Act1:嵐の到来
Act1:嵐の到来
「あんた、また巻き込む気かよっ!!あんたと関わって良い事なんて一つもないんだよ」
叫ぶようなファリドの声にきょとんとしてハーガンは理解が出来ないと目を瞬かせる。その仕草ですらファリドの苛立ちを膨らませるものだった。
「何に怒ってんだ?あれか、雫に女友達いないから紹介したら、俺のことが好きだったから雫に変な嫌がらせした件か?それとも、ちょっとピクニックに行くって山に連れ出して遭難した事か?あー、それとも――」
「もう良い!!色々と思い出して精神衛生上良くないから、黙ってろ」
肩で息をしてファリドは溜息の入り交じった息を漏らした。
「でも、まだ引き籠もってるんだろ?外でなきゃ、黴生えるじゃないか」
「雫に黴なんて生えるかっ!!――良いことを教えてやろう、魔術師殿」
「あっ、俺別に正式に魔術師じゃ――」
「いいですか」
ハーガンの言葉を遮りファリドは強い声で言葉を紡ぐ。
「日本にはこういうことわざがあります」
――坊主憎けりゃ袈裟まで憎い
「は?」
「おや、魔術師殿はことわざには精通していませんでしたか。ある人物が憎くなるとその人物に関係のある事物全てが憎くなると言う意味です」
「いや、それは知ってるけど……俺、なんかしたか?」
思い至る節がないと首を傾げるハーガンにファリドは殊更丁寧な口調で、怒りを表現するが日本文化に馴染みのないハーガンが理解することもない。
「いえ、あなたは……いいえ、或る意味しましたね。貴方が連れてきたどっかの腐れ魔術師が雫のことを傷つけたという事をお忘れですか?」
「あー、あいつにも悪気はないんだぜ。っていうか、誤解だし、俺としては二人には仲直り――」
「どうでも良い」
きっぱりとした言葉だった。
「事実として雫があんな状態になったのが純然たる事実だ。それ以外、何の言葉が必要なんだよ?」
それまでの軽い遣り取りとは掛け離れた重い、真剣な言葉だった。
「だから、俺も雫のことは気にしてるから外に出したいと思ってるから誘いに来たんだろ」
「必要ねーな」
「だからさー、なんでそうやって擦れ違っただけで全部終わらせようとするんだよ。雫に自立して欲しくないのかよ」
「俺達が居るので問題ない」
「……過保護」
「それが役割だ」
「雫、駄目になるぞ」
ハーガンの言葉に一瞬だけファリドが動揺の片鱗を見せるが即座にポーカーフェイスに戻る。
「最悪の道を潰し、最善を示す。余計な傷は負わせない、そう、約束をした」
遠い昔のことを思い出し、ファリドは懐かしむように自分自身に言い聞かせるように告げる。
「お宅等だって分かってるんだろ、このままじゃ、雫は人間とまともに向き合えないって」「俺達は人間みたいに脆くない、裏切ることもない、幸せに対して不確定な要素は除くべきだって、分からないのかよ?」
「世界を狭めて、目の届く距離に置いておくわけか。んで、何かあったら全力で守るってわけか……そんなの、違うだろ。間違ってはないけど、正しくないだろ」
「……思っている以上に雫は繊細で、硝子のように、直ぐ壊れる」
「じゃあ、防弾硝子にすればいいじゃん」
「……無機物ならそれでいいけど、雫は生身の人間だ」
呆れたように告げるファリドにハーガンは日本語だから理解が難しいのではないだろう、とファリドとの考えの違いを今更ながら気付く。
「鍛えればいいじゃん」
弱いのならば強くなればいい。
脆いのならば砕けないほどの硬度を持てばいい。
ハーガンにとって単純な言葉をファリド達はどうしてか認めようとしない。
「鍛える前に砕け散る。世界の汚いものに対して耐性がない。あいつの中にあるのは正しさだ。正しさが世界の全てではないだろ?」
「んー。逆じゃね?最初にお宅等が“害悪”から守りすぎたから純粋培養なんだよ。今からでも少しは汚れた方が良いって」
「どちらが先かなんて無駄なことだ。ガキの頃ならまだしも、今の状況で人間の根幹はそうそう変わらないぞ。性格の再形成は無理な話だ」
人の精神に無遠慮に手を突っ込んで弄り回せと言うのか、とファリドはハーガンを睨み付ける。
「いや、別に人格改造しようって言ってる訳じゃなくて、少しは人と関わろうぜって言ってるだけなんだけど」
物事を大きく捕らえ過ぎなファリドに、最悪に備えるのは立派だが本当に過保護すぎるとハーガンは相容れない部分を見つけて咨嘆する。雫を幸せにしたいと考えている、それは恐らく紛れもない感情だ。だけど、少なくとも雫に対してファリドは幸せを与えるものであり、ハーガンは幸せを見つけて欲しいと思っている。それは、決定的な違いだった。
「そもそも、お前の知り合いの品性なんてたかが知れてる」
「うわぁ……バッサリだな」
「前例があるだろ、前例がっ」
唸るような声を発したファリドは何かに気付いたのか振り返り、諦めるように、悔やむように目蓋を下ろす。
「ん?」
どうした、と、ハーガンがファリドに声を掛けるよりも先に階段を下りる小さな音が耳朶に触れる。
「っ………………」
一階まで下りることなく途中で止まった足音は壁から玄関口の様子を窺っている黒髪の主のものだったのか、とハーガンは苦笑した。
「久しぶり、雫」
「っハーガン、どうしたの?っていうか、玄関口で怒鳴り合ってるから何かと思った……」
見知った人物だと安心した様子で階段を下りてきた雫の姿にハーガンは至極残念そうな息を漏らした。
「えっ、なっ何?私、何かした?」
溜息にビクリと肩を揺らしてファリドに確認するように雫は目を走らせると、ファリドは雫を背に庇うように一歩前へ進み出て、喧嘩売ってるのか、とその滅紫色の目が責め立てる。
その姿が、お姫様と騎士を想起させるが如何せん、ファリドはファリドで幼く、少年が一生懸命に背伸びしてますという雰囲気を感じ取ってしまうし、雫は雫で姫とは形容しようがないだらしない服装でぽかーんとしている。
「……勿体ない」
思わず一昔前、世界に浸透した言葉を漏らして目元を手で覆うとハーガンは天を仰いでしまう。
「なんだ、そのやる気のない服装は!!元は良いんだから、やる気を出せ!!ジーパンにTシャツとかなんだ、それっ!!っていうか、髪梳かしてないだろ、寝起きか!?寝起きなのか!?もっと可愛い格好しろよっ」
「えっ……だっ、だって、可愛い服似合わないし。家の中だし……」
ハーガンの勢いに気圧されたのか雫は一歩、後退するとオドオドと言い訳を口にする。
「前回よりはマシだろ」
フォローするようにファリドが告げるとハーガンは目をつり上げて熱弁を振るう。
「ああ、そうだな――ジャージよりはマシだっ!!だが、マシなだけでベストではないっ!!もぅ、お兄さんが洋服沢山買ってあげるから、それ着てよ……マジで」
ぐったりと最後の方は力なく俯いて告げたハーガンの様子に雫はオロオロとするがファリドは動じた様子などなく呆れた目を向ける。
「言っておくが、雫は金は持ってるぞ。ただ、本人が着たくないだけだ」
「尚更悪いだろっ!!」
ハーガンの突っ込みに何が問題なのか分からないファリドと雫は顔を見合わせて首を傾げる。そのシンクロした動きにハーガンは、早く手を打たなきゃ駄目だこいつら、と決意を新たにする。
「あっ……のさ、折角だし家に上がって――」
お茶でも飲まないか、という雫の言葉は最後まで紡がれることはなかった。
「駄目だ」
あっさりと隣から拒否の声が上がったことに雫は驚き、目を瞬かせファリドに目を遣る。
「俺はこいつが家に上がるのは許さない」
ギュッと唇を噛みしめ言い聞かせるようなファリドに、ここまで頑なな様子では頼んでも無理だろうと雫は早々に諦め次の提案を口にする。
「……じゃっ、じゃあ、喫茶店でも」
「駄目だ」
再度の言葉に、じゃあ何処なら良いんだ、と心の中で突っ込みをいれる。
「喫茶店なんて長くくっちゃべるだろ。こいつは公園の水で十分だ」
ビシッと指を突き付けるハーガンは、俺は犬かよ、と、文句を告げるがファリドは気にした素振りはなく雫に向き直る。
「一時間で帰ってこい」
「公園で話せって事?」
「ああ」
「う……ん、じゃあ、ハーガン待ってて」
洗面所へと向かった雫に、髪を梳かす常識は流石に持っていたか、とハーガンは幼子の成長を見守る父親の気分になってしまう。
「一時間で戻せ、いいな」
険を孕んだ声に、態度違いすぎだろう、と口に出しそうになるがそれを押し止めハーガンは静かに視線を逸らした。
「……善処はする」
「おいっ!!」
「あー、分かった分かった」
言い募るファリドに面倒な様子でハーガンは適当に応える。それでも、返事があったことに安堵したのかファリドは詰め寄ることなく静かに待っているだけだった。
「お待たせ、ハーガン」
「雫、これを持っていけ」
洗面所から戻ってきた雫にファリドはポケットから財布を取り出して硬貨を数枚掌に押し付ける。
「ん?お金?」
「ああ、清涼飲料水はあまり飲み過ぎるなよ」
「お前、マジでおかんかよっ!!」
母親が子供にお使いのお駄賃でお菓子沢山買ったら駄目よ、と諭す光景のままではないかとハーガンは思わず口に出すが、雫はきょとんとしてハーガンに向き直った。
「えっ、でも家計の事はファリドに任せてるし。欲しいものはファリドに言わなきゃ買ってくれないよ?」
お前が主だろ、と詰め寄りたいのを我慢するとハーガンは、遠い目をして、そうか、と、一言漏らした。
近場の公園へと雫と辿り着きハーガンは周囲を見渡す。
騒がしくはないが、子供達の遊ぶ声が響いている。平日の昼間に公園がごったかえしていたらそれはそれで問題があるだろう。子供連れの女性、恐らくは親子で遊びに来ているのだろうと判断して、自分達はの姿は似つかわしくなく浮いているのだろうと小さく笑い、ハーガンは目の前でペットボトルを手にして必死にキャップを捩ろうとしている雫に目を遣る。
人を籠絡するような小さな甘い声を漏らして蓋に悪戦苦闘している雫の手からさりげなくペットボトルを取り上げる。ファリドと約束した通り、雫が手にしているのはミネラルウォーターで、不安がるような科学的なものは含まれていないだろう。
何も疚しいことをしようという事でもないのに他人の目を気にしてしまう己を嗤った。
「ほら」
ペットボトルの蓋を容易い力で捩り、先程、んー、と唸り気まずそうな顔で見上げてくる雫に手渡した。
「ありがと……っで、どうして来たの?」
遊びではないのだろう、と言に匂わせる雫の様子にハーガンは、やはり聡い子だ、と心の中で評価をする。
「支部に来た次いでだから心配するな」
支部――魔術師協会極東支部は魔術師協会の出先機関の一つであるが、すでに出先機関と言うには勢力が大きく、邪道ではないが正道ではない魔術師を多く抱えている。欧州に本部を置く魔術師協会にとって扱いづらい集団になっているのも事実であり、日本の魔術師の影響力が大きくなっていた。
「そう。なら、いいの」
小さく頷いた雫にハーガンは、うん、と頷いて同意した。
それは、言い訳――否、実際に支部にも用事があったが、ハーガンにとっての本題は目の前の少女めいた女性だった。
時折、顔を見なければ不安になる。だが、それを理由に訪れれば、嬉しい顔をするものの、申し訳なさそうな様子でいつも顔を曇らせる。自分が他人の行動する理由になりたくないのか、それに伴う責任を忌避しているのか人との距離を広げてばかり居る。
「お兄さんが洋服選んで買ってあげるから、もうちょっと可愛い格好しよ?」
その言葉に雫は笑みを収束させ、顔を曇らせる。
「……似合わないし」
「まだ、気にしてるのか?誰が何と言おうと、好きな格好をして良いし文句言われる筋合いなんてないんだからさ、男装みたいな事やめろよ」
口の悪い友人――否、悪友の言葉を未だに雫は引き摺っている。
それは、則ちその友人が雫にとって“特別”であり、影響力が大きいと言うことだ。
「あのドレスだって、超似合ってたよ」
素直な感想を言えば雫は、気を遣ってくれているのだろうと思っているのか顔を俯かせて小さく、ありがとう、と言うだけだ。
それが、少しだけ腹が立つ。
友人の照れ隠しの言葉を額面通り受け取り、素直な賛辞を退けるのは謙虚と言うよりは、既に卑屈の域に達している。言葉の重さが違うのだと分かっていても得心いかない。
ハーガンから言わせれば、それは誤解であり擦れ違いだ。だが、ファリドから言わせれば、結ばれぬ運命だという。
「そっ、それでさ、最近どう?」
あからさまな話題転換に、これ以上の追求は可哀想かとハーガンは諦めを抱き口を開いた。
「本部の管轄の学校でさチューターみたいなバイトしてる」
「へぇ……ちゅーたー?」
相変わらず英語が苦手なのか日本語丸出しの発音をする雫にハーガンは、澱みのない発音で、tutor、と、発音する。
「へぇ、凄いねぇ」
それは、本部の学校に携わっているからか、それとも人が多いところに身を置いているか、恐らく雫にとっては後者でろう言葉にハーガンは苦笑した。
「雫、今火急の仕事はあるか?」
予めないのは調べていて承知済みだが、ハーガンは態と雫に尋ねた。
フルフルと頭を振った雫に、内心ニヤリと笑ってしまう。
「よし、じゃあ、取り敢えず洋服買いに行こうか」
「はっ?何言ってんの?」
親しい者に対してだけ砕ける雫の口調に安堵してハーガンは雫の手を握りしめる。
「俺は俺の隣にいる子には可愛い格好して欲しいの」
「でっ、でも――」
「俺がそうしたいの。俺は、女の子が男みたいな格好してる方が恥ずかしい」
「っ……――」
態とキツイ言葉を投げれば、ヒュッと息を呑む音が聞こえる。
恥ずかしい、と言えば他人に迷惑を掛ける事に怯えている雫の反論の言葉を予め摘む。
本音を言えば、格好はどうでも良い。だけど、雫のその格好に意味があるのが堪らなく嫌だった。
天秤は未だ傾かない。
それだけが救いだった。
「ほら、行くよ」
軽く引っ張れば雫は大人しく付いてくる。
振り解かれないことに安心したなんて俺だけの秘密だ。じゃあ、一緒に居なくて良い、と憤りではなく諦めを持って雫はあっさりと手を離すタイプだ。
試すようなことはしたくないのに、相応の重さがある事実と、雫の中で斬り捨てられない存在であることに僅かに陶酔してしまう。
「ああ、雫。先刻のは方便だからな、男装姿も可愛いと思うけど、俺はフワフワしたものの方がお前に似合ってると思うだけだ――ちっこいしな」
「小さい言うな!!」
フォローとも言えない言葉に反射的に雫は突っ込む。
それだけで互いの間に漂っていたなんとも言えない空気が吹き飛ばされる。
嘘だと言葉を上塗りしても、きっと、先刻の言葉は雫の心を裂いただろう。それが、少しだけ嬉しくて、悪趣味だと分かっていても口の端が歪むのを止められなかった。
「遅い」
その一言にファリドは心の中を暴かれたようで一瞬動揺するが、それに気付く者は部屋の中に誰もいなかった。
「グルゲス、気持ちは分かるが抑えろ」
椅子に座っては苛々と足を床に何度か叩き付ける様子にファリドは、ハーガンが来た時グルゲスが居なくて良かったと心底思った。いや、今現在雫の人形が自分とグルゲスしかいない事が幸運だった。他の人形がいればもっと荒れただろう。ハーガン自身に咎はない。だけど、憎しみの象徴にあまりにも近しい存在だった。
「遅い、遅すぎます」
「……いや、まだ三十分ぐらいだろ」
自身に言い聞かせるようにファリドはグルゲスを諭す。
「三十三分五十二秒です」
「……あっ、そ」
黒い瘴気を纏っているグルゲスを放っておきファリドは自身を落ち着かせる為、飲み物でも用意しようかとキッチンへと足を向ける。
温かい飲み物でも用意しようとヤカンに手を伸ばし、ふと思い至る。
――あの男は何をしに来た?
警鐘が頭の中で鳴り響く。
いつものようにお土産を持参して雫を外に連れ出す心算をしている。それは行動パターンとして間違っていない。
だが、何か気になることを言わなかっただろうか。
「なんだっけ……」
耄碌してきたなぁ、とファリドはぼんやりと考えながら玄関先での口論を思い出す。
『雫の世界を広げた方が良いと思う』
『友達を作る良いチャンスだと思うんだよな』
まさか、と思う。
だが、心は即座に反駁する。
あの男ならやりかねない。
――ベコッ
掴んだヤカンの取っ手の部分に思わず力を込め凹ましてしまう。歪になったヤカンを放り投げファリドは苛立ちを募らせているグルゲスに叫んだ。
「パソコン起動させろっ!!」
「はっ?」
唐突な言葉にグルゲスは訝しむが、直ぐにファリドの考えを察知したのかパソコンの電源に手を伸ばす。
「雫の現在位置は!?」
まさか、屋敷から半径四キロ以内にはいるだろうとファリドはグルゲスへと近付いて画面を覗き込む。
雫には知られぬように発信器を付けているのは人形同士の秘密だ。それに至るには様々なことがあったが、監視ではなく保護をしているのだと自分達に言い聞かせている。
「ショッピングモール?」
疑問系のグルゲスの答えにファリドは画面と、頭の中にある地図を照合する。
雫の現在位置を示す光は確かにショッピングモールにある。
「……俺の杞憂か、ならいいんだが」
服を買うとか言っていたことを思い出しファリドは自身を納得させようとするが、付き纏う不安はどうしても拭えない。
「まぁ……後少しで帰ってくる筈だし……」
大丈夫だろう、と楽観したファリドの言葉にグルゲスは不満そうに反脣する。
この時、ちゃんと調べれば良かったとファリドが打ち拉がれるのは暫く後の話だ。
■■■
「………………」
「………………」
常に沈黙は重いものではなかったが、この時ファリドとグルゲスの間に流れたのは言葉に仕様のない憎悪ですら入り交じるものだった。
雫さえいれば物静かな屋敷だって、少しは華やぐ。だが、その雫が居なければ部屋はここまで暗くなるし、人形の機嫌だって急降下する。
「だから、言ったのに、遅いって」
咎めるような口調ではなかった、だが、視線の先のものを見詰める双眸は酷く暗い。
「……それに関しては俺も抜かったと思っている」
まさか、よもや、そんな言葉で自分のミスが帳消しにされるとは思わない。これが、自分達に害悪を持っている相手であれば、致命的なミスである。
扼腕し、ファリドは机上に投げ出したそれにツイッと目を走らせる。
視界に留めれば、己の未熟さを証明しているようで苛立ちが深まっていく。
――あの時、引き留めるべきだった。
自身のミスを消すことなど出来る筈もなく、やるべき事は一つだった。
「情報収集だな」
「……さっさと追いかけましょう」
急くようなグルゲスの声にファリドは頭を振る。
「手がかりは何もないぞ」
相変わらず、ハーガンは用意周到であった。
恐らく、ファリドの考えていることも、こうやって雫に発信器が付いていることも分かっていてそれを利用した。
約束の時間の少し前に、異常に気付いたのはグルゲスだった。パソコンで点滅している箇所から雫が動かないことに気付き、嫌な予感に体を震わせた。慌てて駆けつければショッピングモールの業務用のゴミ捨て場だった。
『雫たん、ちょっと借りるから。まぁ、直ぐ返すから心配しないで』
雫の発信器と共に置かれていた小さなメッセージカードの文字は二体の人形の矜恃を傷つけるには十分だった。
「一つずつ潰していけばいい」
居ても立ってもいられないと駆け出しそうなグルゲスを引き留めるようにファリドは頭を振る。気持ちは同じだったが、方針を考えなければ動いても無駄になってしまう。
「俺達は何も知らない。だから、知っている人間に聞けばいい」
「はっ?」
「あの男が何をしているか、何をするつもりなのか、知っている人間に尋ねればいい」
「あっ……――」
ファリドの言いたいことを察したのかグルゲスは瞠目すると、口元を漸く緩め視界の端に留めた電話に双眸を動かした。
■■■
目を開けたら、そこは見知らぬ場所だった。
「……はぃ?」
見覚えのない壁紙。
馴染みのないベッドの感触。
全てが違和感の塊だった。
「どっ、あれ?私っ、んっと――」
「あっ、起きた雫ターン」
ベッド上に起坐し、うーんと唸る雫のことなどお構いなしにドアから機嫌良くハーガンが部屋に入ってくる。
「雫タン、言うな……っで、なんだっけ?」
ぼんやりとした記憶を探るように雫は蟀谷に手を当てて目を伏せる。
引き摺られるようにして連れてかれた衣料品店でハーガンに全身を強制的にコーディネートをされた事は覚えている。事実、今身に纏っている服はその時のものでフワフワとした少女めいたもので実年齢にはそぐわない。それまで着ていた服を棄てるとハーガンに言われて抗議したこと、そして――。
「あれ?」
唐突に、記憶が抜け落ちる。
「もしかして、記憶混乱してる?そんな強い魔術使ってないんだけどなぁ」
困ったなぁ、とぼやくハーガンの目に喜色が浮かんでいるのを雫は眄視して確認する。
「ねぇ、ハーガン」
「ん?どうした?」
にこやかな笑顔を浮かべているこの男を殴りたい衝動に駆られるのをさえて雫は叫んだ。
「此処何処ーーー!!帰らなきゃ、ファリドに怒られるぅぅぅ」
こんな状況で心配は自分の人形に怒られることなのか、とハーガンは主従の力関係を見せつけられたようで一抹の哀れみを抱く。
「あー、無理無理。日本じゃないし」
気安い態度でハーガンは顔の前で手をヒラヒラと振り、ジェスチャーをする。それを目に留めた雫は嫌そうに顔を歪めた。
「はぁ?」
「それに雫たんにはちょっとお願いがあるしー」
巧笑したハーガンに取り敢えず、グーで殴ろう、と雫は拳を握りしめた。
クロギオ・サヴァリッシュは訪れるべき嵐に備えていた。
幾ら初めてではなく、経験を積み聊かの慣れがあるとしても忌避したいことであったが、立場上逃れることは出来ない。サヴァリッシュの仕えている人物――ハーガン・フォン・トリップスがここ数週間奇妙な行動をしている事も、機嫌が良かったのもソレが原因だ。家具や寝具を物色し、果ては女性物の衣服や下着を選んでいるのを目撃した時は何も言われていなくても、これから訪れるだろう“破壊の予兆”に頭を抱えた。
ハーガンが雫にちょっかいをかけて厄介ごとになるのは毎度のことだ。年に数度ある出来事だ。今回は連れ回しているが、誘拐するように連れてきた事もあれば、変な調査に連れ回して怪我を負わせたことがある。その度に心苦しさを感じているが、それを忘れる程白鞘の名を冠する人形が暴れ回り、トリップスの屋敷が半壊している。
「……貴重品は奥に回したし、警戒レベルも上げた。結界も一応、重ね掛けしているし――」
自分の行動を思い返し、何か足りないことは何かとサヴァリッシュは考えるが、今の状態では最善を尽くしていると安堵の息を漏らす。
交流が良い傾向だとは、分かっている。いっそのこと、あの未熟な人形師と結婚でもしてしまえば家は安定するだろう。相手が人形師の家系と言う事も“白鞘”の名前の前では瑣末なことだ。問題は双方にそう言った意味での恋愛感情が皆無なことであった。一度、進言をした。白鞘雫と婚姻を結ぶべきだとそれとなく言えば、ハーガンは瞠若するとゆっくりと力なく頭を振った。好きではないから結婚できないのではなく、好きだからこそ遠くに置きたいのだろう。幼い頃からハーガンに仕えていたサヴァリッシュはハーガンの歪さを何処か感じていた。
主人としての振る舞いも正しい。
人としての在り方も多くの人に嫌悪される事はないだろう。
友人だって多いし、恋人だっていた。社会に溶け込むことを苦手とする雫を考えれば、ハーガンは社交的で、人目を引くほど華やかだ。
ただ、人間として大事な部分が少しおかしい。微かな違和感だが、それはサヴァリッシュの中で年を重ねるごとに大きくなっていた。正しい道を歩んできている。大きく、道を踏み外すことはなく、傍から見れば文句の付けようのない人生だ。誤りがないことも、挫折がないことも、サヴァリッシュには不安で仕方がなかった。ハーガンにとっての正しさは本人が併せ持っているものではなく、他者の目によるものだ、したかったことが正しかったのではなく、正しいから行動しているに過ぎないのだ。そこには、ハーガンの意思が差し挟む余地はない。
「ケチを付けたり、不安になるのは、私が穿ち過ぎなのだろうか……――」
傍から見て綺麗な人生を歩む物もいるだろう、そう自分に何度言い聞かせても不安は拭えないのだ。
雫と並べばハーガンの異質さは際だっていた。他人に合わせることを苦痛を感じる雫は、常識としての対応をする場面でも戸惑う事がある。笑ったり、泣いたり、同調したりすると言うのが良い例だ。だがハーガンはその時に応じて適切な対応をする、相手にとって何が一番求められているかを察知して提供している。それを不器用と器用で区別するにはあまりにも落差がある。博愛を地でいくハーガンにとって特別の一人が雫である。社交的に見えるが、ハーガンは自分からは滅多に他人に声を掛けない。声を掛けられればその都度何が最善か判断して応えるが、雫に関しては何が興味深いのか繋がりを断とうとはしない。引き籠もってからは重荷にならないように細やかな気遣いを見せているし、袂を分かった友人と引き合わせようとまでしている。
「分からない……」
分からないから、サヴァリッシュにはハーガンが奇妙に見えるし不安になる。
少なくとも、ハーガンの持つ価値観の天秤はサヴァリッシュとは掛け離れている。尤も、それを知ったところでどうにもならない。仕えるという、始まりを覆す気なんてサヴァリッシュには毛頭無かった。
予定ではそろそろだ、と仕事の手を休めて受話器の前で鎮座している。“白鞘”の人形の相手が出来る使用人は限られている。あの苛烈な存在に気圧されてしまい、心が折れるのが殆どである。
――リリリーン
古い電話のベルが鳴る。
格式高い、トリップス家の昔から在る黒い電話である。屋敷まで直通に掛けられるのはそもそもごく僅かな人間だけであるが、今現在、特定の番号だけが通じるようにしている。その相手は言わずもがな、白鞘邸である。
「来たか……」
一息を吐くと、サヴァリッシュは周囲で怯えた眼差しを向ける使用人を落ち着かせるように小さく笑い電話に手を伸ばした。
『てめぇんとこの、馬鹿殿どうにかしろっぉぉ!!人んちのマスター何処にやりやがったぁぁぁぁぁぁっ!!』
罵声に最初から耳を遠ざけていて正解だった、とサヴァリッシュは受話器を更に耳から遠ざける。
あまりの怒声に立ち止まった使用人達を笑顔で黙らせてサヴァリッシュは手で追い払い、咳を一つ払って受話器を自身に近づけた。
「お久しぶりですね、ファリド殿。此度はどのような――」
『前口上はどうでも良いんだよっ!!雫、何処にやったっ』
ファリドの険を孕んだ声に、やはり連れ去ったのか、とサヴァリッシュはハーガンの実行力に肩を落とす。
焦慮に駆られた声を初めて聞いた時は、傍から聞いてこちらが痛ましくなる程同情を誘った。だが、次第にそれは苛立ちと怒声を孕むようになり、結果、怒鳴りつけられるのが常になった。
「何処へと言われても――」
『てめぇんとこだって分かってんだよ。あの馬鹿魔術師何処行った。何に巻き込む気だ』
ここまで主人を扱き下ろされても、反論の余地はサヴァリッシュにはない。主人を蔑ろにされて気持ち良くはないが、文句を言われる理由はあまりにもあり過ぎる。これを庇い立てするにはあまりにも無理がある。人様を誘拐まがいで連れて行くなんてそれこそ、魔術師と人形師の間で問題にならないわけがない。問題にならないのは両家が良好な関係を続けているというだけである。白鞘の家が魔術師協会に訴えれば、諍いが起きるのは目に見えているが穏便に済まされているのは今迄の積み重ねによるものだ。
『怪我一つさせてみろ、どうなるかわかってるよなっ』
脅しとも取れるその言葉が嘘偽りのない事実だと言うことをサヴァリッシュは知っている。唯一人を捜す為に必要と在れば大量虐殺すら厭わない人形達である。善悪は理解していても、それに従属するつもりが無いのが尚更質が悪い。一般的に嫌忌されようとも、それが自分達にとって必要だと思えば泥に塗れて、道を切り開き選び取る。創造主である雫とは似ても似つかぬ芯の強さである。
「はぁ……」
思えばファリドの普段の表情など知らないとサヴァリッシュは思い至る。
いつも苛立ちを隠さないで不満げな顔をしているか、怒鳴りつけている。時折、雫がいる時は傍から見てむず痒くなる程甘い顔をするが、それは稀な話で大概はハーガンに抗議をしているか雫を叱っている。
幼い容貌に惑わされがちだが、中身がそのままの年齢だと言うことは到底思ってはいない。相手にするには聊か分が悪すぎる。出来れば回避したい相手である。
それでも。
命を縮める言葉を言うように仰せつけられた。
それがサヴァリッシュの役割であり、仕事である。
「知りたかったら、おいでなさい」
刹那、電話口の向こうで殺意が膨らんだのを感じ取る。
『――首を洗って待ってろ』
そのドスの利いた声に、こんな仕事遣りたくなかった、とサヴァリッシュは項垂れた。
挑発する真似などしたくはなかった。
これからの惨状を考えれば素直に主の居場所を告げるのが正しいのかも知れないが、その主が挑発するように言ったのだ。
『一秒でも長く時間を稼いでよ』
『ああ、だが、無茶はしないでくれ。奥の人間でもあの人形相手は二人が限度』
『大丈夫、他の“白鞘”の人形は来ない』
『恐らく今、手元に置いているファリドとグルゲスだけだよ』
『あの爺やの矜恃で他の人形には声を掛けないだろう』
『けれど、もし他の者が来たら迷わずに言ってくれて構わないよ』
『負傷者出すだけじゃ済まなくなるからな』
無茶な要求を思い出しサヴァリッシュは受話器を元の位置に戻すと盛大に溜息を吐く。
「奥の人間に準備するように連絡してください」
顔面蒼白な使用人は怯えた様子でぎこちなく頷首し、サヴァリッシュはその様子から、初体験か、と哀れみの目を向ける。
実践に勝る訓練はないというが、屋敷の者への訓練というには危険すぎるし、被害が甚大である。胸元に付けていたマイクを手に取り、スイッチを入れてサヴァリッシュは咳払いを一つする。
「あーテステス。屋敷にいる全使用人に警告します」
プツッと言う音と共にハウリングが屋敷に響き渡り、隅々に設置された小型スピーカーの確認をし、一息吐く。
「これより、この屋敷は警戒レベルSに突入します。貴重品など、引き上げが間に合っていない物は急いでください。それから、自己防御できない戦闘力皆無な者、戦闘に参加したくない者は逃匿して下さい。これから白鞘の人形がこちらへ来ます。経験者は分かっていると思いますが、屋敷の半壊はいつもの事ですが、今回は若君の命でかなり挑発していますので危険度もSです。一応念の為、救護班が居ますので腕が切り落とされたり、折られたり致命傷でなければなんとかなると思うので絶賛参加者募集中です。それから、若君から丁重にお持てなしするように申し付けられてますので、参加者は宜しくお願いします。ああ、それと、労災は下りますので安心して下さい」
一息で言い切り、マイクの電源を切る。
この間、暴れ回ったのを直したのが数ヶ月前だと言うことを考えるとスパンはあまりにも短かったなぁ、とサヴァリッシュは改築費用を見積もって盛大に肩を落とした。
なんとか被害を最小限にしなければ、と結界の更なる強化や防備をしなければ、戦闘を生業にしている者達が集まっている奥へと足を踏み出した。
モラトリアムは、日本からこのドイツの片田舎への所用時間だけである。




