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Act17:異常




「これは、なんですか?」

 残酷にも恋情を退けられたルイーゼは凋みそうな心を奮い立たせてハーガンに声を掛ける。

「ん?雫を懐柔する為のものかな」

 小さなケージが所狭しとミーティングルームに置かれている。

「……動物、ですよね?」

「犬と猫と兎。これだけ、モフモフしてたらげんなりしていた雫も少しは機嫌を直すだろう」

 ケージの中で窮屈だといった様子で暴れるサモエドとノルウェージャンフォレストキャットを横目で見詰めながら、兎を両手で抱え上げているハーガンに目を遣る。丁寧に扱っているはずなのに、縊りそうな恐怖はどこから来るのだろう。

「ちょっと、雫苛めすぎたからね」

 此処が何処の国か、と朝方尋ねた時、引き攣らせた顔は見物であった。朝から観察しているが、森の片隅に身を隠して硬直したままの雫に流石のハーガンも急ぎすぎたかと少々罪悪感を持ってしまう。先程、こちらに雫の人形が向かっている報告も受けている。終幕は、そろそろだろうとハーガンは兎をケージから出してやりながらぼんやりと考える。

「まぁ、結局どいつもこいつも……――っ!!」

 不意に感じた気配にハーガンは窓辺に近寄り、遠くの森に目を遣る。

「何か――?」

 あったのか、と尋ねようとしたルイーゼも遅ればせながら周囲の変化に気付き顔を強ばらせる。

「森が、変化した――」

 生徒達の訓練の前にハーガン達はくまなく森の中を調査した。危ういことなど、何もなかった筈だった。


 不意に机の上に置いていた携帯電話が鳴り響く。


「っ……――」

 液晶画面の表示を見てハーガンは携帯電話を手に取る。慣れた仕草で整った指先を動かすと不快そうに眉根を寄せる。

「どうやら、“何か”いるみたい……退避を呼び掛けて残っている生徒を保護してください。俺は、少し探ってみます」

 少しからかう予定だった筈なのに雫を連れてくるといつも厄介事に巻き込まれてる、とハーガンは首を竦めて携帯をポケットに捻子込んだ。




 ■■■







 視界が闇に包まれる刹那、ニコラスは手を伸ばした。

 虚を衝かれたように茫然自失としていた雫の身体を支える為の咄嗟の判断だった。矮躯を抱き留めながら、緩やかな傾斜を転がり落ちる。落下をしながら、視界に広がる黒い靄に本能的に身体を震わせた。唐突な変化にニコラスの思考は空白を生む。竦む身体は、ただ、怯えと警戒だけを呼び掛けるだけで一向に動き出すことはない。五感がかすむ中、ただ、腕の中にある温もりだけが現実味を帯びていて、今の状態が“真実”なのだと教えてくれる。

 初めに消えたのは、音だった。

 次に消えたのは、鬱蒼と広がっていた森に薄くて黒いベールが掛かる。

 ふと、先程まで感じていた、泥臭い土の匂いが一切しなくなった。

 薄くなった空気を肺に引き込んでも、ぬるく幽かに感じていた甘さを喪った。

 辛うじて、雫を抱き留める腕には感覚が残っていた。

 隔絶された世界――それだけがニコラスが意識できたことだ。

 何かが、起きた。

 だが、それが何かを理解できない。

 元々、突発的な事象に対して弱いことは、自他共に認めていることである。魔術師として、感じるのは、ただ、何かが居ることが把握できない不気味さだった。これは、補講の為の仕掛けとは到底思えない。

「これは……――」

 感覚を研ぎ澄ますが、得られる情報は驚くほど少ない。

 何かが世界に干渉している。

 強い干渉ではない事は世界が欠けた穴を埋めようとしていないことから把握が出来る。世界というのは、確立している概念であり、その概念に真っ向から逆らうことは不可能である。それが出来るのならば、まさしく魔術師としての“永遠”へと辿り着く者だけの権利だろう。今の魔術師が出来るのは僅かな時間、空間を歪めることである。所謂、結界と呼ばれるそれだが術者によって効果範囲も、効力にも差がある。今、ニコラス達を捕らえている即座に捕らえた者を消滅するようなものではなく、あくまでも空間を切り取っているだけである。

 結界の起点を、と考えを廻らせるが霞がかった脳では中断せざるを得ない。気配が掴めない。

 ここに来て、漸く、この結界は巧妙に出来ているものだとニコラスは認識する。拘束力が弱く、広範囲のものかと思っていたが、ぼんやりとした感覚そのものが効果である。木々の節々が、人の目のようにギロリと動く。監視――否、何かを探しているようなその様子にニコラスは身体が縛られたように動かなくなる。この時点で、気を失っている雫を置いて救援を伝えに行くという考えはすっかりと抜け落ちていた。ただ、腕の中にある存在を奪われてはいけないとギュッときつく抱え直す。

「雫……――」

 せめて起きて欲しい。

 大丈夫だと、はにかんでくれればニコラスの心はそれだけで落ち着く。だが、今、ニコラスを慰める声の主は何処にも居ない。

 広大な森の殆どを黒いベールで覆われて、結界の外がどうなっているかは分からない。だが、外にいる人間がこの自体に気付かないわけがない。この場に留まり、時間が過ぎるのを待つ、というのがニコラスなりの結論だった。何より、頼りない雫を一人で置いて行動するというのはあり得ない考えだった。

「んっ……」

 腕の中の小さな存在が身動いだことでニコラスは安堵の息を漏らす。自分が一人ではないこと、そして守るべき存在という意識が弱っていた心を奮い立たせる。

「雫?」

 小さく声を掛ける。

 うんざりとしたような息と共にゆっくりと目蓋が開く。

 黒曜石のような眸睛に映る頼りない自分の顔に気づきニコラスは苦笑した。

「雫、大丈夫?」

「っ、私……あっ、腕章」

 身体を起こして即座に左腕を確認した雫にニコラスは、何処から事情を話せばいいのかと困惑してしまう。雫の腕章を奪い取りに来たのではないと告げたところで警戒されるのは当然だろう。

「……多分、訓練どころじゃない」

 ニコラスの言葉に目を瞬かせた雫は目を眇め、苦々しく吐き捨てるように告げた。

「結界」

「ああ、しかも、俺達の知らない“誰か”のものだろうな」

 弾みか、それとも以前から構築されていた結界だったのかニコラスには判断がつかないが、雫は何か気付いたのか一層顔を曇らせる。

「雫?」

「……何か、いる」

 結界の中で蠢く気配を察知した雫は既に、学生かどうかの判別を済ませている。誰か、と言えなかったのはあまりにも魔力の塊過ぎてそれが“人”の枠に区分するものではなかった。濁りのない純度の高い魔力は人のものというよりは、自然界に当然のように在るものと言う方が余程相応しかった。

「それが、この結界を作った奴か?」

「……多分、動力源だと思う」

 戦闘になれていない雫が分かるのは、あるかないか、という単純な話である。この場に、雫の“武器”と謳われているファリドやグルゲスが居たのならば適確に何が起きているのか把握しただろうが、地面に投げ出されて雫が分かることと言えば、何かがこの空間を支配していると言うことだけである。

「じゃあ、それを壊すなり何かしたら――」

「駄目っ」

 ニコラスの言葉を遮って雫は声を荒げる。

「あれは近づいたら、駄目。離れよう」

 拘束するには広い結界だが、逃げ回るにはあまりにも狭い範囲だと雫は分かっている。それでも、黒い影が少しずつゆっくりと、近づいてくるのは察知していた。

「でも――」

「状況把握できないのに、接触は駄目……です」

 目の前のニコラスの安全を考えなければ、雫も蠢く魔力の塊を遠目からでも見たかもしれない。だが、安全が保証されていない。それが、生きているのか、死んでいるのか、会話が出来るのか、それすら分からない。

 魔術師達が“異能”“異端”と呼んで駆逐している存在であったら雫には手出しが出来ない領分である。それは、本能の侭に叫び、壊し、潰し、悉く平らげていく。幾ら人形師として有能であり、魔術師と比肩すると言っても戦闘に特化しているわけではない。魔術師でも精鋭と呼ばれる者達が対峙している。今の雫は攻撃の手段がない分、足手まといにしかなりえなかった。

「……勝てない戦いに挑むなって、大事な人が言ってた」



  『いいな。何があっても、お前は立ち向かうな』



  『俺達が居ないのならば、死ぬ気で逃げろ』



  『絶対に、迎えに行く。だから、それまで耐えろ』



  『勝てるかもなんて馬鹿げた考えは抱くな』



 常日頃からきつく言われていることを思い起こして雫はニコラスを見詰める。

「出来ない事と、出来る事、ちゃんと見極めろって、多分、私達は、あれに抗えない」

 純粋な力勝負では到底無理だ、と距離を縮めた存在に雫は震える足を叱咤する。

「でも――」

「早く」

 逡巡するニコラスの腕をとって、雫は、この結界の原因から遠ざかろうとする。雫の言葉に納得したのか、ニコラスも反抗することもなく雫と共に駆け出す。








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