Act16:幽かな異変
訓練の開始時刻は九時丁度。
雫はそれよりも早い時間に森へ入り、身を隠す場所を探していた。駆けるのも、息をするのすら億劫であった身体を叱咤してなんとか足を動かす。本来ならば、作戦を聞くべきだっただろうが顔を合わせる事が出来なかった。否、最初は、雫も顔を合わせるべきだと思っていた。だが、森へと至る雫を待っていたハーガンの言葉によってその考えは引き裂かれた。
――ねぇ、此処は、何処だと思う?
投げかける質問ではなく、知っている筈だと訴える眼居に雫は身体を震わせた。最悪を、雫は何時だって考えていた。視界を塞がれ、己の為だけの檻の外にある現実に目を向けようとしなかった、罰である。即座に、自分の足が踏みしめている大地が、彼の魔術師の勢力地だと察した雫は遽色を浮かべて、ハーガンの前から逃げ去った。森の中を走って、木々に肌を嬲られ朱線が幾多も走る。
「何処に行けばっ……――」
何処にも逃げ場所なんて存在しない。
あの優れた魔術師が監視の目を緩めている理由はない。自分の支配領域に紛れ込んだ“人形師”という異物に気付かぬ筈がない。もしかしたら、誅する為に今、向かってきているかもしれない。あの冷たい眼差しに見詰められることを考えたら全身が竦み上がる。また詰られるのだろうか、と思い至ったところで雫は自分の格好を思い出す。年に似合わぬ制服を着た――少女の格好だ。膝丈のプリーツのスカートをギュッと握りしめる。せめて、これがズボンであったらまだ言い訳のしがいもあるが、間違いのないコスプレである。ハーガンは気遣ったように似合っていると言っているが実年齢を知れば、誰もが奇妙なものを見詰める目をするだろう。
自分のような地味で、暗い存在に華やかな場所は似合わない。それを理解しながら、義務として連れて行かれた交流会で我ながら似合っていないと思ったドレスを着た。胸元が大きく広げられ、豪奢な濃い色の派手なドレスを身に纏った。首にも耳にも頭にも重い飾りを付けて、ホールに足を踏み入れた瞬間、身体が強ばった。興味がないとでも言いたげな様子で向けられた眼差しに、剣呑な声に、何を言われたのか今でも思い出せない。ただ、似合わない無様な格好をするなと咎められただけだ。一気に血の気が引いた。可愛らしドレスに、舞い上がっていて第三者的な目を忘れていた自分を恥じた。責められなければ、今もきっと馬鹿みたいに似つかわしくない格好をしていただろう。他人を不愉快にするだけの自分になんて、意味がないのだ。
「ジャージ……ないかな」
女性的ではない、せめて、男子の制服を貸して貰いたいと雫は思うが既に森の奥深くまで逃走していた為それも無理な話だ。
「はぁ……――」
何処か遠くで轟音が鳴り響く。
慌てて左の手首に嵌めた腕時計に目を遣れば、ピッタリと九時を示していた。この時計も連れ去られるようにこの地に来た雫のものではない。普段使い慣れているものと同じものを、とハーガンが揃えてくれたものである。一秒を刻む秒針がもどかしくて堪らない。時間はこんなにも緩やかに過ぎるものだったのかと雫は唇を噛みしめる。早く、終わらせて、早く、帰らなければならない。一刻も早く、この地から去らなければならない。これ以上、思い出の中“初恋の人”を憎い相手にしたくはない。大海を漂う小舟でしかなかった自分に短い時間と言え、寄り添ってくれた相手である。例え、本心で自分を鬱陶しく思っていても、差し伸べられて掌は温かかった。膝を抱えて、部屋の隅っこにいた自分の手を掴んで外へと導いてくれた人間だ。その優しさを勘違いした。自分に向けられているものだと、特別だと思いこんだ。好きだと思っていたのは自分だけで、一方通行の重荷にでしかなかった。
「……帰らなきゃ」
確証はないが、ハーガンの意図を察するのならば、此処はノルウェーである。彼の魔術師が生まれ、根城を持っている地だ。見つけられ、目障りだと、罵られる前にどうにかしなければ、と雫は漸く鈍くなった頭で考える。取るに足らない存在だと無視をされれば良いが、気紛れなハーガンの友人なだけあって、彼の人物も予想がつかない行動をする。もしかしたら、いきなり目の前に現れることだってある。何時だって、雫の考えとは違うことをしてくれる。
どうか、見つけないで、と震えた声で雫は声を漏らした。
■■■
森に入った時感じた違和感をニコラスは振り払って足を進める。本来ならば協力をして腕章を奪いに行くところだが単独行動をせざるを得なくなっている。最終日と言うことで両方のクラスの士気は高い。それに加えて、雫に接触できれば何らかの情報を掴むことが出来ると考えている者もいる。開始から数分経ち既に雫がG組から離脱している事をニコラスは聞き及んでいる。不穏な気配を察知しての行動と思いたいが、ハーガンから聞かされた雫の印象では突発的に逃げ回っている可能性も高かった。コレットに断りを入れてニコラスは雫のフォローをするつもりであったが、その雫も見つからない。複雑そうな顔をしていたコレットだったが、ニコラスの決意が固いと知ると、気をつけてと言う言葉を残して森の奥へと向かっていった。
「雫、何処へ行ったんだろ……」
ともかく話をして自分の気持ちも整理しなければとニコラスは思い直す。ハーガンからの妙なプレッシャーはともかく精神的に稚い雫の在り方には親近感を覚える。
あてどなく歩くニコラスは空を身仰ぐ。
随分と曇っている。
雨は降りそうではないが、快晴といえる天候ではない。
「ん?」
不意に何かが横切った事に気付き足を止める。
周囲は鬱蒼とした木々に覆われ、人工物が横切れば直ぐにでも察知できそうだが、掴みあぐねたニコラスは気の所為かとG組の陣地の方へと足を進めるがやはり気に掛かり、ジッと空を凝視する。視る事に優れているわけではないニコラスの観察眼では平凡な風景にしか見えないが、何かが居ることだけは理解する。
「――銀色の鳥?」
自身で吐き出した言葉をニコラスは心の中で否定する。銀色なんて人工的な色、自然ではあり得ない。そして何よりも、その小鳥の胸元には何か魔術紋が刻まれている。即座に空を駆けた小鳥を見留めることは出来なかったが、それが、誰かの使役しているものだと言うことだけははっきりとしていた。
「鳥……――」
あんな精巧な使い魔を作ることが出来る生徒は居ただろうかとニコラスは考えるが誰も一致しない。抑も、使い魔を飛ばすことが出来るのならば、情報収集に秀でている筈だが、残っている生徒にそんな事が出来る者は居ない。ここで、一つ可能性にニコラスは至る。
――この森に、生徒でも教師でもない、誰かの目がある。
不思議と沸いてきた考えは、ニコラスの思考に根を下ろす。それが、正しいのだと確証もないのに現実味を帯びる。
害悪を持っているのか、それとも興味か、とニコラスは考えながら、もしかして、と浮かんできた考えにそっと顎に手を添える。
ハーガンは雫の世界が変わることを望んでいる。その為に、動く駒としてニコラスを認識している。ならば、変化する世界の重要人物が、“此処”にいるのではないか、と思い至る。ハーガンの言葉を注意深く思い起こす。“あいつ”と“坊や”と気軽に呼び雫に深く関わっている人間である。だが、後者はその口吻から嫌気しているようにも思えた。ならば、ハーガンが動かしたいのは前者と言うことになる。接触を持たせたいのか、衝突させたいのかは分からないが“変化”を望んでいるのは確かである。
「雫を、振った、魔術師――」
口に出せば、妙に納得してしまう。
「えっ、あれ?」
振ったのに、どうして使い魔を飛ばしているのだ、と根本的な疑問に至りニコラスは首を傾げる。告白を断ると言うことは、相手の魔術師は雫を恋愛対象として見ていなかったと言うことである。有り体に言えば、興味の対象外だ。あの状態を見れば、手酷い振られ方をしているのはニコラスでも察せる。接点をとろうとしない雫の気持ちも分かるが、何故、使い魔が森にいるのかが理解できない。抑も、ニコラスはこの周辺の事は分かるが、何処の国かも知らされていない。
歯痒いばかりだ。
何もかもが分からない。
ただ、事実としてニコラスが把握しているのは、自分は触発する為の媒体に過ぎないと言うことである。
■■■
木の洞に縮こまって隠れて数時間が経過した。昨日までならば、昼食の為に森から出ていただろうが、雫は時計をジッと見詰めながら抱え込んだ膝に顔を押しつける。
――ファリド来るまで、絶対、動かねぇ。
ある種悲壮な覚悟を背負って雫は溜息を漏らす。いつも通りならば、もう少しすればファリドが向かえに合流をする筈である。手足となってくれるファリドさえいれば、雫としても心強い。補講自体ももうすぐ終わりなのでこの苦行から解放されるのももう少しだ、と雫は自分に言い聞かせる。
「?」
ざわり、と近くの茂みが動いたことに気付いた雫はビクッと身体を震わせる。息を殺して気配を探るが動きはない。
森の様子が少しだけおかしい。
自分に必死だった為、足を踏み入れた時の違和感に雫は気付かなかったが、昨日までの森とは雰囲気が変わっている。教師陣も居ることだし調査もしているだろう、と雫は思い直すがなんだか嫌な予感がする。そして、大抵、嫌な予感というのは当たる。どうしてこんなにも不運なのだと嘆いた際、ファリドに、思いこんでそう言う運命を引き込んでいるのではないかと言われた時雫は意味の分からなさに首を傾げたが、ファリドは、人ってそう言うものだと勝手に納得をしていた。
「もう、お家に帰りたい……」
もう嫌だ、と声にならない音を零す。
外は、怖い、と漠然と雫は考えると盛大に息を漏らす。
「引き籠もりたい……」
こんな考えを知られたらファリドに怒られるだろう、と思いながら雫は小さく呟く。
帰ったら、取り敢えず暫くは屋敷からでない生活をしようと心に決めて折れ掛かった心を何とか持ち直す。美味しい白米を炊いて焼きたらこでおにぎりとか作れば、と想像して少しばかり心を軽くし、今の現状を思い起こして雫は太息を吐く。スカートのまま地面に屈み込んでいる為下半身は土埃を被っている。ぬかるんでいないのがせめてもの救いだ。普通の少女ならば、厭いそうだが、雫からすれば人と顔を合わせるよりも余程気楽だ。ポケットに無造作に手を突っ込み残っている四体の形代を確認して雫は項垂れる。正直体力面では切迫していないが精神的苦痛で雫の気力はガリガリと遠慮無く削られている。
「ん?」
少し離れたところで、爆音が響く。
近くで誰か、白兵戦をしているのだろうか、と雫は見なかった風をしようとするが、木々の隙間から見えてしまった現実にげんなりとする。
視認してしまったのならば、仕方がない、と雫は立ち上がって、申し訳程度に乾いた土を払う。
はぁ、と小さく嘆息して雫は地面を蹴り上げた。
腕をグッと伸ばして、魔力を充填する。“人形師”として一流な放出量も“魔術師”としては幾分か足りないだろうが、それは経験で補える話である。
喋るのすら億劫で雫は、無言のまま魔法陣を出現させて、一斉に投槍する。圧倒的な質量で押し潰すだけだが、時間を稼ぐには十分である。
「さっさと、立ち上がれ」
地面に尻餅をついている状態では意味がないだろう、とせっつくように雫はマルチドに向かって声を荒げる。
「っ!!」
敵意を持っている相手に助けられたことが屈辱だったのか羞恥で顔を歪ませたマルチドは立ち上がって自分を追い込んだA組の相手を睨み付ける。
「助けてなんて言ってないわ」
「ええ。見えてしまったから、仕方がない」
マルチドのきつい言葉に何の痛痒も感じない、と雫は静かに返答をする。見過ごすのは雫の信条に反しているだけであって、別段マルチドを助けたかったというわけではない。
「迎撃出来ます?」
「っ!!出来るわよ」
強気の言葉を吐き出すマルチドに雫は苦笑すると、タイミングを見計らってその場から離脱する。
少し距離を保ち、恫痛に胸元を押さえる。
「……ああ、本当に面倒」
ぼやいた雫は視線を地面に彷徨わせる。
日差しが弱い為薄い影が、ゆらりと蠢く。
「えっ――」
咄嗟に、まずい、と雫は身体を強ばらせる。
黒い影が周囲を覆い潰すと思った瞬間、その空間ごと闇に飲み込まれた。




