Act12:あなたの知らない、わたし
身体が悲鳴を上げる――歳による疲労だ。
制服何ぞを着て山を走り回っているが、雫は二十を越えている。つまり、身体のピークは既に過ぎている。
「うおぅ、ボキボキ」
体中の節々が痛い。
伸びをするが、血の巡りは悪いのかコキコキと身体の至る所で音が鳴る。
姿見に映る自分の姿に雫は目を遣り、視線を逸らす。身嗜みの為に鏡の必要性を雫は知っているが、映りこむ自分の姿を見るのは好きではない。他人から見られる自分ではないことも一因だが、違和感を感じるのだ。
今の雫は、薄いピンク色のネグリジェを着用している。勿論、ハーガンが用意したもので精巧なレースをふんだんに使った寝間着は一層幼さを際だたせる。就寝用ということを考慮されてレースやリボンは多いが、ボタンの類は一つも使われていない。所謂、ロリータ系と呼ばれる衣服だ。被れば良いだけのお手軽仕様なのも、雫の面倒くさがりな性格を知っている為のものだ。風呂上がりの為、首にかけたタオルが似つかわしくはないが、それを差し引いても年相応とは決して言えない。
「乙女ちっく……」
ずぼらだが、可愛らしいものは雫は嫌いではない。寧ろ、見て愛でるのは好きである。自分で選ぶ時はシンプルなものを選んでしまうし、過去の手酷い失恋により男装めいた格好をしてしまうが、可愛らしい雑貨屋など一日中いても飽きない。自分ではなく他人が用意したものならば、自分の趣味ではないと口実が言える為、こういう場合は躊躇いもなく受け取る。普段、ファリドの優しさを強がって拒む為、一抹の申し訳なさを感じるが、やはり気分は高揚するものだ。この間も、デパートの地下の食品コーナーでファリドの服の裾を掴んで、砂糖菓子で絵の描かれたクッキーや動物の顔を模した可愛らしいマカロンを強請り、溜息を吐かれたのは記憶に新しい。冷静に、砂糖の塊だ、一口で食べきる、と諭されても雫は結局粘り勝って買ってもらった。その時周囲から、初々しいカップルと注目されていたのを雫は知らないが、ファリドは周囲の目によって折れただけである。
「肩痛い、身体痛い……」
思い起こせば、運動したのは何時ぶりだろうかと雫は考え込む。散歩はするが、それはあくまでも気を休める為のであって身体の健康維持を目的としていない。散歩の途中に、毛足の長い、白くてモフモフとした白い犬――後日、サモエドという犬種だと知ることになるがその犬を見る為に気紛れに歩いている。そして、偶然会えたら、これでもかと言うほどに凝視する。飼い主からすれば不審極まりない行動だが、知られぬようにギュッと唇を噛みしめながら、心で、モフモフモフモフ、と悶えている。自分自身の事がままならないのに、犬が欲しいなど言える筈もない。命を預かって、守るなんて出来ないと雫は諦めている。実際、身の回りのこともファリドが居なければ困惑するだけだ。ただ、見ているだけで十分幸せである。様子を窺う為に、それとなくグルゲスに犬が欲しいと告げた事があった。
『雫の時間が俺以外に割かれるのは嫌です』
『――思わず、手が滑って何かするかもしれません』
平素と変わらない口吻で、不穏な言葉を漏らしたグルゲスに雫は、犬を飼うという願いを自分の中から放り出した。グルゲスの口から零れる、願いは剣呑である。そのシグナルを拾い上げる義務が雫にはある。
「はぁ、貼ってもらおう――」
背中や肩に湿布を貼るのは意外に難しい。綺麗に貼れず、皺になり接着面がくっつくこともある。普段から、腰痛や肩凝りの場合はファリドに頼んで湿布を貼ってもらう事が多い。寧ろ、乾燥の季節になると保湿クリームを手にして風呂上がりにファリドに背中に塗りたくってもらう。そんな様子にファリドはいつも呆れたように笑うが、結局はクリームを十分に肌に塗ってくれる。お陰で肌は弱いが、目立ったトラブルもない。
湿布の箱――日本製なところもハーガンの気遣いである。雫の部屋に宛がわれたものは大体が日本製である。小さな冷蔵庫にあるミネラルウォーターもいつも目にしている日本のラベルが貼られている。外からの刺激に慣れていない雫は水の変化だけで体調を崩す。実際、それに気付いたのは笑い話だが日本に輸入された水を飲んだ時の話である。
「ここ、硬水……なのかな」
蛇口を捻れば水が出てくるだろうが、注意の為、雫は飲まない。飲んではいけない、とファリド達から教育を受けている。日本の外に出た時は、特に、口にするものに気をつけろ、と第一に言われている。
考えても仕方がない、と雫は己の考えを停止させると箱を手に持って部屋の外にでる。夜になった為か、少しだけ廊下の空気がひんやりとしている。
足を暫く進めて、歓談用のホールに雫の目当ての人物はいた。
一人で、チェスをしている。
部屋には他にも顔見知りの人がいるが、雫は躊躇いもなくハーガンに近寄る。
「ハーガン、ハーガン、湿布貼って」
服を掴み、雫はハーガンの注意を引こうとする。
「ん?どうした?」
黒白の盤に視線を注いでいたハーガンの目が雫に向けられ、瞠若した。やおら、目元を緩め、小さく微笑む。
「幼児サイズでピッタリだね」
「っ!!欧米人が大きいのよ」
また、子供サイズを用意されたのか、と雫は肩を落とす。
「チェス、する?」
「私は、将棋しかできないよ」
それよりも、早く湿布を貼ってくれ、と手にしていた箱をハーガンに突き出す。熱を持った肩が熱くて仕方がない。
「おや、寄る年波には勝てないのか」
「うっさい」
「翌日に疲労でなくなったら、おしまいだよ、雫」
箱を受け取った、ハーガンは苦笑する。
いつものことだ。
普段、ファリドを頼る雫だが、いないとなれば他の人間に向けられるだけだ。それはグルゲスであったり、ハーガンである。
「ちょっ、ちょっと運動不足なだけよ」
「他の子は不調を訴えたりしてないよ」
意地悪く告げたハーガンに雫は返答に窮する。
「貼ってあげるけど、それより髪の毛、適当に乾かしただろ。毛先濡れてる。座って、乾かしてあげる」
雫を椅子に無理矢理座らせると、背後に立って首に掛かっていたタオルで漆黒の髪の無駄な滴りを拭う。
「爺やが居ないと何も出来ないわけ?」
「違うよっ」
「いつも、髪梳かして、乾かしてもらって?」
雫の髪を乾かしながら、この子は本当に手が掛かる、とハーガンは苦笑する。
風呂から上がって、ファリドの前に座って髪を乾かしてもらい、櫛で梳かすのは日課である。貴族ならば、召使いに全てを遣ってもらうのは当然であるが、今の時代そんな人間も少ない。どこかのお姫様か、と思うが、実際ファリドからすれば雫は大事な大事なお姫様である。失恋を苦に、腰まである長い髪を切り落とそうとした雫を無理矢理止めたのはファリドである事をハーガンは知っている。
「ファリドは、なんでもやっちゃうの」
「そりゃ、そうだろ」
普段のことを考えれば、護衛用の人形と言うよりはお守り人形だ、とハーガンはオールラウンダーのファリドの姿を頭の中で思い描く。戦闘も優れているが、ファリドの適応力と情報判断能力の高さはハーガンも認めている。料理から生活全般まで――思えば、小さい雫をその手で育てているのだから当然の話だ。
「わっ、私だって、料理ぐらいするよ。ハンバーグだって、オムライスだって作れるんだから。カレーだって、美味しいよ」
「……ヘビーローテーションになりそうだな」
レシピがあれば雫が料理できるのを知っている。時折、お菓子だって作る。ブラウニーを作ったこともあったが、普通だ。まずくもないが、うまくなかった。ただ、雫が一生懸命作っていたのを傍で見ていたのでハーガンは全てを平らげた。手作りなんて、他の人間から渡されたものだったらやんわりと拒否するか、受け取って棄てるかするが雫の健気さに折れた。一向に料理の腕が上がらないのは雫の所為ではないのを分かっている。キッチンに立って、隣で口を出されば自然と遠のくものだ。料理自体は好きなのだろう。だが、全てをファリドが用意してしまうのだ。その上、いざ作ればファリドの方が腕が上だ。雫の作る、ハンバーグの歪な形も、三角になり損なって球体になっているおむすびだって、ハーガンは好きだ。ただ、一般的ではないだろう。
「白米と、味噌汁、焼き鮭と沢庵で十分なの」
以前、雫から日本の朝食として写真付きのメールで送られたのはシンプルな朝食だった。その前送られてきたのが牛乳と、あんぱんだったのを考えればたいした進歩だ。
「この間ね、ファリドにベーコンとほうれん草のキッシュ作ってもらったの。あれぐらい作れるようになりたいなぁ」
「道具は揃ってるんだから出来るんだろ」
雫の家のキッチンは意外と何でも揃っている。専門店ほどではないが、料理好きの人間ならば垂涎ものだ。尤も、使う人間はファリドに限られているのが勿体ない話だ。
「前ね、大学芋作ろうとしたら、ファリドが駄目って言ったのよ、酷くない?」
「あー油が跳ねるから」
「そう。天ぷらも、コロッケとかも全部ファリドがやっちゃうの。私は、天ぷら粉混ぜるだけなのよ、あと、かき揚げグチュグチュするだけとか……パン粉の用意とか」
残念そうに呟く雫に賢明な判断だ、とハーガンは内心ファリドに拍手を送る。抜けているところがある雫に油ものなんて作らせるには料理レベルが足りない。失敗をして人は成長するものだが、油の入った鍋をひっくり返すこと想像したら、大人しく待っていてもらった方が気楽だ。
「アスパラガスの天ぷら食べたいな、あっ、舞茸も。あと、ちくわも美味しい。めんつゆじゃなくて塩が良いなぁ」
「お願いしたら作ってくれるだろ」
ファリドは大概、雫の願いを叶える。テレビで、アレが食べたい、これが食べたいと少し言っただけで次の日の食卓には並ぶほどだ。
「美味しい、お蕎麦食べたいな。前ね、上田で美味しい蕎麦食べたの野菜も美味しくてねー、いいとこだよ」
上田とは何処だ、とハーガンは内心突っ込みながら妙に饒舌になっている雫に気付く。食のことと、もふもふした動物のことになると生き生きとするのは以前からである。表情が和らぎ、死んだ魚のような目がキラキラと輝くのだ。
「髪乾いたよ、じゃあ、少し肩揉むか」
「本当?あのね、右の肩が熱いのー。コリコリしてない?」
雫の嬉しそうな声にハーガンは後ろから両手を肩において軽く親指を押しつける。
「うおっ、そこ、凝ってるでしょ」
手をバンと机を叩いて嬉しそうに雫は悶える。何気ない素振りだが、過多な接触は性的なものを想起させる。ハーガンの考えでは、髪を撫でて乾かすのも、肩を揉むのも恋人同士の触れ合いだ。普通ならば、こんなにも構わない。だが、雫だから仕方がないのだ。実際は年上だが、小さな子供に対応するように振る舞えば地雷を踏むこともない。
「そうだなー、少し、腫れてるかな」
指先から熱を感じる、とハーガンが答えれば、それ見たことかと雫は得意げな顔をする。その幼い様子に、年上と思えなど土台無理な話、とハーガンは苦笑する。
「少し解したら、湿布貼ってあげる」
「うん」
椅子に座って、床に足がつかないのか両足をぶらぶらと頼りなく揺すっている雫は、二十歳を越えていると言っても誰も信じないだろう。今時の子供の方が余程大人びている。全ては環境の所為だ、とハーガンは己を納得させる。
「おい、何してんだよ、教授達に告げ口するぞっ!!」
少し怯えを孕んだ、それでも咎めるような声にハーガンは目を遣った。ずっと、視線だけは感じていた。それでも、関わり合いのないことだと無視をしていた。痺れを切らしたのか、漸くアクションを起こしたのは、雫を気に掛けていたルカであった。
「何か用かな?」
肩もみの手が止まった雫は不満そうな顔で肩越しに振り返り、目をパチパチと瞬かせる。
「お前、ろろ、ロリコンかよ。犯罪だろ、犯罪」
雫に手を出したらぶっ飛ばすではなく、教授に告げ口をする、というのがルカなりの精一杯なのだろうが、ハーガンは呆れてしまう。何よりも、ロリコン呼ばわりされる謂われはない。事実を伏せているが、雫はハーガンよりも年上である。
「その評価は、甚だ不本意だね」
いっそのことばらしてしまおうか、と考えるが色々な意味で面倒なのでハーガンは敢えて口を閉ざす。どうせ、言ったところで信じる者は少ないだろう。
「先刻から、べたべたべたべた、変態かよ」
「雫にお願いされたからやってるだけだよ。大体、こんなの普段は雫のところの爺やがやってることだよ」
雫とファリドの過剰な接触――触れ合いを見ているハーガンとしては自分の態度など可愛いものだ、と息衝く。気を許した人間に対して雫は、構え、遊べ、甘やかせ、とベタベタと寄りかかって体重を乗せることも珍しくはない。挨拶代わりに、どーん、等とかけ声と共に腹に頭突きをしてくる事もある。そんな距離感のハーガンは膝に乗っけて甘やかさないだけマシだろう、と少し外れたことを考える。
「お前、歳考えろよ、完璧に変態だろ」
フルフルと突き付けた指を振るわせるルカに雫もハーガンも意味が分からず首を傾げる。
「変態ね……雫、俺はロリコンか?」
唐突に水を向けられ、雫はウッと考え込む。
ハーガンは幼女趣味はない。隣には煌びやかな女の人がいつもいる。尤も、見る度に、その女性が変わっているのはご愛敬だ。雫は、子供と和やかに遊んでいるハーガンを思い描くことが出来ない。有り体に言って、物わかりの悪い子供は、嫌いだろう。
「いつも華やかで胸大きな人と付き合ってるよね……」
自分とは違うタイプ、とハーガンをフォローするように雫がルカに声を掛ける。
「そういう問題じゃねーよ。てか、お前も好き勝手にされるなよ。なんで、そいつに湿布貼ってもらおうと思うんだよ」
「えー、だって、ハーガン慣れてるし、それに他の人の手に湿布の臭いをつけるのは、申し訳ない――」
「それは、俺は迷惑をかけてもオッケーと思ってるのかな」
ひやり、としたハーガンの声に雫はフルフルと頭を振る。
「おっ、俺がやってるよ」
ルカの言葉に雫は目を瞠る。そんな間抜けな顔を見ながらハーガンは心の中でひっそりと、年の差はルカとの方が余程あるとぼやく。
「雫、面倒だから、さっさと服捲って」
よく分からないが、と雫は服の襟元のゴム口をガバッと開けてハーガンに肩を向ける。
「だから、なんでそんなに無防備なんだよっ!!」
ルカの叱責に雫は理解が出来ないとポカーンとしてしまう。
「雫にとっては普通のことだからねー、はいはい、これで良いでしょ」
箱から一枚湿布を取り出してハーガンはベリッと透明な覆いを破りベタベタとした接着面を雫の肩に押しつける。
「うひゃぁ」
冷たさに声を上げるが、気持ちが良い、と雫は思わず表情を緩めてしまう。
「あー、湿布臭い」
掌の臭いが気になるのかハーガンは鼻に近付けでくんくんと確認をしている。科学的な臭いは手からはそうそう消えない。特に、湿布の類は周囲への臭いが強烈である。
「お前は、無防備すぎんだよ」
ハーガンから庇うようにルカは雫を椅子から立たせて、背の後ろへと隠す。
「俺は悪者か何かか」
「変態だろ、ロリコン」
警戒する様はまるで従者を彷彿とさせるが、ルカはただの知り合いである。というよりは、会って数日で此処まで庇い立てる方が珍しい。庇護欲をそそるのはハーガンも認めるところだが、心を砕きすぎている。
「俺は年下趣味じゃないんだけどな――」
「言い訳するな、ロリコン」
噛み合っていない会話に雫は口を挟むのは止め、二人の顔を交互に見詰める。
「――香りで思い出した。そうそうハンドクリーム、渡すの忘れてた」
ポケットに忍ばせていた小さなチューブをハーガンは雫に投げ渡す。
一瞬にして、芳醇な甘い香りが鼻腔を掠める。
「薔薇?」
「うん。雫、好きでしょ?作ったの間に合わなくて先刻届いたんだ」
ピンク色のチューブに薄紅色の特徴的な花びらがあしらったあるデザインに雫は目を輝かせる。レースや、薔薇、と言った類のものも乙女心をくすぐられるものである。
「強い、薔薇の匂い」
蓋を開けていないのに匂いが届く、と雫は手の中にすっぽりと隠れるピンクのチューブに目を遣る。
「貰って良いの?」
「勿論」
「ありがとう」
嬉しそうに雫はハンドクリームを見詰める。既製品ではない、それは、薔薇の女王ダマスクローズから創られた高級ハンドクリームである。
「っ――、さっさと部屋に戻って寝ろ。明日に響くぞ」
ルカの言葉にそれもそうか、と納得する。
「雫、寂しくない?一緒に寝てあげようか?それとも、ヌイグルミ持ってくる?」
ダブルベッドに雫は喜んでダイブしたが、家のベッドも普通のベッドに比べれば大きい。だが、枕元には余すところがなくぬいぐるみが敷き詰められている。結果、枕に頭を乗せても寝返りするのも面倒な程、縮こまって眠らなければならない。顔の両脇にはこれでもかという程大きなクマのヌイグルミが横たわっている。片方は、アイボリー、そしてもう一回り大きいなのがアプリコット色をしている。
「子供扱いしないでよっ!!」
雫の言葉は強がりである。
ヌイグルミに普段埋もれて寝ているのに、取り上げられて平気な筈がない。
「ちゃんと、この間皮を剥いで、洗濯してお日様の香りなんだから。中のダマダマだって直したのよ。少し、もふもふにしたんだから」
胸を張って自慢をした雫にハーガンは怪訝な顔をする。人形師である雫は、無機物であるヌイグルミの類をそれこそ古くから棄てずに持っているが、魔術師であるハーガンは古くなれば棄てればいいという考えである。
「新しくすればいいのに」
「違うのよ。同じものじゃないの」
不要なものだ、と切り捨てることが出来るハーガンの強さを雫は否応なしに識らされる。こういう時、愛着を説明するのが難しい。その度、分かり合えない部分があるのだと再認識する。
「雫は、ものを大事にし過ぎるよね」
「ハーガンは掌にあるものを雑にし過ぎよ」
得られない恐怖が分からないのだろう、と恵まれているハーガンの言葉を雫は退ける。
「……おやすみ、雫」
それ以上言葉を交わすのは無駄だと察したのかハーガンは苦笑をして雫を見送る。ルカに手を引かれて、談話室から出た雫は、なんだか釈然としない気持ちで歩を進めた。
「良いか、さっさと寝ろよ。夜更かしするなよ。肌に悪いぞ」
ああ、お肌の曲がり角だと雫は心の中で迎合を打つ。
部屋の前まで送ると言ったルカの申し出を断ったのには理由がある。障害が、二組――正確には三つの気配を雫は感じ取っていた。
「ありがとうございます。お休みなさい」
言葉巧みにルカを帰らせて、雫は身体を反転させ、幽かに動いた気配に気付いた。直接対決をするのは、初めてである。だが、話を聞いている限り衝突は避けられないだろうと分かっていた。
「こんばんは。ハーガンと賭をした、人、ですよね?」
スラリとした、瀟洒な美人がそこに佇んでいた。美人だと思うが、それ以上の感情は沸かない。尤も、雫の目から見れば、黄色人種以外は見分けがつきにくい。人は、己に似ているものの差異には鋭敏である。純粋な日本人である雫からすれば、東洋人――それも日本人に限られた話でそれ以外は、外国人という括りだ。彫りの深い顔立ちに少々羨んでしまうが、生まれ持ったものだと雫は諦めを抱いて目を遣る。
「ルイーゼ ・ヴィルトと申します」
しずしずと頭を下げたルイーゼに雫は、質問に返答をしないのかと内心舌を鳴らす。名前を聞いてはいなかったが、ヴィルト家の人間と婚姻が進んでいた事に漸く気付く。家名としては幾段かトリップス家には劣るが蔑ろにして良い人間ではない。だが、ハーガンが雫の手を借りると言うことは、切り捨てても良いという暗黙の了解がある。ハーガンにとって、要らない人間だと言うことだ。
「何か、用ですか?」
「貴方は、誰ですか?彼の、何、ですか?」
ルイーゼの言葉は直球だった。
これが、日本人と外国人の差かと内心驚愕をしたことを雫は表情には見せない。日本人には特有の小手先だけの遣り取りがある。単純に、表情と言葉が繋がらない時がある。笑顔で、怒り、笑いながら泣く――器用な人種だ。
「……教えられません。伏せるように言われてます。友人です」
端的に雫は単語を並べる。
その反応にルイーゼの顔が幽かに歪む。あれだけ親密な様子を見せられて、ただ友人であるという言葉の何処に信憑性があるだろうか。実際、ハーガンは雫を“特別視”している。それは、ルイーゼが欲しくて堪らない位置だ。その場所に、見知らぬ少女が居る。腹立つなという方が無理な話である。
「私は、ヴィルト家を背負ってます。引くわけにはいかないのです」
「――それ、私に関係ありますか?」
与り知らぬ事ではないか、と言葉を重ねた雫にルイーズが目を瞠る。ハーガンが好きならば、勝手に告白をすればいい。それは、両者の問題であって、雫の存在は関係のない筈である。雫が消えたからと言って、ハーガンの心が揺れ動くわけではない。無意味なことをする、と雫は首を傾げる。自分に、牽制する意味はない。
「だって、貴方が――」
「私を巻き込んだのはハーガンです。その意味も、聡い貴方なら分かるでしょう?私が勝っても負けても、あの男は貴方の申し出を退ける。優位にする為に私を巻き込んだの」
心を引き裂く言葉を雫は躊躇いなく告げる。抑も、今回の原因はこの目の前の女性である。ハーガンと年齢を釣り合わせる事を考えれば年下だろうが、雫からすれば優しくする理由がない。寧ろ、突っかかられて迷惑である。どんどんと、心が尖っていく。
「っ……――それは、分かってます」
「食い下がるべきは私じゃなくて、ハーガンでしょ。恋人じゃないし、誰か好きになったらハーガンだって勝手に結婚するわ」
恋に焦がれている男には当分無理な話かもしれないが、友人をとられるのは少しだけ面白くない。構ってくれなくなるかもしれない、と思うとハーガンの結婚相手は雫にとって重要だ。それに、夫が自分以外の女性といるのを快く思わないかもしれない。好きであれば、当然のことだが、雫にとってもハーガンは大事な友人である。否、唯一の友人である。遊んでもらえないのは素直に寂しい。自分で言っていて気持ちが落ち込んだ雫は目の前の女性が殊更気落ちしていることに気付く余地はない。
「なんで――私じゃ、駄目、なの?」
「多分、誰でも駄目なのよ」
丁寧な口調が剥がれ落ちる。
八つ当たりのように引き留められて雫も苛立っていた。
付き合いが長い分、雫はハーガンの気紛れさを知っている。その本質を掴まえることは出来ない。触れたと思えば、直ぐに違う顔を見せる。初めは、理解しようと雫も努力した。自分に優しくしてくれる人間を分かりたいと思ったのは当然の感情だ。だが、それは無理なのだといつしか認識するようになった。識ろうとするのが無茶な話だと自覚した雫は追究するのを止めた。自分の見えていない場所でハーガンがどんな顔をしていても、何を考えていても、自分に対しては労ってくれているのは事実だ。それに、救われたのだから、それ以上考える必要はない。
「……諦めた方が良い。貴方に相応しい人は他にいる。あれは、人を駄目にする」
「なんで貴方にそんな事言われなきゃいけないのよ」
ルイーゼの手が振り上げられたのを目の端で確認して、雫はゆっくりと目を閉じる。頬に走った痛みに、得てして、正論だと雫は心の中で返答する。
「満足、した?」
少し発散すれば、感情の波は静まるだろうと雫はルイーゼを見遣る。双眸に涙を浮かべて、口元に手を添えて嗚咽を漏らす女性に僅かな憐憫を抱く。
何も言わずに、走り去ったルイーゼの背を見送る。
少し時間をおけば、理解するだろう。ルイーゼは、子供を指導する分、十分大人である。ハーガンの厄介さを分かっていてそれでも焦がれていたのだろう。思慕の念は止められないが、いつか薄れることを雫は願った。
本来、これをしなければならないのはハーガンである。だがハーガンは泥を被りたがらない。否、被ってはいけない立場だ。だからこそ、それを回避する為の盾が必要で、それは雫であった。恨まれるのはいつだって、雫の役目だ。元より、人形師の雫が魔術師に疎まれようとも支障はない。
「いい加減して欲しいよね」
決まった相手がいれば、こんな事にはならないだろう。昔から、雫はハーガンの色恋に巻き込まれてきた。関係を誤解をされるのも、近づく為に利用されるのも両の手では足りないぐらいである。前者は良い。感情の侭に詰られるのも、手を出されるのも雫は耐えられる。だが、後者は雫にとって手酷い痛みだった。仲良くなれる、友達が出来る、と僅かな希望が一瞬で潰えた瞬間だ。その度に、卑屈さが頭を擡げる。自分には過ぎた願いだったのだ、と落ち込んで暫くは立ち上がれなかった。
「――むかついてきた」
何故、巻き込まれなければならないと段々と腹が立ってくる。拳で殴っても良いのではないだろうか、と考えたところで、雫は小さな物音を拾い上げる。
「そっちの二人も同じ用事かしら?」
ああ、こんなに口を動かすのは億劫だ、と雫は物陰に隠れていた二人に視線を向ける。
ハーガンの傍にいる雫に、嫌悪を隠しもしなかった、マルチドと、もう一人は時折一緒にいるのを見かける少女だった。話では、好意を寄せているのは二人ではなかったか、と雫は内心首を傾げる。マルチドの横にいる少女からは、敵意のようなものは感じられない。分かりやすく言えば、訝しんでいる。
「徒党を組むのは日本人だけかと思ってたんだけど、違うのか」
雫の知る女子は直ぐに群れたがる。
共有することに安堵をするのか、トイレまで一緒に行こうと連む。一緒に行ってどうするんだ、と雫は笑顔の裏で悪態を吐いてしまう。合わせる事が出来ない。疲れる。だから、その雰囲気から浮く。個を重視する外国人――特に、欧米人は好き勝手にする印象があったが雫はそれを自分の中で静かに塗り替える。
「なんで、気付いたの?」
「――耳は良いの」
マルチドの問いかけに雫は苦笑した。あれだけ、敵意を隠されなかったら誰だって分かる話だ。
「随分と、話し方が違うんだな」
マルチドの隣の鳶色の少女が口を開いた。記憶の中を探すが、少女の名前の断片も雫は思い出せない。辛うじて、ニコラスの傍にいた事で、A組だろうかと見当を付ける。
「どちら様?」
「A組のコレット・ラマディエ。単刀直入に言う。何者で、何をしに来た?」
少し苛立って普段の口吻が漏れたか、と雫は己の緩みを内心責める。他人を不快にさせないように、距離を取る為に雫は丁寧な口調を心がけている。
「頼まれてきただけです」
口調が恬淡としているが、ともすれば攻撃的に聞こえる。それに気付いたコレットの片眉が跳ねる。ニコラスの言う、お淑やかで、控えめな影なんてコレットには一切見えない。
「先刻の話――賭って何?」
真摯なマルチドの目に関係ないと一蹴すべきか、と一瞬頭を過ぎるが、別段ハーガンから何も言われていないから構わないだろうと結論づける。目の前の女子生徒達が態々吹聴するように見えなかったのもその一因だ。
「今回の補講、A組が勝ったらあの人とハーガン婚約するって賭。それを阻む為に私は此処にいるの」
「何それ、なんでそんな――」
「待て、マルチド」
雫を詰責しようとしたマルチドをコレットが窘める。仲の良い友達なんだ、と雫は羨ましがる。こんな相手、雫には居ない。
――幸せ面した奴が妬ましい
思わず、呪われろと心の中で祈るが、実際マルチドは不幸だろう。意気揚々と補講に参加したら、見知らぬ少女と思い人が戯れ、その上、婚約の話まで持ち上がっていたのだ。
「つまり、全部知っていて参加したわけか?」
「違うわよ。いきなり巻き込まれたの。準備が出来たならちゃんと武器だって持ってきたわ」
簡易形代ではなく、もっとちゃんとした形代と武器を用意して参加できただろうが、そんな学生同士の実地訓練では不釣り合いなものを持ってきたら面倒だからハーガンは無理矢理連れてきたのだろう、と雫は察する。雫が移動するとなると、ファリドとグルゲスの同行は当然の話である。流石にそれはハーガンでも言い訳できないだろう。
「――ちゃんとした、武器?」
妙な言葉を拾われた、と雫はコレットから気まずげに顔を背ける。追究されるのは面倒極まりない。
「――……ハーガンとあの教師の賭の内容は詳しくは知らない。知りたかったら、本人に聞いて」
話を逸らす為に、賭の内容を持ち出せばマルチドとコレットの反応が顕著になる。分かりやすい顔色の変化に、雫は楽観する。丸め込むことぐらいは出来るだろうか、と視線を床に彷徨わせる。
「――先生の、恋人なの?」
意を決したように尋ねてきたマルチドに先程の遣り取りを盗み見ていたのだろう、と雫は呆れてしまうがその双眸は酷く真剣だ。
「はぁ?先刻の話聞いてた?古い友人よ。尤も、女除けに利用されることも多いけど」
華やいだ催しに引きずり出すのは単に引きこもりから脱却させたいだけではないと雫は察している。家を伏せているが、存外に“白鞘”の名前は誘蛾灯のようにトリップス家に近づく女性達に効果がある。“白鞘”ならば傍にいるのは仕方がない、と少なくとも受け入れられる。
「つまり、トリップス家と個人的に付き合いがあるということか?」
「黙秘させてもらうわ。今回、素性はばらすなって言われるから」
雫の隙のない返答にコレットはグッと言葉に詰まる。年下の少女ではなく、老獪な相手と手合いをしている錯覚を覚えてしまう。少なくとも、見た目通りの何も知らない少女だとコレットは思えなかった。
「ねぇ、もう良い?」
億劫そうに雫は二人に声を掛ける。
重心を片足に乗せる。もう、立っているのも面倒だった。壁により掛かってしまいたかったが、流石にそれは失礼すぎるだろうと思い留まる。どうでも良い人間相手だと考えると、口は軽く、態度のぞんざいになってしまうのは仕方がないことだ。雫にとって、注意を払うべき存在ではない。
「……あの男の何が良いの?」
思わず雫はそう問いかけていた。
ハーガンは確かにいい男だ。友人ならば、と冠すれば話だ。恋人としては、何を見ているか分からないから不安になるだろ。交友関係が広いのも雫からすれば不安要素でしかない。愛されたい願望が強い雫は視野狭窄で、独占欲の強い男の方が余程愛情を感じられる。
「っ、優しいわ」
「みんなに優しいわ」
マルチドの言葉に雫は反駁する。自分のように爪弾きにされる者にも何か裏があるのだろうが優しくしてくれている。
「格好良いし――」
「あの顔レベルの男なら、他にもいるでしょ」
「鷹揚だし、胆力あるし」
「意外と、狭量よ」
一つ一つ、マルチドの言葉を雫は訂正していく。別に、責めたいわけではない。純粋な興味の為だった。
「――どうして、彼じゃなきゃいけないの?」
恋について雫はよく分からない。嘗て、恋心を無惨に散らされた時があったが、その頃のことはとても曖昧だ。あの失恋以降、雫は恋をしていない。恋というものが分からなくなっている。誰かに対しての無償の尽力も、何もかもが分からない。恋じゃなくて錯覚だったのではないか、というファリドの言葉に否定できずにいる。それでも恋だった、と雫は思っている。淡い感情も、焦がれるような痛みも何も疑問を挟む余地はなかった。
「好きなのよ。ずっと前から、ずっと――」
理由にもならないマルチドの言葉に言葉に雫は瞠若する。
「……そうなの。ごめんなさい」
好きだという感情を他人が否定する謂われはないだろう、と思い至り雫は声を漏らす。周囲に説明できなくとも、自分の中で明確な行為があると自覚しているのならば問題ない。
「貴方の感情、否定するつもりはないの。諦めたくないなら、諦めなくて良いと思う」
どうせ言ったところで受け入れられることではないだろうと雫は言葉を重ねる。好きだという気持ちは、誰に言われたところで変化しにくいものだ。雫にだって、覚えがある。その記憶は随分と遠い昔だが、誰に何を言われても頑なであった。
「――でも、あの男は貴方の愛に応えないわ」
今現在ハーガンがマルチドに向けている困惑はそう簡単に反転しないと雫は踏んでいる。感情の正負の逆転は意外にも難しい。雫自身も、苦手だと思った人物にはそのまま近寄らないようにしている。ハーガンは社交的な素振りをしているから誰にでも優しい風をしなければならない。例え、腹の中で舌を出していても知られなければなんの問題もない。実際、ハーガンは受け入れられないという静かなシグナルを送っている。それを、マルチドは看過しているだけだ。
「容貌に反して随分と辛辣だな」
不意に耳朶に触れたコレットの声に雫は小さく息を漏らす。
「貴方達がどんな印象を持っているか知らないけど、私、性格悪いわよ」
自覚症状がある、と雫は苦笑する。狡くて卑怯で、自己弁護するのに必死で、傷をつかない場所にいたがる臆病者である。誰にも触れられない場所を求めながら孤独は嫌で、だが、責を負うのも厭う――自己中心的な人間だ。
「もっと素直に言えば、ハーガンの色恋事に巻き込まれるのは初めてじゃないわ。喧嘩売られたことも嫌がらせされたこともある。珍しい事じゃないの」
だから応対にも余裕が出てくる。同じ事を毎度聞かれ、同じ事を毎度答えるのは苦痛だが、それはもう慣れである。ハーガンの友人ならば仕方がない、負うべき事だと諦めざるを得なかった。鬱憤は堆積して、根雪のように溶けることはない。いつか、破裂するときが来るかもしれないが、それは今ではない。
「辟易としてるのよ、こっちは」
突き放すような雫の口吻にコレットは、口元を歪める。
「本当に男共は見る目がない。どこか、淑やかなお嬢様だ。トリップス家と連んでるだけあって一筋縄じゃいかないじゃないか」
感嘆を孕んだコレットの声に雫は首を傾げる。ハーガンと比べれば雫は大人しい方である。寧ろ、御しやすい質である。
「ハーガンみたいな複雑な思考してるつもりはないですけど?」
あんな訳の分からない思いつきで動くほど自分は振り切れないと雫は弁明するがコレットは頭を振った。
「口蜜腹剣の徒だな」
随分と酷い言われようだ、と雫は眉を顰める。根暗や、何を考えているか分からないと言われたことはあるが、害悪を持っているなど言われたことはない。能動的に雫は動くことはない。密やかに、不幸になれ、と祈るのが関の山である。
「……まぁ、どうでも良いわ」
どうせ長く付き合うわけではないと割り切って雫は二人に視線を向ける。
「話は、これまでで良いかしら?」
「っ……構わない」
何か言いかけたマルチダを遮ってコレットはそう、言葉を漏らしたのを確認して雫は二人の脇を通り過ぎる。
心臓がどきどきと脈動している。
これで、今日の役割は終えたと雫は満足げに細い廊下を通って、ドアを開け――そこには、元凶が居た。
「おかえりー」
何処までも軽やかで爽やかな声だ。
口先だけの謝罪だで露些かも罪悪感を持っていない。
何処から侵入した、と雫はふと視線を部屋に彷徨わせ、カーテンが風で靡いているのに気付く。窓が開け放たれていた。
「ハーガン、なんの用?」
「いやー、雫たんほっぺ叩かれたし痛いかなぁ、って。あっ、毎度の事ながらありがとうね」
何処から何処まで見ていたのかと咎めそうになるが、無意味なことだと雫は諦めてこれみよがしに溜息を吐いた。
「諦めるかしら」
「さぁ、諦めて欲しいねぇ」
他人事のように迎合を打つハーガンに雫は思わず近づいて、どーん、と頭からその厚い胸板に突っ込む。
「誰の所為でこうなってると思ってるのよ」
「んー、ごめんね」
「ちっ」
舌を鳴らした雫は何の用だ、と眼居でハーガンに尋ねる。恋愛沙汰に巻き込まれるのは初めてではない。態々ハーガンが雫を犒いに来るのも珍しいことだ。
「報告だよ」
不意に真剣になったハーガンの物言いに雫は身構える。
「お宅の人形、暴走して、機動停止――メルトダウンした」
「っ――」
嫌な予感が当たった、と雫は俯いて口元に手を当てた。窄めた肩が一層小さく震える。
「そう……迷惑掛けてごめんなさい」
「別に毎度のことだから良いけど、雫も物好きだね。あの状態のまま放置して何したいの」
雫の手ずからの人形であるグルゲスはやろうと思えば“矯正”が可能である。振り幅の大きい感情を制御することも難しくはない。だが、雫はそれをしない。最初は自分の弱さを直視し、戒める為の存在かとハーガンは以前考えていたが、そんな甘いものではない。
「グルゲスに許してもらわなきゃ、私ね、駄目だから」
足りない部分を補うようにグルゲスを愛おしむ雫は歪である。絶対的に自分を認める存在を一つ、置いておくのは自信の無さの証左だ。
他者に、委ね、縋るその姿は滑稽である。
「――今のままが良いの。狡いでしょ?」
求められていることに快楽が背筋を駆け抜ける反面、罪悪感が刺激される。自分の手で他者の存在を掻き乱すことに愉悦を感じながらその存在そのものの重さを負いたくないのだ。
「うん、狡いね」
「ハーガンが同意してくれるのを私は予想してて、ハーガンは分かってて頷いてくれる。本当、嫌になる」
自己嫌悪を和らげる為に他者に訶責される事を雫は望んでいた。本当の意味で雫の周囲は雫を決して傷つけず、責めない。首が絞まるような息苦しさも、胸が潰されるような苦痛も雫は避けてきた。それが今に至る原因だ。甘やかされ、慰めているのが実情だ。
「だって、雫は自分を甘やかしてるけど、酷く傷つけるからね。考え込みすぎなんだよ」
雫の頭を掌で撫でて、ハーガンはその小さな身体を見下ろす。雪膚には普段傷一つ無いが、訓練の最中の瑕疵がいくつか雫の身体に走っている。こんな事を、護衛人形に知られればまた抗議を受けるだろう。抗議と言うには、些か表現が優しすぎるほど、苛烈である。
「そんなに都合がいい男欲しいなら、初等部の児童、紹介しようか?」
「はぁ?」
「いや、今から逆光源氏計画すれば、雫好みの男作れるじゃん。少しずつ洗脳してけば完璧」
グッと拳を握りしめたハーガンに雫の表情は渋い。
「……若い子の将来を塗りつぶすっての?可哀想でしょ」
自分の為に将来を棒に振らせてしまうのは申し訳ないと雫は顔を俯かせ、苦いものを吐き出すように顔を歪ませる。
当人に気付かれなくても、少しずつその心根を曲げることは可能な話だ。雫の為の、雫の為だけの人間を誂えることだってハーガンならば出来る。否、以前、物わかりの良い子供を引き合わせたことがある。まだいろはも分からない、物心も付いていない子供である。勧善懲悪を好む――世界の淀みに触れていない純粋な目をした子供だった。雫のように、灰色なんて世界に存在しないと考えていた。物事は白か黒で分別され、その世界は1か0だ。殊の外相性の良かった二人は仲が良くなった。結局、途中、ハーガンの意図に気付いた雫から交流を断った。雫の突然の豹変に理解できなかったその子供も当初は雫を嫌忌した。傾けていた好意が大きかった分、裏切られたと思ったのだろう。年を重ね、随分大きくなり、世界がどれ程不条理かを知った。正しさだけが真実になり得ぬ事を、貫くことが出来ぬ痛みを心に受けた。斜に構えた、可愛らしくない子供になっている。あの微睡みの箱庭にいればそんなものを知らなかっただろうに、残念な話だ。それでも、あの魔術師の卵は人形師の雫を慕っている事をハーガンは気付いている。思い出は何処までも美化される。疾うの昔に手放したものが自分に縋っていると雫は知ったらどんな顔をするだろうか、と意地の悪いことをハーガンは考える。魔術師と人形師の因縁を知った上で、その子供は、手を伸ばそうとしてしている。禁忌に触れることを躊躇いながら、引くつもりはない。幼い頃に根付かせた花は歪ながらも咲き誇っている。会合でハーガンの姿を見る度に、顔を合わせる都度に彼女はどうしているのだ、とさりげなさを装った言葉を吐き出す。関係のないことだ、と憎悪の言葉を吐き捨てながらも探るその言葉に、孕んだ熱をハーガンは興味深いと思っている。静寂の水面を揺らす風になりうるかもしれない――いつか、何か起きるかもしれない、と期待をする。畢竟、雫は幻想に焦がれている。手に入らない幻影を羨殺し、渇望し、挫傷する。
「だから、人形は代役?」
「違うっ、違うわよ……大事よ、みんな特別」
虚を衝かれたように瞠若した雫はやおら顔を曇らせる。
「多分、私、欲張りで重いのよ」
気軽に人と付き合えない。
もっともっと、と何処までも貪欲になって相手を奪いつくそうとしてしまう。何もかもを分かっていないと気が済まなくなる。
「だけど、それが良いって人はいるよ」
「性別年齢を考えなければ、きっと世界中に一人ぐらい、私を愛してくれる人がいるわ――きっと」
ストライクゾーンを随分と広げた、とハーガンは捻じ曲がった解釈に落胆する。相変わらず、思惑通りに事が運ばない。予想外の行動ばかりをする。言葉だけではなく、雫は自分を愛してくれる人間ならばどんな悪人だろうが受容するだろう。ただ一点、自分を愛してくれるという煩瑣に拘って、他人の傷を見なかったことにするだろう。それこそ、殺戮者だろうが、独裁者だろうが、私を愛してくれるのは事実だから、と嬋媛に笑うだろう。
「愛ってのは求めるばかりじゃないよ。尽くすことだよ、きっと」
自分が言っても胡散臭いだろうがハーガンは胸臆を口に出す。
「献身とは、違うの?」
純粋に尋ねてきた雫にハーガンは首肯する。
「俺は違うものだって思ってるよ。きっと、愛はもっと崇高だ」
多分、と心の中で言葉を付け加えてハーガンは笑顔を浮かべた。いまいち自信がないが、ハーガンの理想の愛は下心も二心もない混じりけのない純度の高いものだ。到達するのは難しいだろうが、それが欲しかった。汚れたものになど、意味はなかった。
「いいね、そういう風に愛されたいな」
「尽くすことに生き甲斐を見いだすドMを見つけるんだな」
愛されたい者同士が巡り会って引き合っても、その凹凸はピタリとあうことはない。歯車を噛み合わせる為にはどちらかの譲歩が必須である。そして、雫は譲れない。譲ることが出来ない。ならば、相手が尽くすことに愛を感じられるのならば問題はない。
「まぁ、雫は人間を愛することから始めようか」
他人に対して興味が薄いところから改善しなければならない。雫は、他人の顔を覚えるのが苦手である。相手に興味がないから、話が広がらない。会話が繋がらない。言葉が浮かばない。単純な話だ。
「……無理なのよね。人形ならどんな面倒なことも背負っても完成させて創ろうって思うんだけど、人間って面倒よね」
「うん、それだよね」
人として大事な部分の欠陥だ、とハーガンは密やかに胸の奥で主張する。
「どっ、動物は好きよ。犬も猫も兎も、クマも、モフモフしてるのは和むと思うわ。心が穏やかになる」
近場のショッピングモールが休日限定で犬猫のような動物をする時、触れ合いコーナーを設置する時雫は気が向けば足を向ける。檻の中に堂々と足を踏み入れるのは気恥ずかしい為、何度も横切る不審者に成りはてているが、見ているだけで気持ちが落ち着き、安らかになる。人に遠巻きにされている雫は動物には気を許されているのか偶に檻の中に入れば直ぐに周囲は動物で塗れる。そんな様子をファリドは呆れた顔で見守るのが常である。
「今度、動物園行く?」
ベッドにダイブした雫の首がぐるんと背後に向けられる。
「行く!!狼と、狐と、ホワイトタイガーみたい。あと、シロクマの子供っ」
子供のように無邪気に告げる様子に、与えられる当然の幸せが欠けていた事にハーガンは思い至る。尤も、それはハーガン自身も同じだ。両親との思い出なんてない。
「羽毛布団さいこー。もふもふもふもふ」
ゴロゴロと寝台を転がる様子に、まるでホテルで普段とは違うベッドを見てはしゃぐ子供ではないかとハーガンは突っ込むが、雫を己の規矩で推し考えるのは間違いである。
「雫も羽毛布団じゃなかった?」
「もうぺったんこだよー。ファリドがお布団干してくれるけど。お日様凄いよねぇ」
雫は羽毛布団をギュッと抱きしめながら感嘆の声を上げる。
「洗い立ては嬉しいよな」
「うん。ヌイグルミひなたぼっこさせるよ」
ハーガンからすればおかしな話だが、雫の寝台に敷き詰められているヌイグルミは全て名前が付いている。時折話しかけている様子を見る度に、あれは人形師だからと納得させる。一歩間違えば変人だが、雫の仕事に関わりのあることだ。
「内藤、元気かなぁ……」
クジラの抱き枕を思い出し雫は呟く。思えば、床に放り投げたままだ。恐らく見かねたファリドが床からベッドに引き上げているだろうが、少しばかり気に掛かる。
雫のヌイグルミも、人形も過去の英偉か辞書を使って名付けられる事が多い。ネーミング事典を使うのは良い。だが、肖って名を付けるのは魂が宿りそうでハーガンは遠慮したい。名を縛ると言うことは、個が生まれる。ややもすれば、何か宿る事を雫が知らない筈がない。そのうち動き出してもハーガンは驚かない。夜中にゾロゾロと動いているのではないかと子供のような考えが頭を過ぎる。
「……もうそろそろ補講も終了だよ」
「選別できたの?」
見極める為の時間は十分だったのか、と雫は目線をハーガンに向ける。腕章を奪われて脱落したからって再度の補講が待ち受けるわけではない。有り体に言えば、教師の胸先三寸で決まる。
「雫も頑張ったね」
幼子にするようにハーガンは頭を撫でてしまうが、ふと、俺の方が年下だったと思い至る。
「……うん」
嬉しそうに微笑んだ雫に、詮無いことだ、とハーガンは撫でる手を止めずに少し乱暴に髪を乱す。
「お疲れ様。叩かれちゃったね」
「……振ればいいのに」
「しぶといんだよ」
ハーガンは、家の関係に亀裂を及ぼしたいわけではない。察しの良い女性ならば、ハーガンの素振りで自ら身を引くが押せばどうにかなると思っているのか引く様子はない。愛情を向けられていないのに婚姻関係を求める方が普通ではない。
「物わかりの悪い女は苦手だ――」
ルイーゼは魔術師の家系に生まれた、それこそ令嬢だ。両親に大事に育てられたと言うことが傍から見て分かる。幸せに溢れて、大きな躓きもなかったのだろう。真っ直ぐなところは嫌いではないが、厄介である。己の願いを潰えるという可能性を考えていない甘さに腹が立つ。ルイーゼ自身の瑕瑾ではない。生まれは誰にも変えることは出来ない。だが、恵まれたことを素直に受け入れている姿をハーガンは受け入れられない。一つ、傷を見つければ、目を逸らすことは出来ない。見なかったことには出来ない。一つ見つかれば気に障る点が次々と溢れ出す。ハーガンの理想に合わないのならば、それは正しくない。
「本当に好きなんだよ」
「相手のことを思いやれないのが?我が強いのは疎ましい」
雫のように全てを腹蔵し、口を結べと言うわけではない。寧ろ、そんな態度は厭気しか沸かない。
押しつけられた愛情になど、価値はない。
「多分、ハーガンの好きとは違う愛し方なんだよ」
「じゃあ、俺とは合わないな」
無理な話だ、と笑ったハーガンに雫は否定も同意も出来なかった。思いを退けられるつらさは嫌と言うほど知っている。真っ直ぐに、厭うていると言われるのと婉曲的に否定をされるのはどちらがマシなのだろうか、と頭の片隅で考えるが結論は出ない。どちらにしても、受け入れられないのは寂しく、辛いことだ。
「分かり合えないって悲しいね」
争いは無くならない筈だ、と雫が言葉を重ねればハーガンは子供の夢物語だと言うように鼻で笑う。
「そうだが、誰もが同じ事を考えて同じ方向を見ていたら気味が悪いだろう。俺が雫と同じ事考えてたらどうする?」
「安心するけど、考えが筒抜けってのも……気持ち悪いし、怖い」
ベッドで伏せていたら眠くなってきたと小さな欠伸を雫は噛み殺す。
自分のような人間とは絶対友達にはなりたくない。友誼など育む想像が出来ない。
「多様な価値観は必要だよ。自分と違うものは在って当然だ。それに、予測がつかないから楽しいんだろ」
「先が見えないのは不安だよ」
「何の変哲のない世界なんてつまらないだけだろう?」
朗笑したハーガンを雫は目の端で捕らえる。
ハーガンのように割り切れれば世界の色は違うのだろうか、と雫は意識が落ちる間際、ぼんやりと考えた。




