13.一方緒方は…
緒方視点です。
例えば、喉元まで出かかってるのに、思い出せない小学校の先生の名前とか。
取れそうで取れない奥歯に挟まったホウレン草とか。
引っかかって歯がゆくて悔しい感じ。諦めたっていいんだけど、ふとしたときにやっぱり思い出して、舌打ちしたくなるような、そんな胸のもやもや。
…最近の俺はいつもそんな気分だ。
だから、ちょっと気が向いて早く登校してみた。それこそ端的に言えば、『何となく』。
『影では努力してるなんて』
―たった1回なんですケド。
『悔しかったんでしょ?』
―ないない。
『今度は勝てるね!』
―やめろよ。何が…
『無敵じゃない』
理由なんてない。あってたまるか。
柄にもなく朝から汗を流してしまった。これが男女の営みでかいたならまだ俺らしいと言えるが、至って健全なスポーツの汗である。
―柄ってパンツの?
今でも耳を離れない声が蘇る。口に出さなくとも確実にあの顔はそう聞いていた。何なんだ一体。どうしてそこでパンツが出て来るんだ。
自他共に認めるフェミニストの俺は、物心ついたときには既に女が喜ぶこと(勿論年相応な可愛らしい微笑みとか甘い言葉とか)を本能で知っていた。
この女のようなパーツの顔は、女に好まれるらしい。一つ微笑めばたちまち顔を赤くされ、すぐ背中に熱い視線を感じる。一つ声をかければ百になって返ってくる。
それを不気味と思わないこともなかったが、好かれると言う気持ちに囲まれるのは悪くなかった。
俺の為に用意したり努力したと分かる女のコの笑顔は可愛いし、触れば柔らかくて気持ち良い。思春期の俺は欲求に素直に答え、自堕落とも言える生活を送っていた。
「ありがとー那須くん」
教室に入ってきた耳に覚えのある声に、机に突っ伏していた体が硬直した。
「どこ置く?」
何だかどこかで聞いたことのある声もする。
「んー教壇で」
「おー2年生のクラスドキドキ。失礼しまーす」
ちらっと目だけで伺うと、天谷響とガタイの良い1年ボウズが並んでいた。
「助かったよ」
「こんなん一人で運べないでしょ」
「そうだけど…魔王の命令だし」
ブツブツ不機嫌そうな声は良く聞き取れない。
「なに?マオー?」
「しっ!聞かれたらどうするの!」
「どういうこと」
男は明らかに笑いを含んでいるが、彼女は気付かずに心痛な声で言った。
「…私見ちゃったの。泉先生の笑顔…」
「笑顔?へー珍しい」
泉と言えば、時間にうるさくてナイフのような冷たい眼で美貌を殺している、俺にとっちゃ損してんなーと思う教師だ。
「私、死ぬかも…」
「………」
ブッと息を呑む声が聞こえた。肩が小さく震えている。あの1年が豪快に笑うのも時間の問題と思えた。
「頭も触られた。呪いかけたのかも」
あくまで、天谷響の声は真剣そのものである。呪いって、泉が聞いたらさすがに呪われるぞ。…あ、一緒か。どこをどう取ったらそうなるのか分からない彼女に心で突っ込んだ。
「…触られた?」
那須の声は低くかった。
「うん、こう」
気になったので、俺は顔を上げケータイをいじるフリをした。天谷響はポンポンと小さい自分の頭を軽く叩く。
「…それ撫でるって言うんじゃね」
「違う!怨念送ってたもん」
「じゃー俺が払いましょう。ほら」
言った途端、那須は両手で天谷響の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「わっ那須く、やめ」
反動で小さい体がゆらゆら揺れる。パッと手を離すと目が回ったのか足取りがおぼついて、那須に抱き付く形になった。
「おっと、大丈夫?」
優しい声で肩を抱くあいつは、中々の策士のようだ。顔には出していないつもりらしいが、まぁ嬉しそうに目が笑ってる。教室の隅で抱き合う二人は、端から見たらイチャついてるようにしか見えなくて、非常にムカついた。
「なにこいつ」
憮然とした顔の由良珠美が二人の間に入った。少々キツい性格の由良は、俺と同じ部活仲間で天谷響と仲が良い。いつも彼女の試合には応援する天谷響がいた。
「珠ちゃん、おはよー」
「彼氏?」
「はい!」
ニカっと那須が宣言した。俺は思わずケータイを落とした。
「違う!何言ってんの!?」
バケモノでも見たように青ざめた顔で天谷響は抗議した。俺もホッと息を吐く。
「はは、冗談っす」
「響にそういう冗談やめて」
由良はキツい口調に合わせた目付きで相手を値踏みするように見た。
「お友達ですか」
「うん、珠ちゃん。こっちは那須くん。『いちばん』の人」
―はい!?
な、何て言ったあの女。恥ずかしげもなくめちゃめちゃ恥ずかしいこと言ってんぞ。彼氏じゃないのに一番?珠ちゃん突っ込め!日本語おかしいと指摘しろ!
「ああ、なんだ。由良です」
「那須です」
なんでスルー!?
「…響に変なことしたら承知しないから、宜しく」
由良はあまり見せない微笑みを浮かべ辛辣に言い切った。那須もさすがにたじろいだようだが、
「一応覚えておきます」
と、生意気に言い返した。
「那須くん!何で珠ちゃんに敬語で私はタメ語なの。もうちょっと先輩に敬意を払いなさいよ」
その空気をぶち壊す天然兵器。
「ああ、先輩?響さんって先輩だったっけ」
「な、な…!」
口をパクパクする天谷響に由良と那須は揃って大笑いした。由良にも笑われたことで、天谷響は一気に不機嫌になり席についた。
「さっきの牽制、本気なら良いよ」
「合格ですか」
「初見はね」
取り残された二人はそう目配せして、那須は教室を出て行った。その様子に俺は確信する。
―那須は天谷響に惚れている。
…何だか面白くなかった。
「響、今日帰ってくるんだよな」
すぐ後ろで相馬の声が聞こえた。こいつは害のなさそうな顔をしていつも天谷響といる。朝はほとんど一緒に登校。クラスでは中学からの公認カップルと噂されていた。本人は否定してたけど時間の問題と言うやつか?なんだ、一年お前勝ち目ないじゃん。そうぼやくと一気に体が重くなった。
「ああ、慧ね。夕方の予定って言ってた」
「今日新作のゲーム出たんだよ。メグとやるから泊まっていい?」
今、何て言った?俺の耳はきっとダンボのようにでかくなっているだろう。
「またぁ?ちゃんと下着は持って帰ってよ」
「はは!俺いつも忘れてメグのパンツ借りんだよな」
「借りるのはいいけど、それを小姑に洗わすなよ」
パンツが好きな女だな。会話の意図が読めずにいると、二人は顔を見合わせて一緒に笑い出す。天谷響は相馬といると良く笑う。不愉快だ。
とにかく、最近の天谷響といると俺は疲れる。
…最初はそんなことなかった。大人しそうな顔で、化粧っ気もなくて、学校が終わると一番に帰る女だった。門限が〜とか面倒な家なのかと思っていた。
話しかけると顔を真っ赤にして固まるのが面白かった。今度はこの女をひっけてもいいな、とか思ったが何度話すようになっても彼女のぎこちなさは変わらない。大抵これくらいになるとどの女もしなを作ってくるので、アレ?と思った。
…で、ここで俺も距離を置けば良かったんだけど謎がある彼女に興味が沸いて直に誘ってみたのだ。
天谷響は体の造りが小さい。人を疑うことも知らず階段に誘導すればそのままに、俺がキスしようとして分かってんのか分かってないのか。触った頬は抜けるように白くて柔らかかった。あのぎこちない瞳に目一杯俺が映っている。そう思うと強い高揚を感じた。
落ちる、そう確信した瞬間ネクタイを掴まれ、染みがどうのと大騒ぎ。意味分かんねー。もしかして気付いててわざと?そうすると空回りした自分が恥ずかしく振り払って帰ってしまった。
その日は一日ぐるぐる考えていたのに、あの女は欠片も覚えておらず…。しかし、相変わらず熱い視線は感じる。意味が分からなかった。俺の自意識過剰なのだろうか。
いつものように色んな女のコと遊んでもスッキリせず、首を捻りながら気晴らしに出たテニスの親善試合。あれは鬼門だった。
あまり見慣れない満面の笑みで天谷響は俺に話し掛けてきた。ようやく気を許したのか?バカにしてるのか本気なのか俺を神のように崇めていて、めちゃめちゃやりにくかった。ていうか、普通人間は独占欲の塊って言うよな。どの女も違う女といると必ず不機嫌になる。それなのに天谷響だけは、他の女と喋るたび嬉しそうに熱い視線を送ってくる。
なんなんだ?
友達が少ないと心配する母親気分なのか?
ダメだ…。頭がパンクする。
校内1の人気者と謳われる俺は、天谷響だけに振り回されている。