16.計算外の気持ち
緒方はおずおずとベッドに入った途端、熟睡し始めた響を唖然として見ていた。
「ここ一週間、寝られなかったらしいよ」
慎一が苦笑する。
「…随分詳しいんだな」
ポロッと口から出てしまった。
「幼馴染だから」
幼馴染だからって、生活スタイル全て把握出来るのだろうか。毎朝一緒に登校できる?この年になっても泊まるのか?
釈然としない考えに、腕が痛むのか胸もキリキリと染みた。
「じゃ、俺戻るね。緒方はもうちょい休んでて」
「サンキュー」
ふぅと息を着いて、緒方は姿勢を崩した。ここ最近気分が晴れない日が続き、その原因にどうやら天谷響が関わっていると気付いてからは益々考えごとが多くなった。
いつもは余裕で女子の相手をし、気に入りの子を選別するくらいゆとりがあったのに、顔色の悪い天谷響を見つけてからは全て飛んだ。おかげでこの有様だ。
「……あと…15個…」
いきなり話しかけられ、緒方は慌てて振り返った。しかし響に起きる様子はない。
「寝言かよ」
どんな夢を見ているんだか。小さく笑いながら、響の顔を覗くと白い頬が少しこけた気がする。それを見て触り心地が良かったことを思い出し、緒方の手は知らずに伸びた。
染めていないだろう生粋の黒髪が額から流れる。顔にかかっている分を避けてやると、少し険しかった顔がすやすやと穏やかなものへ変わる。
「変わった女………」
眠いからと言って知ってる男の前で爆睡する。香水の匂いもしない。瞼を閉じても目の周りに化粧の色はない。
頬を撫でると、すべすべしてカッと体が熱くなった。
その変化に自分が驚き、パッと手を離す。
「くそ、マジかよ〜…」
緒方は頭を抱えた。自覚すると激しく走ったように動悸もしてきた。顔が熱いので恐らく赤くなっているんだろう。
薬品の匂いのする大して大きくないベッドに、簡単に身を包み幸せそうに寝る女。
それが特別に見えることを受け止めたくない緒方だった。
校内の喧騒も、じめっとした保健室では大分静かに感じる。隔離されたような狭い部屋に、すやすやと寝息を立てる音だけが緒方の耳に心地よく響いた。しばらくはその幸せそうなマヌケ面を眺めていた。
「失礼します!」
ガラッと勢い良くドアが開かれ、ひょろっと背の高い男が入ってきた。高校生くらいだと思ったが、私服を着ていて外部生だと気付く。湿気を受けて髪があちこちに跳ねている。
「恵ちゃん、うるさいよ」
隣りの長い髪の女がたしなめる。
「あれ、先生いませんか」
「今出かけてますが…」
どこかで見たことがある気がする。記憶の引き出しを探ろうとしたとき、目の前の男がすうっと冷たい表情になった。
「じゃ仕方ない。うしっ」
「わーベッド汚い」
酷い言葉を女は何故か感動したように言う。
「響ちゃん、帰るよ」
「えっ!?」
ベッドに直行して、男はいきなり天谷響の頬を叩いた。
「帰る?さっき寝たばっかで…」
てかこいつ何?
「あ、そうなんですかー」
男とは不穏な空気を感じるのに、女は全く違う腑抜けた声を出す。
「響ちゃんとお知り合いですかー?私、妹の慧です」
ゆっくり頭を下げられ、緒方は驚いた。
「妹?あ、言われてみれば」
どことなく面影が?でも天谷響よりは身形に気を使っている気がする。動作も考えられないくらい遅い。
「あんまり似てないですかね?慎ちゃんにも良く言われてー」
「慧、響ちゃんの上履き持って」
「あ、はいはい」
男は憮然と妹と名乗る女の会話をぶった切っておきながら、溶けるような優しい瞳を天谷響を見つめ、抱きかかえた。
「えっ、何してんの?」
「すみません、姉寝不足なんで連れて帰りますー」
「帰るって、そんな」
まだ文化祭は終わっていない。怪我のお礼もきちんと言えていないし、緒方はまだ帰したくなかった。
「あ、クラスメイトの方ですよね?早退すること舞子さんって方から許可いただいたので、伝えておいてください」
男は緒方を一瞥し、響を背負って出て行った。クラスメイトをやけに強調された気がしたが、気のせいか。
「すみませんー。失礼します」
その後を妹がパタパタと追いかけて行った。
「恵ちゃん、あの人のこと知ってたの?カッコ良い人だったねー」
「あ、慎ちゃんに言ってやろ」
「やーだ、あんなチャラそうな人、好きじゃないもん」
…ドアを開け放したまま筒抜けの悪口に緒方は顔を引きつらせた。
穏やかな顔をしておいてさすが天谷響の妹だけある。それにあの有無を言わさず連れ去った男も身内なのか?それにしてはただならぬ雰囲気を感じたが、一体どういうことだ。
「謎すぎ…天谷ちゃん…」
途方に暮れた緒方の呟きを聞く者はいなかった。