小話:小さな恋のおはなし(2)
「うう〜〜〜……」
「は、始まった」
最近は夕飯が済んでからすぐ、響ちゃんの呻き声がリビングに広がるのが恒例となっている。私と哉、暁は邪魔をするなと部屋から閉め出されている。
「響ちゃん、この問題までやっとくって約束したよね?」
「は、はい…」
「俺には真っ白に見えるけど気のせいですか」
「う、うう〜〜〜」
「泣いたって無駄!」
このときばかりは恵ちゃんがちゃんとした兄に見える。高校受験を控えた響ちゃんの勉強を、年下の恵ちゃんが見ているのだ。塾に通ったらと言う兄弟の提案を、ご飯の用意ができないからと響ちゃんは頑に断って、独学で頑張る、予定だったのだが、彼女にはあまり勉強が向かないようでいつも苦しそうな声を上げる。
「響ちゃん大丈夫かな…」
尋常じゃない姉の様子に、暁が心配そうな声を上げる。
「慎兄はどうなの?」
哉の声に、私は動揺を知られないように平静を装った。
「大丈夫なんじゃない?塾に通ってるみたいだし」
地元の中学に進学した二人は当然のように、そのまま近くの高校に進むようだ。
響ちゃんに合格してほしい気持ちと、これからも一緒にいる二人を見たくない気持ちとが複雑に織り混ざっていた。
それでも、恵ちゃんの力の入った指導の賜物か、響ちゃんは無事に合格を決めた。
この冬が終われば、二人は更に大人の高校生になる。私は?逃げるように遠くの女子校に通って、その次はどうすればいいのだろう。恵ちゃんは進学校を受験すると息巻いている。あんだけ響ちゃんに執着していたからてっきり同じ高校に進むと思っていた。哉も地元主催の運動クラブに入ってから、精を出していて、何だかやりたいことを見つけた感じだ。暁だって、あれをしたいこれをしたいと言うことがいつも変わるけど、それすら私には眩しすぎた。
私だけ。
私だけが前に進めない。
両親がいなくても、帰れば響ちゃんがあったかいご飯を作って待っている。兄弟も多いし、寂しいと思ったことは今まで一度もなかった。全部響ちゃんのおかげなのだ。分かってるのに、響ちゃんの顔を見て笑えない。私は最悪だ…。大好きな家に少しでもいたくなくて、帰る時間がどんどん遅くなった。
「慧、最近何かあった?」
響ちゃんが優しい声で心配してくれる。
「テストが嫌なだけだよ」
「テストかー。私ももう暫く勉強はいいや」
響ちゃんらしい慰め方に、ぎこちなく笑った。
「終わったらケーキでも買おうよ」
「…うん」
テスト準備期間はいつもより下校時間が早くなる。響ちゃんには勉強して帰ると嘘をついて、夕飯ギリギリに帰宅した。慎ちゃんとはもう1ヵ月以上会ってなかった。
今日もフラフラと本屋に行ったり洋服を見たり、それでも時間が潰せなくて目に入ったゲームセンターに足を運んだ。
「慧っ!何してんだよ」
グイッと強く腕を引かれると慎ちゃんがいた。あまりに突然で声が出ない。
「ずっと後つけてた。勉強なんかしてないじゃないか。色んなとこ寄り道して」
いつもの優しい声からは想像できないくらい、語尾を荒げて眉を吊り上げていた。
「響が心配してたぞ。最近ずっと遅いって聞いた。どうしたんだよ」
また、響ちゃん。ずっと燻ってた私のマグマが沸々と爆発しそうになる。
「どうもしない。慎ちゃんに何の関係があるの?」
「関係?なんだよ、それ」
慎ちゃんは初めて聞く単語のように、固い声を出した。
「だって他人でしょ?兄貴ぶるのはもうやめてよ!」
掴まれた腕が痛い。血が逆流する。私の押さえてた気持ちまで一緒に溢れ出る。
「私は慎ちゃんなんか大嫌い。顔も見たくない!」
そう叫んで、私は全速力で家に駆けこんだ。
皮肉なことに慎ちゃんの家も隣にあるけれど、彼は私のことを追いかけてこなかった。
いつからだったか、こんなこと言ったらどんな顔をするだろうと想像するのが癖になってた。
『好き』ではなくて『嫌い』って。
少しはショックを受けてくれるかな。悲しんでくれるかな。
そして、俺は違うよって言ってくれるかな。その言葉を想像するだけで私は満たされた。
ついに言ってしまった。慎ちゃんは悲しそうな顔をして、肩を落とすはずだった。
でも、現実は目を見開いて、固まって。その目の色に悲しみは見えなかった。
もういやだ。消えてしまいたい。
帰るなり、部屋に閉じこもり、響ちゃんの声も聞こえない振りをして、私は泣き続けた。
寝て、起きて、学校へ行って。
そんな毎日を繰り返して、季節は春になった。響ちゃんは高校生になった。…もちろん慎ちゃんも。
部屋にこもりがちになった私のことを、好きにさせておけと恵ちゃんが響ちゃんに言っていたのを聞いた。そのときの響ちゃんは見るからに落ち込んでいて、小さい体がますます小さく見えた。
響ちゃんと私はあまり似ていない。
どちらかと言うと、暁の方がそっくりだ。
私はあんなに白くて、守ってあげたくなる小さい体ではない。それでも響ちゃんは一人で何でもやろうと立ち向かう、その強さが私には苦しい。私とは正反対。
『―慧はあんまり響には似てないね』
遠い昔、慎ちゃんが言ってくれた言葉。
『でものんびりして優しいところが、慧にしかない、良い所だよ』
恵ちゃんが、俺と響ちゃんは目がそっくりだなんて自慢してきて落ち込んでいたときにすごく救われた言葉だった。
そんな人に酷い言葉を投げつけてしまった。それだけじゃない。大好きな姉にあんなに悲しい顔をさせてしまった。
謝ろう。もうこれ以上、『のんびりして優しい私』じゃなくなるのを、止めよう。
短く切った髪が肩先まで伸びた頃、やっと私は自分の気持ちに踏ん切りをつけた。