妹…ということ
――後悔は、してからでは遅いというけれど、してみなければ分からないものだ。
――後悔は、してみなければ分からないというけれど、してからでは遅いものだ。
結局のところ、どうすればよかったのかなんて分からなくて、どうしていいのかも分からない。ただ、後悔できていること、それだけはよかったと思える。
* * *
ずっと見つめてたひとがいる。
ずっと想っていたひとがいる。
少しずつだけど、きらめく虹色の砂は心の器に積もっていく。そして苦しんで泣いても、涙では溶かすことができない。こんこんと積もり積もって、溢れだすときを待つだけ。
どうしてだろう。人のDNAは、近しいひとを好きにならないように出来ているというけれど、本当なのだろうか。わたしだけがおかしいのだろうか。
好きになってしまったひとは、義理の兄ではない。近所のお兄さんでもないし、生き別れのお兄ちゃんでもない。十六年間、おなじ家で育ってきた本当の兄妹。ブラコンなんかじゃない。一人の男性として、お兄ちゃんが好きなんだ。
ねえ、どうしてかな。幼稚園でも、小学校でも中学校でも、高校に入っても――わたしを好きになってくれた人はいたよ。だけどやっぱり、お兄ちゃんと比べちゃうの。
このひとが側にいるとどんな感じかな、とか。このひとも優しく髪を撫でてくれたりするのかな、とか。想像しても、誰もお兄ちゃんには敵わないから、わたしはずっと好きでいた。
だって、そうでしょ。一緒にいて幸せでいられるひとを好きになるのって、自然なことじゃないのかな。
わたしは、何も求めてなんかいなかった。ただ好きでいただけ。それだけでも十分に満たされてたし、それ以上は欲張りだとも自覚してた。なのに、そんな小さな幸せさえも続きはしなかった。
お兄ちゃんに彼女ができたとき、わたしは壊れてしまった。
心のなかから黒いものが一杯に溢れて、抑えることも出来ないで一気に吹きでてきた。嫌いにならないで、見捨てないで、って。すがりついて、泣きじゃくって――お兄ちゃんの苦しみなんて考えずに、自分勝手に死のうとした。
ねえ、わかるかな。お兄ちゃんが誰のものでもなかったから、わたしは好きでいられた。好きでいてよかったんだよ。お兄ちゃんが、好きの意味を知ったら、わたしは好きでいちゃいけない。
好きにもいろいろあるっていうけど――それって、嘘だよね。だって結局、そのひとに見てもらいたいってことだから。自分を見てほしいってことだから。
誰か一人を強く想うようになってしまったら、他のひとを好きでいるなんて出来ないんだよ。大事にするなんて出来ないんだ。
病院で目が覚めたとき、心配そうに顔を覗き込んでいたのは、大好きなお兄ちゃんだった。ずっと手を握って、側にいてくれたらしい。
ちくりと胸が痛んだ。なんでお兄ちゃんがそんな顔をするの。もうやめてよ、辛くなるだけだから。心のうちで思っても、言えない。ぬるま湯のような心地よさに、まだ浸っていたかった。もしかしたら溺れてしまっていたのかもしれない。
お兄ちゃんの彼女は、幼なじみのひとだった。わたしも、お姉ちゃんと呼んで慕っていたひと。だからこそ許せなかった、わたしの居場所を奪ったお姉ちゃんを。
ねえ、どうしてかな。わたしだって分かってたよ。お兄ちゃんから離れなきゃいけないってことは。だけど、わたしが誰かを好きになるまで待ってくれてもよかったのに。そんな日が来るのか分からないけれど。待っていてくれたら――
お姉ちゃんにも相談したよね、わたしが好きなひとのこと。笑われるかと思ったけど、柔らかく微笑んで、おかしなことじゃないって言ってくれたのに。見守ってくれるって言ったのに。
二人が付き合い始めて、わたしは少しずつ距離を置くようになった。大好きなお兄ちゃんとも、大嫌いなお姉ちゃんとも。
* * *
それから季節はめぐって――忘れられない冬。
雪の降る日だった。灰褐色の空を雲間から覗く満月が照らし、優しくすべてを埋めていく、それでいて冷たい粉雪が降り注いでいた。
わたしはお兄ちゃんのあとについて、病院に向かっていた。タクシーまで呼んで、家から数キロ離れた医療総合センターへ。お兄ちゃんは何も言わずに表情を硬くして、ただ痛みに堪えるように両手を握り締めていた。
病院に入ると、お兄ちゃんを見とめた看護婦さんが、慌てた様子で急ぐように促した。もう時間がない、と。わけもわからず、わたしは案内されるまま廊下を走って。そして――
「お、ねえ……ちゃん?」
病室の扉が開かれた途端に、わたしは立ち尽くし呆然と言葉をこぼした。急に苦いものが込み上げてくる。理解してしまった、一瞬で。
理由を問いただそうと後ろを振り向くと、お兄ちゃんは辛そうに口をひらいた。
「最後に……お前と二人きりで話したいって……あいつが」
「お兄ちゃん、は?」
「俺は、もう……いいんだ」
片手で顔を覆って表情を隠すと、お兄ちゃんは肩を震わせはじめた。きっと、お別れを済ませていたのだろう。
「……行ってやってくれ」
お兄ちゃんが言うよりはやく、わたしはよろよろと歩き出していた。
不思議に幻想的な空間。病室一面の真白だけでなく、窓の外ですらも純白に染められて、調えられた舞台にお姉ちゃんは眠っていた。
「お姉ちゃん」
声を掛けられれば目覚める程度に、眠らされていたのだろう。わたしが呼ぶ声に、お姉ちゃんは反応してくれた。
「きて、くれたんだね」
たった一言ですら、苦しげに言葉を紡いでいる。それでも、鎮痛剤が効いているのか、会話は出来るようだった。
「なんで……なん、で?」
「ごめん、ね」
流すまいと堪えた涙が、堰を切って溢れ出した。
「……なんでっ!? わたし、こんなの認めない! ずるいもん、お姉ちゃんは、ずるいよぉ!」
「ごめんね……」
わたしのなかの後悔の気持ちが、お姉ちゃんを責める言葉としてぶつけられる。謝りたいのに、こんなときまで素直になれない自分がいる。謝るべきはわたしで、責められるべきもわたしなのに。
お姉ちゃんは微笑みさえ浮かべて、わたしを見つめていた。二人だけで向き合って話すのは一年もまえに遡る。仲のよかったあの頃が鮮やかに蘇って――大事なことを確認した。
悔しかった。恨みもした。でも、いなくなってしまえばいいなんて、これっぽっちも思ったことない。もう大丈夫。わたしは謝ることができる。お姉ちゃんが、大好きだから。
「……ごめん、なさい」
「謝ってるのは、私だよ?」
「違う、の。ごめ……ごめんなさいっ」
「……」
「何も知らなくてっ……何も知らないのにっ!」
「……」
「やだ……お姉ちゃんが死んじゃうなんて、やだよぉ!」
駄々をこねる子供のように、わたしはお姉ちゃんにすがりついて泣き叫んだ。大きすぎる哀しみが行き場を失って、混乱していた。
そんなわたしを宥めて、お姉ちゃんはいつもと変わらない口調で最後の願いを唱えた。
「ねえ、私の知らない一年間のこと。お話してほしいな」
花のように明るい笑顔に支えられて、わたしは精一杯はしゃぎながら話すことができた。
お姉ちゃんのお菓子が食べられなくなって、料理に挑戦をしたこと。
お姉ちゃんの補習がなくなって、自主勉強が少しだけ増えたこと。
お姉ちゃんと遊べなくなってから、友達づきあいを考え直したこと。
いま思えば、環境が変わったのはお姉ちゃんがいないせいで。だから新しいエピソードには、お姉ちゃんの思い出が絡んでくる。そんなことにも気づかされた。
そして一年間を振り返って、お話には終わりが訪れる。いつのまにか薄目になっていたお姉ちゃんは、時計も見ていないのに言った。
「あれ、もうこんな時間。帰ったほうがいいよ、お兄ちゃんが心配するでしょ?」
懐かしい台詞に、一瞬その意味を掴み損ねて――理解したとき、今度こそは泣くのを堪えた。
「……うん。それじゃあ、また、ね」
同じように懐かしい台詞を返して、ふたたび後悔した。分かっているのに。お姉ちゃんとは、もう会えないのだと。それでも、やっぱりお姉ちゃんは微笑んでいた。だから黙って背をむけて、扉に向かう。
「またね……今日は、ありがとう」
わたしは振り返らなかった。
* * *
「なんで、教えてくれなかったの?」
「だってなぁ。ふつう言わないだろ、そういうこと」
桜の咲き始めた四月上旬。わたしとお兄ちゃんは、お姉ちゃんの家にいた。身辺整理というやつだ。大体はお姉ちゃんが自分でやっていたのだけど、さすがに全部は無理だから。体力的にも精神的にも。
お姉ちゃんは幼いころに両親を亡くして、ずっと一人だったらしい。親戚から金銭面での援助は受けていたものの、施設を出てからは養子の申し出を拒んで実家に居つくようになったのだとか。どうしてなのか、理由は分からないけれど。小学校から一緒だというのに、まるで気づかなかったのも馬鹿みたいな話だ。
「じゃあ、お兄ちゃんは一階からお願いね。わたしは二階からやるから」
「わかった……あんまり漁るなよ?」
「そんなことしないって!」
言いつつも、お姉ちゃんの部屋を整理するのは楽しみだったりね。
階段を上りながら、この家の主に想いを馳せる。結局あの夜に話したのは、他愛もない近況報告だけだった。お姉ちゃんがわたしを許したでも、わたしがお姉ちゃんを許したでもなく、ただ一年前のようにお話をしただけ。
だけど、十分にお互いを分かり合えたというのは、自惚れなのかな。聞けなかった想いを聞きたい。答えが知りたい。まだ迷いがあるのは、いまのわたしがお姉ちゃんを無視できないから。
「え、これ……」
綺麗に整頓されたお姉ちゃんの部屋。扉を開けて、すぐに目にはいる勉強机。その上に、一冊のノートが置かれていた。それは日記だった。
いまここで読みふけるのは躊躇われて、手に取ったノートのページをぱらぱらとめくり飛ばしていく。たどり着いた最後のページに、わたし宛の文章があった。
『死にゆく私は、幸いだろうか
しあわせな思い出だけを抱いて逝けるのだから
生きてゆく貴女は、辛いだろうか
かなわぬ想いを抱いて行かなければならないのだから』
「……っ」
わたしがお兄ちゃんを好きでいることを、許してくれていた。それが分かった。相談したときの、見守ってくれるという言葉は嘘じゃない。ちゃんと形に残されてる。
ただ、お姉ちゃんもお兄ちゃんが好きだっただけ。お兄ちゃんがお姉ちゃんを好きになっただけ。一緒にいて幸せなひとを好きになるのは、自然なこと。結局、それだけのことだったんだ。
ねえ、聞こえてるかな。わたしはお兄ちゃんを好きでいるよ。ずっと、ずっと。叶わないけど、苦しむだろうけど。でも、お姉ちゃんの想いも確かにわたしのなかにあるから。
それに約束したもんね。またね、って。今度お姉ちゃんと会うとき、お兄ちゃんが他のひとと付き合ってたら可哀想だし。見張っててあげるよ、変な虫がつかないように。
だけど、もしわたしが認められるようなひとだったら。そうしたら、お兄ちゃんを任せてもいいよね。それまでは、わたしが側にいるから。
「お姉ちゃん……ごめんね。ありがとう」
残してくれた大切な日記を、大事に胸に抱えて、わたしは泣いた。