27.キス・キス・キス
「き、キスされた…」
ファーストキスは女性の挨拶で終わりました。
それを聞いた珠美は爆笑である。響もネタにするしかないと思っている。
しかし恵は半狂乱で、その様子にさすがの響も退いた。
『だから言ったじゃん!あいつは帰国子女だからって、何度も何度も!』
どこの親父かと言うくらい激昂し、タオルで何度もこすられ、響の唇は真っ赤に腫れている。
「とんでもないのに好かれちゃったね」
「基本バイリンガルな人だよ」
「面白い。でも話し聞くだけで十分」
踏み込まない。それは珠美が覚えた牽制術である。
まぁ初めてだったけど、外国では挨拶と言うし、緒方ならそれこそたくさん経験しているだろう。
そう思うと誇らしささえ感じる響だった。
次の授業は視聴覚室でDVD観賞だ。席についてからプリントを忘れたのに気付いた。違うノートに書いて写すと二度手間だ。響はDVDが始まってから、こっそり持ってくることにした。
小柄で得をするときはこういうときかもしれない。背を屈めて足音さえ気をつければ、授業中に廊下を走っていても誰も気付かない。響は調子良く、辿りついた教室のドアを躊躇なく開けた。
「いや…―!」
「ちょ、」
中には、緒方に抱き付いてキスする女子がいた。
「!!!」
ごめん!見たかったわけじゃない!と響は咄嗟に閉め、駆け出した。
初めて見たキスシーン、しかも知ってる人とあって響は興奮していた。相手は、時たま読者モデルなんかに出て、可愛いと評判の高田麻由だった。
ああ、あれは衝撃だった…。響が体験した触れたか分からないくらいの口付けでなく、相手の唇を吸い込むくらいの勢いで…。思い出してまたクラッときた。鼻血は出てないだろうか。どのみち顔の火照りが収まるまでは戻れない。
ふぅと息をついて昇降口の隅に腰掛けた。
「あ、あのさ…」
「うわっ!」
響は飛び上がった。息切れしたヨロヨロの緒方が隣りに座ってきたのだ。
「えーと、あの、見てません!」
言い触らすつもりもなく、響は必死に弁解した。
「…そんな真っ赤な顔で?」
フッと緒方は微笑んだ。
「何か忘れ物?」
「あ、うん。プリントをね、でも後で写すから平気!」
緒方がここにいると言うことは、もう事は済んで教室に戻れるかもしれないが、さすがにちょっと艶めかしいので気が引けた。
「俺さぁ…」
緒方の声は沈んでいた。肩まで下げて落ち込んでいるようだ。
「いや、あれは俺が悪いよね」
「…いやだったの?」
「そうだね、ああいうことしないって決めたけど、結局俺は俺なのかも。人は簡単に変われないね」
―この人は傷ついている。
緒方の微笑みは、いつも響が憧れているものだった。柔らかくて余裕がある、完璧な。それなのに何故か、無理して作ったものだと思った。
「…嫌なものは嫌でいいんじゃない?そんなこと自分に言い聞かせなくても」
緒方は黙って響を見ていた。
「それにほら、き、キスなんて挨拶だと思えば」
「―挨拶?」
聞き返さないでくれ。響は顔を真っ赤にしながらぎこちなく笑った。
「ま、まさか天谷ちゃんにそんな形で慰められるなんて…」
緒方は目を丸くしてから、顔を膝に埋めて笑い出した。その様子に響は少し安心した。
「外国ではそうなんでしょ?」
「でもそのフォロー、古くない?」
何がそこまでおかしいのか涙まで浮かんでいる。
「だって、私も昨日されたんだよ」
沈黙。
「はい?」
また沈黙。
…あれ?何だこの空気。すべった?
「外人に?」
緒方がニコニコ笑って聞いてくる。目は…笑ってない。
「いや、弟の彼女」
「…………………彼、女?」
「あ、なってくれたらいいなって願望なんだけど。一応好きではいてくれてるのかな?いや、今はちが」
「そこじゃなくて!」
いきなりの大声に響はビクッと縮み上がった。
「ど、どこでしょう」
「女にされたの?」
「うん、帰り際に英語で」(※フランス語です)
するとハァ〜〜〜っと長いため息をつかれた。
「さすがだな」
褒められてはなさそうだが、引きつりながら口角を上げた。
「キスは、挨拶じゃない。大事な人とだけするもの。覚えて」
「わ、分かった」
何で響が若干怒られている感じなのか分からなかったが、真剣な表情で言われ頷いた。そのまま緒方はじっと唇を見てくる。そんなに腫れてるだろうか。珠美にタコみたいと言われたことを思い出した。
「!」
急に緒方の腕が唇に当たった。そのままゴシゴシとこすられる。
「よし、消毒」
機嫌良く言われ、また唇が腫れた気がした。
「あ、ありがと…?」
お礼を言うことなのか分からなかったが、余計な親切心という可能性もある。
「俺も消毒して」
「え?」
「だって言ったろ、俺あれイヤだったんだ。無理矢理奪われて俺の心はズタズタなの」
「奪われ…」
その言い方ってどうなんだろう。軽い口調に似合わない真直ぐ見てくる視線に、響は居心地の悪さを覚えた。
「お返し、してくんねぇの?」
「………」
何をしろと、と思いつつハンカチを取り出そうとしたとき。
―ちゅっ
「よし、オッケー!」
緒方はついさっき落ち込んでいたとは思えない勢いで、サッと立ち歩いてしまった。
響は訳分からず、額を押さえた。さっき彼の唇が触れた場所だ。
―消毒?でもキスって大事な人とするって言わなかった?
今のは一体何だ。おでこに唇を当てるのってキスとは言わないのだろうか。でもまさか、それが今の若者の消毒事情?そんな冗談、いくら流行りに疎くても信じたくない。ちぐはぐな頭に思い浮かんだのは、天谷家一流行にうるさい暁だった。これは週末、妹と出かけて現代の常識とやらを垣間見るしかない。
ぐるぐるまとまらない頭のまま、響は足取り軽い緒方の後ろ姿を追いかけた。