姉の息子の祖母の妹の子供の従兄弟の子供の知り合いの雫」
そう、一息でハーガンが告げると、それまで雫に目を向けていなかった者ですら驚きで目を見開かせ、唖然とした表情で二人を見遣る。
ハーガンの言葉を正しく把握した者は傍らにいる雫を除いて部屋の中には存在しないだろう。結論を言えば、ハーガン若しくはハーガンの兄達を指し示す言葉になっているが、ハーガンの兄達は残念ながら数年前に相次いで他界し、実質、その言葉に適合しているのはハーガンしか存在しない。回りくどい紹介は、つまり、雫は自分の知り合いだと言っているに過ぎなかった。
「雫も今回参加するから宜しく」
強引と言って良いハーガンの言葉に反論する者は居ない。幾ら、主張をする事こそが自身の当然の権利だと思っている学生達でもトリップス家に真っ向から抗う者は居ない。
「質問があるのですが、宜しいですか?」
学生の中でも一際体格が良く、腕力もありそうな青年が手を挙げる。学生服を着用していたから辛うじて雫は、青年を学生だと判断したが、正直私服で街を擦れ違えば自分よりも年上と信じて疑わないだろう。
「ん、何かな?」
青年の言葉を許すようにハーガンは小さく頷いて、言葉を促した。
「その、子供を戦闘に巻き込むのは躊躇いがあるのですが……――」
言葉を濁し、青年の瑠璃色の双眸が雫を見詰める。眸子には困惑と憐憫が彩られているが、容赦なく雫を爪先から頭まで見定めるように凝視する。強い視線に、雫はハーガンの服の裾を掴みそうになるのを押し止め、視線から逃れるように顔を背けた。
「子供……ねぇ、少なくとも雫は君達の中の誰よりも強いし、経験もある。こちら側に置いておいて損はないよ?」
「ですが、道義的に――」
明らかに雫を年端もいかない子供だと誤解しているのか青年は、ハーガンに詰め寄ろうとする。
「魔術師に、ソレは必要かな?」
凛とした、冷たい声だった。
ハーガンのその一言で青年の動きは止まり、助けられなかった事を謝罪するかのような目を雫に向け、嗟悼するように頭を振った。
「少し、俺達だけで話しても良いですか?」
「構わないよ」
ハーガンの言葉に学生達は雫を一瞥すると部屋の隅へと移動をし、意見を出し合っている。先程、ハーガンに可能な限り日本語を使用しろと言われていたが、学生達はそれを気に掛ける余裕など無く、共通言語で話を始める。
雫からすれば分からない言語が飛び交っている状態だが、なんとか知っている単語を拾い上げる。
「ねぇ、今悪口っぽいこと言ってなかった!?」
クイッと袖を引かれハーガンは目を遣ると、眉間に皺を寄せて不機嫌そうな雫の視線とかち合う。
「お前、日本語しかまともに出来ないくせによく分かるな」
ゆっくりであれば英語を聞き取ることが出来たか、と雫の語学力の限界点をハーガンは思い出した。
或る意味、作戦としては正しい。相手に情報を引き出せる為に喋れない風をして、時間を稼ぐのは外交の手段としては良くあることだ。こうやって、相手が自分をどう思っているか、相手に知られずに知ることが出来るのも利点かもしれない。
「やっぱ、言ってたんだ」
ムッと顔を歪める雫の幼い仕草にハーガンは苦笑した。
「いやぁ、言ってないって言いたいとこだったんだけどな……悪口って程じゃないだろ」
「なんか、子供とか年下とか素人とか、女とか単語を拾ったのよ!!っていうか、私の方が年上よね、明らかに」
魔術師学校の学生――つまりは、十代半ばの者が大半であり、日本で言う成人式を迎え、飲酒も喫煙も法律的に許可されている雫からすれば学生達は年下である。
「東洋人の童顔を舐めんな。お前、あいつらにかなり年下に思われてるぞ」
「はぁ!?」
思わず声を大きくしてしまい、雫は慌てて自身の手を口で覆ったが、部屋の片隅の生徒達には届いていないのか目立った行動は見られない。
「あんな小さい子に戦闘参加させるのは忍びないと」
「あっ……そう」
侮られることに、屈辱を雫は感じることはない。実際、雫は己の力を過小評価していたし、何よりも期待され、失望される事に比べれば、見下され、弱い者だと決めつけられた方が余程楽だと知っていた。過度の期待は足枷となり、総身を縛り上げてやがて、縊ることになる。与えられる苦痛を考えれば、非在として扱われることの方が心地よかった。憧憬ではなく矜憐を、有為ではなくを惻隠を、それが他者と衝突しない為の雫の生き方である。自分の力を誇示する事になど、興味もないし、意義を見出すことも出来ない。実力を知られた結果、虚言と言われようが、黙っていたに過ぎない。
「雫、平気?」
巻き込んだ当の本人とは思えないほど優しい、気遣う声でハーガンは雫を窺う。
「別に、馬鹿にされる事も蔑ろにされる事も慣れてる。どうでも良い人に、なんて思われても平気」
それが虚勢であったのならばどれだけ良かっただろうか、とハーガンは胸の中でぼんやりと考える。実際に、本当にどうでも良いのだから、社会不適合者として雫は相応しいのだろう。傷つけられるよりも先に斬り捨てる事を覚えたことを喜ぶべきなのか哀れむべきなのか分からずハーガンはただ、そう、と、しか応えることが出来なかった。
「うん、大丈夫なのよ。結構、頑丈だから」
――これは嘘。
心の中でハーガンは抗言する。
雫の心は脆い。
ハーガンが驚き呆れるよりも先に、軫懐してしまう程に雫は精神的な衝撃を受けやすい。受け流すという好意を知らない為か、害悪をそのまま呑み込もうとする。抑も、人の心にだって許容量が存在する。限度を超えれば呆気なく、壊れるものだ。
「俺から見たら、雫は壊れそうで儚い女の子だよ」
「っ……慰めてくれなくて良いわ」
突き放すでも、疎うでもなく雫の声は静かだった。それが一層痛ましさを増長させる。万人に好かれるような個人的な魅力は雫にはない。だが、ハーガンは雫を気に入っていた。それは紛れもない事実であり、雫にですら否定される謂われはない。
「もっとさ、利用できる者は利用した方が良い。傲慢に、強かになるべきだ」
「っ……困ったわね。私は狡いし卑怯よ。我が侭だし」
それは、己が傷つかない為の言葉ではなく雫の純粋な気持ちであった。
周囲の人間がキラキラと輝いて見える度に、自分の矮小さに心が締め付けられ、誰かに目を向けられることが嫌になった。自分のちっぽけさに苦しみ藻掻いた先に待ち受けていたのは唯の孤独ではなかった話だ。
「ねぇ、小さい頃に先生に言われなかった?“自分がされて嫌なことは他人にしてはいけません”って?」
眼居で尋ねるとハーガンは緩やかに首を振った。
生まれ落ちて育った環境が違うためか、個への執着が二人の間に暗い溝として横たわっている。他者と似通っている事に安心する雫と自己を主張することで個を確立しているハーガンではそれこそ話が合うこともないだろう。
「自分がされたいことをして、されたくないことをしない。それは同質の存在の中では正しい生き方だけど、社会はそういうものじゃないでしょう?何が正しいか分からないじゃない。この年になると、間違えるのも辛いのよ。今更、生き方は変えられないわ……ずっとこうやって間違った方向に努力して、実を結ばず朽ちてきた。器用な人を妬み嫉んだ事だってある。でも、どうしようもないでしょ?」
最後に吐き出した言葉は、鉛のように雫にとって重かった。
「それって、誰にも利用されたくないから利用しないって事だろ?」
明瞭に告げたハーガンは雫を横目で確認し、内心悪態を吐いてしまう。
自分は穢れていると、そう叫んでいる少女が誰よりも無垢なことに苛立ってしまう。どうすれば証明できるのだろうか、と詮無いことを考えてしまう。人の心を目に見える形で引き出すことが出来るのならば、雫は汚れている他者の心にどんな感想を抱くだろうか。もし、救われるのならば、変化の切欠になるのならば、差し出してみたい。
「そうね。利用されたくないわ。損得で考えてしまうから、嫌なの。誰かに傷つけられたくないし、誰の枷にもなりたくない。十分、我が侭でしょう?」
薄い望みに膨らませて、口元に笑みを浮かべた雫にハーガンは否定するように静かに視線を外した。扼腕をしていた手は苛立ちで腕に食い込み、喚き散らしたくなる口をギュッと結び、只管耐える。
「なぁ、それってやっぱり――」
失恋が始まりなのか、とハーガンが紡ごうとした言葉は生徒達の声によって遮られた。
「先生ー、終わりましたー」
「あっ、ああ……」
視線を慌てて雫に戻すが、雫は感情を窺わせない顔で宙を見詰めていた。
「っで、どうなった?」
ハーガンの尋ねに学生達は顔を見合わせた。
「俺が全面的にフォローすることにしました。補講に参加するような連中だし、俺が一番マシかと」
ハーガンに積極的に声を掛けていた体躯の良い青年――イゾルフ・キルヘルは諦めを滲ませた声で告げる。
「そう、良かった」
学生達から漂う負の感情――異物に対する抵抗感を拭う措置もせずハーガンは頷いた。雫の為に言葉添えをするのは容易いが、それは真に雫の為にはならない。守るだけならば、それこそ、あの過保護な人形達で十分な話である。ハーガンが雫に与えたいのは、己の手で掴み取る何かである。誰かによってもたらされたものでも、託されたものでもなく、純粋に独力で得た価値のあるものだ。例え、それが苦痛であり、悲愴が伴おうとも、糧になるとハーガンは強く信じている。
「言っておくけど、足は引っ張るなよな!!っていうか、助けてもらおうなんて思うなよ」
指を突き付けて、茶色の明るい髪を持つ少年ぽさを残す青年の言葉に雫は、小さく頷いた。頷くことしかできなかった。
「迷惑は、掛けないようにします」
誰かの枷になるなど、他者との共存や接触を厭う雫にとっては己の中で最高位に位置する程やりたくないことだ。
幼い容貌に反して、静かな物言いと突き放すような雫の双眸に呆気にとられたかのように生徒達は黙り込んだ。ともすれば、他者を挑発するとも、侮蔑するとも捕らえられるその口吻にハーガンは口の端を上げる。雫の言葉が純粋なものだと誰が額面通り、受け取るだろう。実際、雫に対しての拒否感は上がっただろう。愛想も良くなく、仏頂面で挨拶されれば好意を持てといわれる方が難しいことだ。
「何かあっても助けてくれなくて、良いです」
助けられた面倒になるとの考えに基づいての言葉であったが、その言葉一層、学生達の不信感を煽り立てる。
「本当、雫、コミュニケーション能力やばいよね」
「はっ?」
「昔は、もう少し取り繕うとしてたのに」
思わずハーガンは口を挟んでしまう。
昔から雫は人を苦手としていた。だが、それでも、初対面の人間には穏やかな雰囲気を纏い己を婉娩に見せようとしていた。牙も爪もない、人畜無害だという印象を植え付けようとしていた。例え、その度に心が悲鳴を上げて皹が幾重に走ろうとも無理をして、相手の目を見た。自分が無理をして、相手を立てて傍から見て窮屈になろうともその振る舞いは変わらなかった。その反動で、他者への過度の優しさやおもいやりを放り捨て去っても誰に咎められることではないだろう。ハーガンからすれば、ただの被虐趣味にしか思えなかった。意味のある行為に思える筈もなかった。
「空気読むの大好きな日本人だろ、雫たん」
基本的に雫は弱者に優しいし、冷徹に自分を見せようともそれが張りぼてであることをハーガンは知っているから問題はない。だが、初対面の相手に刺々しい応対は褒められたものではないだろう。
今の部屋に漂う不協和音が戦場にそのまま影響するのは、ハーガンとしては避けたいことであった。雫の為ではなく、己の為に。ハーガンは雫に対して、純度の高い献身もなければ養護心もない。そんな利他的ではなく、打算が合ってのことである。
「取り繕っても、本質は変わらないわ。鍍金が剥がれる前に、教えただけ」
失望が期待を上回るよりも先に、可能性の芽を潰してしまえば絶望に彩られた未来は訪れない、と雫は暗に告げる。それを、嫌と言うほどハーガンは分かってしまう。他者に気付かれない労りに何の意味があるだろうか。自己満足の為だろうと、見返りがないことにどうして心を割けるのだろう。
「……潔いのは良いけどさ、もっと、こう……まぁ、いいか――」
上手く立ち回れと言う方が無駄だと悟りハーガンは嘆息した。抑も、器用であれば敵が増えるような行動は慎むだろうし、なによりも致命的な擦れ違いをしたまま捨て置きはしないだろう。その結果、自分自身を傷つけているのは何よりも愚かしい行為だ。
「何よっ」
攻撃的、否、強さを見せつけて舐められないような仕草をする雫にハーガンは、弱虫、と心の中でぼやく。弱さを覆い隠して、他者を騙すことは欺瞞ではないのだろうか。けれど、虚勢だろうが、相手がそう思いこめばそれで偽りは限りなく真実に近付く。
「その強がりが分かる俺は良いんだけどさ、誤解されるぞ?」
実際、雫の言葉は傲慢とも孤高ともとられる発言だ。しかしながら、当人の突っつけばすぐに崩れる精神面を知っているハーガンからすれば、何ともいえない気分になる。確かに人は、一瞬で相手が自分にとって脅威か否かの判断をするものだ。それが、魔術師という異質な世界であれば尚更である。相手に侮られても良いと言いながら、無意識にそれを拒んでいるのか雫は張りぼての砦を築く。外見と中身が乖離しているのだと、通りすがりの誰が気づくだろうか。
「はぁ……本当にどんな教育されてたんだか」
他者への距絶を増長させたのは間違いなく、雫の傍らにいる人形達だろうが、その中でも幼少の頃から雫の守り役をしていたファリドには責任の大半があるだろう。友人という己とは違う個を求めていた雫に、祖父が与えたのは個があるとはいえ基本的には主人に従順な人形であった。社交性や、交渉術というものとは程遠い生活をしていた雫には難しい話だっただろう。
「はぁ?知ってるでしょ?普通に学校行って、お仕事して、皆と一緒よ?」
小さな言葉を拾い上げた雫はハーガンに、何を言っているのだと訝しげな眼差しを向ける。
「……あー、なんだ、雫は所謂、流行のツンデレというやつだ。暴言は気にしないでくれ。適当に言ってるだけだ」
「ハーガン!!」
咎める雫の声をハーガンは掌を振ることで否定をして、学生達になんとか距離を縮めたいと願いを込める。
「良いから、仲良くしなさい」
保育園で輪から外れている子供をなんとか捻子込もうとする保育士のようにハーガンは雫の背を軽く掌で押して学生達との距離を縮ませる。
「ちょっと、子供扱いしないでよ」
雫のそのまっとうな抗議の言葉ですら、幼い子が背伸びして大人に見せる微笑ましいものを見せるが、ハーガンとは比べようのない短躯だろうとも、実際問題として雫はハーガンより年上である。重ねてきた経験や、潜り抜けてきた修羅場を年齢に換算するべきであるのならば、過保護に育てられ多くの盾を持つ雫は確かにハーガンよりも甘く、幼いだろう。
「今日からよろしく」
この生徒達の中のリーダーと思われるイゾルフから差し伸べられた手に雫は自分の小さな手を礼儀上重ねる。
幾つもの視線に体が貫かれる。
それが、好意であれ悪意であれ雫の体に負荷をかける。
「よろしく、お願いします」
控えめに、雫は笑顔を作り顔を俯かせる。
目に見えない気配の方が余程素直であることを雫はよく知っている。
少し離れた場所から隠し立てもしない純粋な敵意を感じる。
恨まれる理由などない、と突き付けられた悪意の先を窃視すれば、ハーガンのじゃれ合いを目撃した少女が敵意を滲ませ眼精を光らせていた。




