7.スマートになりたい
響はあまり記憶力が良くない。記憶できるキャパシティーが少ないにも関わらず、悩ませる出来事が多すぎるのも理由の一つかもしれない。
特に今朝は惨憺たる状況だった。
まず、慎一が早めに迎えにくる作戦で順調に思えた慧が三日経って、また起きなくなった。つまりは彼氏の効果も大して得られなかったと言うことである。
そして、遅刻常習犯で尻に火が付いた危機的状況の恵が、ようやく時刻通り起きてくるようになった。それは良い。
しかし、その所為で身だしなみにうるさい暁と洗面所の争奪戦が始まったのだ。絶対に譲れない暁の激昴ぶりは筆舌に尽くし難い。
「メグ兄邪魔っ!ガリ勉は髪とかすなっ」
「るせぇ!洗面所は皆のもんだ」
「私は女!身だしなみは礼儀なの!」
「そのオバケ睫毛がかぁ?」
「死ね!シスコン」
「響コンですぅー」
口では一枚上手の恵に、悔しさで半泣きの暁がヘアスプレーだのドライヤーだのを投げ付けるのだ。
そしてそれを綺麗に避ける弟の身代わりに、洗面所に並んである物たちが犠牲になっていく…。
「わぁぁぁん!響ちゃーん」
どんなに背伸びをしても暁はまだ中学1年生なのだ。泣きべそをかいて、響に抱き付いてくる。
「恵!あんた譲ってやんなさいよ」
「やだね!俺の癖っ毛知ってるでしょ。昔、響ちゃんが言ったんだよ、『ストレートのが似合う』って」
―覚えてないわ!
「…今は癖毛のが似合うよ」
「嘘だね。面倒だから言ってんのバレバレ」
ああもう!!地団駄を踏みたくなる。
とにかく暁を宥めるのと、洗面所の片付け、慧の世話…と響の仕事は増えたのだった。
教室でため息をついて放心していると、一際目立つギャル集団に囲まれた緒方が見えた。
頬杖をついて、見目麗しい彼らを眺める。学校が一番穏やかだ…そう思った。
「ねー準、昨日歩いてた女誰?」
「マユ、めっちゃショック受けて泣いてたんだけど」
「えー?マユちゃんが?」
様子を見るに、緒方は責められているようだ。しかしいつもの微笑みを携えて余裕の緒方と、自分の違いに目を見張った。
「あの子、バカだけどちゃんとマジなんだよ」
「でも俺誰とも付き合ってないんだけどなぁ」
「昨日のも?かなり怪しい感じらしかったじゃん」
「サオリちゃんかな?仲良しなんだ」
「仲良しって…」
「じゃ、俺マユちゃんだけと遊ぶなら、ミホちゃん達とも遊べないわけ?」
寂しそうな表情の緒方に、ミホと呼ばれたギャル達は頬を染めた。
「俺、そんなん嫌なんだよね…わがままかな」
今、絶対女子たちからハートが飛んだ。
「そ、そっか…」
「準は準だもんね」
意味不明なことをどこか嬉しそうにギャル達は言葉を濁した。響には良く分からなかったが、切羽詰まった空気はいとも簡単に和らいで、ギャル達は教室を出て行った。
響は目から鱗だった。何て素晴らしい。修羅場でもあのスマートさ。自分の朝の対応と比較して、益々緒方を崇めたくなかった。そんな熱の入った視線に気付いたのか、緒方が響の方にやってきた。
「おはよ、天谷ちゃん」
「おっおはよう!」
いけない、スマート、スマート。
そう言い聞かせ姿勢を正す。
「あの…昨日のさ」
緒方らしくない、ボソボソとした声だった。
「うん」
「帰り、ごめんな」
「え?」
二人は顔を見合わせた。
「え?」
緒方も繰り返す。
「帰り?」
響は必死に思い出そうとした。昨日の帰りは…哉のためにカレーを作ったら、予想以上に食欲旺盛の弟妹たちが食べ進み、慌てて米を炊き直した…ことしか出てこない。
「俺、送ってかなかったじゃん」
「うん」
とりあえず頷くのは響の悪い癖だ。分からないと顔に出ているのがバレバレとよく恵に言われていた。すると緒方は虚を突かれたように、グッと喉を鳴らし、
「…まさか覚えてないの?」
と聞いてきた。
「あの、ごめんね。なんだっけ?」
ここは潔く謝ろう。先程の緒方のようなスマートさを身に付けたいのだ。
「なんだよ…」
緒方はガクッと頭を垂れた。その様子でピンときた。
「あっ!会議だよね会議」
「それじゃねーよ」
ブツブツ呟く姿はいつもの緒方らしくない。どうしたのだろう?何か悪い物でも当たったのだろうか。
「もういーや…」
肩を落としたまま、緒方は席についてしまった。響は瞬きを繰り返すだけで、何のことなのかちっとも分からなかった。
「なぁ、響」
肩を叩かれ振り向くと慎一が沈んだ顔をしていた。
「俺さ、男として意識されてない?」
慧のことだとすぐ分かった。
「そんなぁ、気にしてるの?」
「だって寝間着姿とかも全然普通に見せるし」
「でも、さすがに着替えは部屋でしてるじゃない」
そのとき、ドサッと音がして驚くと、緒方が鞄を落としていた。やっぱり調子悪いのかな、と心配しつつ幼馴染の相談にのってやる。
「最初は良かったのに」
「それは私も思った。やっぱ慣れちゃうとダメなんだね…。もういっそベッドから引きずり降ろしてくれる?」
今度はバサーッと教科書が落ちる音がした。また緒方だ。すぐ、周りの女子が拾ってやっていた。
「いやぁ、それはさすがに」
「ははは、冗談」
二人で笑い合った。背を向けていた響は見えなかった。…緒方が憑物を払うように激しく頭を振っている異様な光景を。