29.雨と洗濯物と睨み合い
今更ながらの季節感です。
「…降ってきた」
梅雨入り―。
穀物には必要な雨でも、響にとっては天敵である。
「響ちゃん、たまにはコインランドリー行かない?」
「あ、いいね!行ってみたーい」
「姉ちゃん、俺三日くらい洗わなくても平気だって」
「そ、そうだよ。哉ちゃん、私の香水かけたら?」
弟妹たちは無理矢理はしゃいで、響の機嫌を必死に取ってくる。おたまを片手にベランダを睨んで仁王立ちする響は、ふっと笑みを浮かべ一同を瞬時に黙殺させてから、夕食の準備に戻った。
コインランドリー?
何を言ってくれるのだ。この雨の中を歩くには距離があり過ぎるし、そんなことにお金を使うとキリがない。そして哉。あんな泥と汗に塗れたユニフォームを洗わなくていいなんて、今ここで着てみなさい。
…と言うのは八つ当たりなので響は口を閉じた。
溜まった洗濯物が恐ろしい。いよいよ響の大嫌いな季節に差し掛かる。
「いやな季節よねー」
「湿気もすごいしね。部屋の中が洗濯物だらけよ」
「低気圧で頭痛も酷くて。更年期なのかしら」
「あらまぁ」
盛大なため息を吐き出す。井戸端会議のようにいつものスーパーで愚痴る主婦の中に、同調する響の姿もあった。
外は今どしゃぶりだ。そのため店で待機してると言ってもいい。半額市でもない今日は天気が左右してか、客足も少なかった。
「響さん、俺送ってこうか」
商品を陳列する那須に話しかけられる。
「あらー、いいじゃない!」
「せっかくだしそうしなさいよ」
響の口が開く前におばちゃん達から強烈なプッシュがかかった。
「え、でもそんな。那須くん仕事中じゃん。弟に頼むから大丈夫ですよ」
「弟って言っても恵くん達まだ学校終わってないでしょう」
その通り。快く引き受けてくれた弟達だが、部活だったり遠かったりであと30分はかかる。
「な?この様子なら店も暇だろうし」
那須はぐるっと店内を見回して微笑んだ。
「那須くん、早いとこ店長にかけあってきなさい」
「はい!」
「えっ!ちょっと」
響の意見なんて聞いちゃいない。
「いいのかなぁ…」
ほんの少し落ち着いた雨の中、響は那須に送ってもらっていた。
「響さん、米も牛乳もこんなに買って帰れたワケ?」
「濡れたっていいもん」
「バカ、風邪ひくだろ。響さんがひいたら兄弟困るんじゃねぇ?」
「んー」
「こういうときは素直に甘えるの!」
「うー…はい」
那須の言い分は一理あるので、響は反論出来なかった。押し負けた響を見てか、那須は機嫌良く鼻歌を歌い出す始末だ。ムッとする気持ちを押さえたとき、急に雨足が強くなり傘の意味がないほどのスコールになった。
「わっ!やべぇ!急ごう」
「あの角が家だから」
制服はびしょびしょだった。スカートが絞れそう。
「那須くん、ありがとう。うちで乾かしてって」
「いいの?」
「タオル持ってくるね」
家にはまだ誰も帰っていなかった。
「サンキュー。うー制服が張り付いて気持ち悪い」
「弟の着替えで良ければ借りてって」
恵のなら那須にも入るように思えた。服を渡し、響も着替えてから紅茶を沸かす。6月と言えど今日は冷える。シュンシュン鳴るヤカンの音でホッと息をついた。
「響さん、これさぁ」
響は目を剥いた。那須は上半身裸だったのだ。
「んな!早く着なよ!」
「いや、どっちが前・後ろ?」
「タ、タグは?左脇にタグ!」
「ああ、中にあんのか」
響は必死に顔を逸らした。不可抗力と言っても痴女にはなりたくない。
「あれ?照れた?」
「見たくないだけ!」
「上半身だけで何言ってんの。弟がいるから見慣れてると思った」
「天谷家は品行方正なんですっ」
真っ赤になって言うと、那須は大笑いしだした。
「わはは!真っ赤だ。可愛い」
「うるさいっ離れろ!」
「何でー。動揺した響さん初めてじゃん。ラッキー」
「なっな、なにを」
からかいの対象を見つけたように、那須は響の背中に抱き付いて頬をすり寄せてきた。恵にはよくされる行為とは言え、相手が後輩となっては別物だ。
「―どちら様ですか」
ガッと響と那須の間に傘が入った。
「うわっ」
「恵!びっくりした…お帰り」
「これ誰?不審者?」
「おいおい、あからさまだな。前会ったじゃん。後輩の那須です」
しかし恵は那須をシカトし、服を指差した。
「これ俺の服だぞ」
「ごめん、恵。那須くんに送ってもらったんだけど濡れちゃったから。いいでしょ?」
「あ、じゃ俺脱ぎましょうか?」
「はぁ?」
バカか、こいつは。恵は響の手前、暴言を何とかして飲み込んだ。すると響の顔がボン!と爆発したように赤くなる。
「ばっ!い、いいってば!」
「響さんエッチー」
「な!ななななな…」
「慌て過ぎだろ。『な』しか言えてないから」
那須は体を揺すって笑った。
「アンタ、何したの」
先程のスキンシップを思い出し、腸が煮えくり返るのを我慢して恵はガンを飛ばした。
「しっしてないよ!」
可哀相に、姉はこいつをかばって激しく首をふった。
「してないよ。姉思いにしちゃ随分過激だね、弟クン」
恵と変わらない背丈で、鋭い視線を返してきた。
…那須と言ったか、この男。恵は舐め回すような視線で洞察した。後輩と言うことは珠美が認めた『響ちゃんに近い男』なわけだ。以前の訪問のときはもう一人の優男ばかり気にしていた。
「響さん、信用されてないんだなー」
那須は姉が何を言ったら傷付くか知っているようだ。案の定『信用』と言う単語に、響の瞳が不安げに揺れた。恵はチッと舌打ちした。
「響ちゃん、走って学校出たけど遅くなってごめん。この人の好意で送ってもらったんだな。でも今度から俺が行くまで待ってて。迷惑かかるだろ?」
男からぐっと唾を飲み込む音が聞こえた。目を合わせて優しく諭せば、響は安心したように頷く。
―ざまぁ那須。お前と俺とじゃ土俵が違うんだよ。
言わずとも恵のしたり顔で那須には伝わったらしい。一気に不快そうに顔を歪めた。
「服捨てていいんで、早く帰ってください」
ちょっとは胸がスッとして、調子良く言い捨てる。
「えっ、那須くん家で夕飯食べてきなよ」
―なんで!!
予想外の姉の言葉に、恵は言葉に詰まった。
「いいの?嬉しい。俺腹ペコなんだ」
その隙に那須は破顔で取り付く。
「スーパー(いちばん)で安いキャベツ買ったからね。ロールキャベツで良ければ」
「大好き」
「おい、響ちゃんに手間かける気か。帰れ」
「どうせ5人も6人も変わんないだろ?」
「そうよ、恵。意地悪言わない」
ここまでくると、反抗するほどに那須の株が上がってしまう。恵は歯ぎしりする思いで那須を睨んだ。
キッチンを追い出された男二人は廊下で対峙していた。
「激しいね、弟くん」
「当たり前だ。害虫は駆除しないとな」
「害…」
那須は呆れた。そこまで言うか、このシスコン男は。
「そろそろ姉離れしとけば?」
「身内ってのは切っても切れない縁があるんだよ。お前が頑張ったところで、他人の入る隙なんかない」
自信たっぷりに言われると、何だかその通りな気がする。今のところ彼女から何の脈も見えないし。それでも引き下がるつもりは毛頭なく、口火を切った。
「決めんのは響さんだろ。諦めねぇから」
恵はフンと大きく鼻を鳴らし、その場を去った。
それらは酷い雨の音にかき消され、響の耳には入ってこなかった。