Act15:猜疑の眼差し
悪意には過敏だ。
他者の視線を気にする雫には、如何に他者から疎まれないようにすることが優先事項としてあげられる。
向けられる眼差しは、幾重もの監視のようだ。
人形師と知られたのだろうかと警戒した雫だったが、嫌忌とは違うそれに気付く。探るように、凝視してくる、幾つもの目に不安が増幅する。
自分の知らない通達があったのだろうか、と己を慰める考えを抱くが、甘い考えで足下を掬われるのはよくある話だ。気を抜いた途端に、差かを転がり落ちるように絶望に突き落とされるのは慣れている。
心臓が押し潰されたかのように締め付けられる。
キリリと胃が痛みを訴える。
怫鬱とした感情だけが身体を支配する。
息が乱れる。
「っ……あっ――」
視界が一瞬歪み雫は声を漏らす。
恐怖に足が竦む。
逃げ出したい、と不意に沸いた言葉に雫の思考は支配される。視線が怖くて、自分を見ている筈がないと、自分など取るに足らない存在だと言い聞かせても不安は拭えなかった。誰かの影にいなければ硬直した身体から力が抜けることはなかった。
「ファリド……――」
歩みを止めて雫は思わず壁に手を当てて寄りかかってしまう。
癪の虫が疼き出す。
守って、庇って、と心の中で訴える。
いつもならば、手を伸ばせば届く距離にいる筈の存在が居ない。
仕方がない、と溜息を漏らしながら視線から逃すように盾になり手を握ってくれる存在が居ない。
駄目だ、こんなことで立ち止まってはいけないと己を奮い立たせる正論は直ぐに黒い渦に飲み込まれる。
動きがぎこちなくなる。
表情の筋肉が言うことを聞かず強ばり始める。
感情の起伏が薄いわけではなく、外に出すことが苦手な雫は人前に出る時、必要以上に感情を露わにしようと心がけている。尤も、そんな努力も空しく、大人しくて控えめな人というのが雫に下される評価である。最大限以上のものを差しだしても理解されていない現状は向いていない、としか言いようがない。無理をして伝えようとするから、心身共に疲労を来す。結果、詰まらない所で躓く。
雫自身無理をしてきた自覚がある。
唯でさえ人との接触が苦手なのにもかかわらず集団生活もどきをしている。そして、普段は使わない筋力をふんだんに使って運動をしている。小さな外的要因で壊れるには足る話だ。
「どうしよ、どうしよっ」
一気に自分の体調が悪くなるのをじんわりと感じながら雫は盛大に溜息を吐く。自分の意思とは他に、誰かが絶対的な決定をしてくれることを望んでいる。例えば、ハーガンが終わりだと告げればそれで雫の役目は終わる。魔術師の中で生活をすることもない。日本に、無事に帰れば好きなだけベッドでヌイグルミと戯れればいい。
責められることも、義務を負うこともなく庇護されることだけを望んでいる。
なんて、卑怯だ、と己を心の中で誹りながら救済の手を望んでいる自分に気付く。
「ファリド……――」
迎えに来て、早く、と雫は心の中で付け加える。
心做し、息苦しい、と雫は胸元に手を這わす。指先から伝わる脈動は、一定の間隔で刻まれる。倒れてしまえば楽になれるだろうか、と逃げの言葉が過ぎる。本質的な解決には繋がらないのに、刹那的な救いを求めるのは浅慮だからだろう。目の前にある、それに縋りつかなければならないと思っている。傍から見れば、勝手に自分の首を絞めているだけなのに、衝突を避けたがっている。誰だって痛いのは嫌だ。だが、それを幼い頃から忌避してきた雫は、上手い転け方を知らない。どうすれば最小限の痛みで済むかを知らないから、全力で回避をする。
「雫、どうした?」
背後からの声に、壁により掛かっていた身体を起こして雫は振り返って、笑顔を作る。
強ばっているだろう、と心の片隅で思いながら何かを言いたそうな顔をしているイゾルフに首を傾げる。
「……体調悪いのか?」
「いいえ、何でもないの。本当に大丈夫だから」
大丈夫なんて、嘘だ、と雫は頬を引き攣らせる。
全力で血の気が引いて、逃げ出したくなる足を叱咤しているだけだ。
それでも、他人からすれば雫の悩みなど小さな事だ。自分自身の恵まれた環境を雫は知っている。我儘が許されている実情も知っている。それでも、心は容易く折れる。
「大丈夫か?顔色悪いぞ」
「平気。平気……だから」
放っておいて、構って――矛盾した感情が行き交う。
側頭部がズキズキと痛み始めた。
耐えられるレベルだが、心地よいわけではない。
心のバロメーターを他人に見せることが出来れば良いと雫はこういう時いつも思う。仮病でも、過大に言っているわけでもない。凋喪したまま快気は見込めない。自分の状況を伝えられないもどかしさを感じながら雫は口元に笑みを描く。
感情がぶれて、泣きたくなる。
いっそのこと、全てをぶちまけて喚き散らしたくなる。
「……あの、なんかみんな変、だけど、どうしたの?」
視線の理由を知りたい、と雫が問えばイゾルフは複雑そうな顔をする。
「君の正体を暴いた者に免除するって、トリップスが言った」
「……ああ、そう――」
また、ハーガンの悪巧みに巻き込まれたのか、と雫は溜息を漏らす。抑も、参加している時点で巻き込まれているが、普段に比べて対処が甘いと思っていたのは雫の気の所為ではなかった。最大限の持て成しをするが、ハーガンは最悪の場面を雫に提供する。労りは全て、雫を試す為の代償である。
「……そっか、今回はそういうのかぁ」
居心地の悪い視線の理由が分かった雫は一端安心するが、誰にも心を預けられなくなったと表情を曇らせる。
「――……貴方も、知りたい?」
「っ……本人が伏せたがっているのを暴くのは正しくないだろう」
イゾルフの言っていることは何処までも正論だ。だが、多くの魔術師を見てきた雫はその言葉に首を振る。
「優しいのね」
人としては正しいが魔術師としては不要なものである。ハーガンであれば容赦なく弱った心に付け込んでくる。膿んだ傷口に刃物を突き付け、蹈み躙る真似をするだろう。それに痛痒を感じる必要はないのだ。
「相変わらず、精神的に追いつめるのが好きね。本当に、えぐい」
敵は己である。
疑心暗鬼に心は呆気なく悲鳴を上げる。
追跡されるよりも余程窮屈である。
「気遣ってくれてありがとう……でもね、それは間違ってる。天秤が狂ってる」
「えっ?」
「私を優先する必要はないの。自分の欲を追及するべき……ううん、しなきゃいけない。魔術師ならば遠慮したら駄目です」
自分の成績とたかが一時を過ごしただけの他人の顔の裏側は釣り合いがとれるない。自分を守る為に他人を暴くことを誰が責められるだろうか。誰だって自分が可愛い。
「だが――」
「だって、仕方ないこと、だもの」
手放されるのはなれている、痛みを感じる必要はない、と雫は口に笑みを象る。自分を哀れむ必要はない。自分だって、選んで棄て来たことであって、偶々、今回は棄てられる側に回っただけだる。
きゅう、と胃が鳴る。
空腹の為ではなく、萎縮を繰り返すのはメンタルによるものだ。
これでは朝ご飯は食べられない、と雫はぼんやりと考える。そういえば、冷蔵庫の中にあった冷蔵庫はこの為にハーガンが用意させたものだと思い至る。ただのデザートかと思って手を出さなくて良かった。食欲が落ちた時、雫はゼリーやヨーグルトで食事を済ますことがある。それを見越してのハーガンの準備に雫は心の中で降伏した。もう、勝手にやれと心の中で託つ。
「開始には合流します。部屋で少し休みます」
ゼリーを腹に流し込んで、ギリギリまでベッドの上で時間を潰すほか無い、と雫は覚悟を決めてイゾルフの脇を小走りで通り抜けた。
罪悪感が刺激される。
小さな子供に気を遣わせた自分をイゾルフは叱責する。異変に気付いていても、雫自身に伝えるべきではなかったかと悔やんでしまう。
「おい、雫はどうした?」
「ああ、部屋に戻るって……凄い、顔色悪かった」
「……俺達のことも、疑ってるのかな」
重ねた時間はあまりにも少なすぎるから仕方がない事だとルカは納得するも、少しばかり胸が痛む。
現状に戸惑って部屋へ引き上げたわけではないことをイゾルフはぼんやりと理解していた。根はあまりにも深い。疑うべき、と告げた雫の震えた双眸は自分を見捨てるのかと縋るようなものであった。それは意識をしてのことではないだろうが、イゾルフの良心を刺激するに足るものだった。イゾルフ自身は暴くべきではないと思っている。それが、雫であっても他の人間であったとしても他人が足を踏み入れて良い部分と悪い部分が存在するだろう。魔術師としての覚悟が足りないと言われても人として喪ってはいけない情の念だ。経験の浅い生徒達――魔術師の卵が右往左往するのを見るのがこの条件を持ち出したハーガンの楽しみなのだろう。悪趣味すぎる、と腹誹してしまう。
「おい、雫は?」
補講前ならば絶対に声を掛けてこなかっただろうニコラスにイゾルフは巡らせていた思考を一旦停止して視線を上げる。本来ならば、ハーガンの真意に気付くであろう立場のニコラスは雫に惻隠の情を抱く余り客観性が乏しくなっている。
「部屋に戻ったらしい」
イゾルフの代わりにルカが告げればニコラスは渋い顔をする。部屋を訪ねるべきか逡巡しているニコラスは既に訓練に参加する準備は万端なのか制服を着用し、左腕には腕章が括り付けられている。
「……雫は仕方がないことだって、言ってた」
あえかな、声を拾い上げたイゾルフはそれをそのままルカとニコラスに伝える。
自己防御の為の言葉だったかもしれないが雫は物わかりがよい。
「仕方がない、って、あの男の気紛れの嫌がらせみたいなものじゃないか」
ルカの言葉に首肯しながらイゾルフは気になっていた事を言葉にした。
「……多分、前にも似たことがあったのだろうな」
雫の漏らした今回、という言葉はイゾルフにとって十分心の端に引っ掛かった。性格を考えれば、巻き込まれ続けているのは明白である。雫にとって如何に心に負荷を掛けようとも許容しているのはハーガンという存在が雫にとって特別だからである。
「縁切ればいいのに」
はっきりとしたルカの口吻にイゾルフは苦笑した。それが出来れば、雫はあんなにも他者の視線に注意を払うことはないだろう。
「切りたくても切れないか、若しくは、雫自身が望んでいるかのどちらかだ」
ルカの言葉を否定したのはイゾルフではなくニコラスだった。その言葉にイゾルフは内心同意をする。
「浮き足立ってる奴もいるし、なんか嫌な雰囲気なんだよな」
「分かっている。だから、雫を待っていたが……――」
イゾルフが雫に声を掛けたのは偶然ではない。食堂も、ミーティングルームも、ソワソワとしていて雫が一人だった場合誰かが声を掛ける可能性があったから探して声を掛けようとしていた。見かけたのは落ち込んで、壁に手を付いている様子であったのは予想外だった。どんよりと暗い雰囲気で声を掛けることすら躊躇してしまう程であった。光彩を欠いた瞳で己を奮い立たせる様は、精神を脆弱さを際だたせていた。即座に浮かべた笑顔も痛々しくて強ばっていた。
「そうか……」
ルカとイゾルフを一瞥するとニコラスはこの場から立ち去ろうとする。
「おい、何処行くんだ」
「……一応、様子見に行くだけだよ」
コレットからどれ程忠告されてもニコラスは雫を危険人物とは思えなかった。寧ろ、守るべき庇護対象としか見えない。それを口に出した際に、コレットは、これだから男は、と呆れていたが納得しているのだから他人に口出される謂われはない。
「ウーテやサンドラはどうしてる?
立ち去ったニコラスを見送るとイゾルフは、ふと、思い出したのかルカに尋ねた。
「ウーテは疑われているのかとショックを受けてる。サンドラは、雫の陰口叩いてる奴を伸してる」
随分と両極端だとイゾルフは苦笑した。
ドアの前でノックする手が震える。
コツリと指の背がドアにぶつかるが、それを慌ててニコラスは引っ込める。一人にした方が良いのか、それとも自分は探るつもりはないと潔白を宣言した方が良いのか分からずニコラスは困惑する。邪魔かも知れない、迷惑かも知れない、と自己弁護を心の中で呟いたニコラスは踵を返そうとして、顔を顰めた。
「おや、ノックしないの?」
何処までも人を小馬鹿にしたような態度にニコラスはもう苛立つこともない。これがハーガンの素ならば反応をしただけで負けである。
「別に……――」
もしかしたら、案外平気なのかも知れないと言葉を続けようとしたニコラスを否定するようにハーガンは弾んだ声を漏らす。
「どうせ、雫のことだから、ベッドに潜り込んで布団被って真っ暗な闇の中で、“大丈夫”“負けない”なんて自分に言い聞かせてるだろうけどねー」
「っ!!」
「無駄なことだよね。雫の心が弱いのは昔からだし、いつだって庇ってくれる人間が居なければまともに意見だって言えない。他人の言葉を否定するのは人格を否定することだって思いこんでるんだよね。まともな論戦もできやしない。他人の言葉に怯えて、傷ついて、面倒な子」
貶す言葉を並べるハーガンだが、その口吻は酷く優しい。
「分かってるのに、放置するのか?」
雫が追いつめられているのに、それを少し離れた場所から見ているだけなのかと暗に咎めればハーガンは首を竦める。
「だって雫成長しないだろ。それに、平坦な道なんて面白くないだろ?」
「それは貴方の意見であって、彼女の選んだものじゃない」
この男に反論するのはもしかしたら初めてかも知れない、とニコラスは思いながら前を見据える。虚勢だとしても、弱さを見せればハーガンは必ずその部分を躊躇いもなく触れてくる。
「そうだね。雫は、安寧を好む。少しは危機感を持たせた方が良いと思っただけ」
恣意的な振る舞いを雫が受容している事が驚きだが、ハーガンが悪びれもしていない事もニコラスからすれば異様だった。イゾルフの言うとおり、毎度のことで今回は偶々自分達が巻き込まれただけの駒に過ぎないのだ。
「俺、期待してるんだよ、ニコラス・ロックウェル」
「は?」
「でも、部屋には入らないんだね。あいつなら、ドアを蹴破るだろうし、坊やならドア越しに懇願でもするかな」
ニコラスに告げると言うよりは、独り言に近い言葉を漏らしてハーガンは顎に手を添えて考え込む。
「……一体誰のことですか?」
昨日から誰かと比較されていることに気付いたニコラスは不愉快だと訴える意味でも尋ねた。返答は望めないだろう、と諦めながらの言葉だったがハーガンは今更な尋ねだとでもいうようにサラリと告げた。
「雫を振った男とその穴埋めとして俺が雫に上げた子供」
「はぁ?」
「雫さ、昔から引き籠もりだったけど或る男から振られてから拍車掛かって対人恐怖症じゃないけど、そんな感じになったんだよね。リハビリの為に雫に懐きそうな良い子を連れて言ったけど俺の目論み看破されて雫に怒られちゃったんだよね」
まるで今日の天気を告げるように何気ない口調でハーガンは重要なことを零す。そこには雫への配慮は一切無い。
「何言って……」
「期待してるから教えたんだ。雫が好きそうな“良い子”だからね。変化をもたらすかもしれない。繰り返しじゃ、何も生み出されない。あの子の為に動ける“人間”を与えてみたいだけだ。駄目だったら、また他のを宛がう。俺は、俺を雫にあげることはできない。俺は家を守る義務も魔術師として継承していかなければならない。雫に構ってあげることは出来ない」
違う個を持っていると幾ら言っても、雫にとって“人形”は己の一部でしかない。だからこそ、“人間”として雫に向き合うことが出来る存在が必要だった。ハーガンはそんな七面倒なことに首を突っ込む余裕はなかったし、雫のに無償の献身を与えるつもりはない。自分が出来ないのならば、他の何かを据えればと良いというのがハーガンの結論である。出来れば、その役目は自分の選別眼に適った人間ならば尚更良かった。
「別に恋愛じゃなくても良いんだ。憐憫でも、親近感でも、雫を一番に優先できるって証明を見せたいだけだ。それは、出来るだけ遠い“他人”が良い。“他人”が動いてこその話だからね。打算もない、純度の高い貢献を見せてあげてよ……まぁ、そんな自己犠牲に富んだ人間、本当にいたら“人”ではないだろうけどね」
期待はしていない。
だが、何か小さな波紋が起こる可能性は棄てきれない。
「……雫は、不思議です」
「無垢だろう。俗世の手垢に塗れた俺からすれば、珍妙な生き物だ。悪意に触れて生きていないから人を疑わない。守られて庇われてきて、害悪を直視しない」
僅かに口吻は棘を纏う。
類い希な立場を羨むように、嫉むように静かな声だった。
「……まぁ、それで良いんだけどね。雫は、それで良い。ただ、いい加減、俺も変化が欲しい」
何もないのは詰まらないだろう、と言葉を重ねたハーガンは酷薄な笑みを浮かべた。




