12.早起きは三文の得
一昨日から、慧が京都に修学旅行に行っている。そして後を追うように昨日から恵が勉強合宿。暁も友達の家にお泊まりしている。
こんな偶然が3年に1回くらいある。と言うことで、今朝はとても静かで優雅な朝となった。和食派の哉とは別にフレンチトーストを作るくらい時間に余裕があった。一分一秒も惜しいいつもの朝が嘘みたいに、早めに家を出た。
「…早すぎた」
登校の1時間前に着いてしまった。教室にはまだ誰もいない。響はあまり校内に残らないので、たまにはと探索を兼ねた散歩をすることにした。
テニスコートもある広いグラウンドでは、スポーツ部が朝練をしている。響は朝から汗を流す彼らを哉と重ねて、憧憬の眼差しを向けていた。
すると、視界の端に隠れるように練習する人物を見つけ、響は喜びで心を踊らせた。
そこには髪が乱れるのも気にせず、一心不乱にラケットを振るう緒方がいた。声をかけようとして思い止まり、自販機でスポーツドリンクを買う。
長く続く壁打ちに一息入れるまで我慢して、やっとドサッと地面に寝転ぶ音が聞こえて声を掛けた。
「緒方くん、お疲れさま」
「え!?」
驚く緒方の首に、冷えたペットボトルを当てる。
「冷てっ」
「あはは、ごめんね。差し入れ」
「…どうも」
目を伏せたまま受け取る。哉もそうだが、練習姿ってそんなに人に見られたくないものだろうか。素っ気無い態度も微笑ましく思えて、響は目を細めた。
「天谷ちゃん、今日早くね?」
「うん、早く起きたからたまたま」
「ふーん」
「でも良いもの見れちゃった」
気付けばそう言っていた。緒方の目がなんだよ?と卑屈に聞いている。
「やっぱり緒方くんてすごい。あんな謙遜しながら影では努力してるなんて」
「別に…」
「この間の試合、悔しかったんでしょ?」
「どうだろ」
「今度は勝てるね!」
「…そんなの、分かんなくない?」
いつもの緒方からは考えられないほど冷たい声だった。それでも響の答えは変わらない。
「勝てるよ!いつも何でもできる緒方くんがしっかり練習もしたら無敵じゃない」
恥ずかしげもなく伝えると、胸がスッとした。ここのとこ緒方が良く分からなかったが、気のせいだったようだ。そう、緒方は響の憧れ。尊敬に値する素質を持っているのだ。
「かなわねーなぁ…」
そう呻いて、緒方はスポーツタオルで顔を隠してしまった。もう次の対戦相手をシュミレーションしてるのだろうか。あまり邪魔してもいけないと思い、響はその場を立ち去った。
「おや、天谷さん」
ヒュッと冷たい風が頬を撫でた気がするのは気のせいか。
「良いところに」
「…おはようございます」
泉はシワ一つないスーツに、微笑みの欠片もない顔をしていた。
「1限はあなたのクラスです。作文持ってってもらえますか」
切り付けるような瞳で命令され、断れるツワモノがいるならこの目で見たい。
「作文ですか」
「資料室にあります」
そう言って先を歩く泉の後ろを慌てて着いて行った。泉はこの学校の中ではまだ若い年次になるが、教頭ですら黙らせる威力を持っていた。
緒方とは違う、1ミリの乱れもない完璧主義。整った顔立ちが笑えばまだ人間味があるものの、キツい目付きでその風潮は凄かった。泉七不思議のひとつに、笑顔を見た者は3日後に死ぬとある。
…恐ろしすぎる。
「…さん?天谷さん」
「はっ!い、すみませんもう一度お願いします」
何と自分としたことが、泉の言葉を聞き逃してしまった。
「…着きました、と言っただけです」
「申し訳ありません」
「これ、お願いします」
指差された先には二山分の作文だった。
「こ、これ全部ですか?」
無理だ。抱えたら前が見えなくなる。落としたりしたら皮膚を剥がされそうだ。
「紙袋にいれれば持てますね」
「は、はい。仰せのままに」
「…この間は弟さん、おめでとうございます」
「は!あ、賞もらえたって…」
「賞って。全員一致の金賞ですよ」
「そそそうですか」
すごいことなのだろうが、それを勝る恐怖と緊張で響はパニックになっていた。
「…あなたは、何でそう怯えるのですか」
「!」
ギクッと体が固まった。あ、3秒目を見たら呪われる…。
「僕、そんな目付き悪いですか?」
「いや、あのはい、いえ。自分からは何とも」
「どっちですか」
「勘弁してください」
フッ…と小さい笑い声が聞こえて、響は驚愕した。
「笑った…」
ええと、笑顔見たらなんだっけ。
「いけませんか」
一気に温度が下がる。真一文字に結ばれた唇にまた背筋が凍ってきた。
「わ、こっ、怖い!」
「………」
また口に出たことは響は気付かない。泉は暫くポカンと呆気に取られ、顔を歪め―笑い出した。
「はははは、面白いことを言いますね」
その顔は、ちゃんと人間だった。
「怖いのか。成程」
地獄の使者から人間になった泉は一人頷いて、響の頭を撫でた。
「取って喰ったりしませんよ」
幾分温もりを感じる声で僅かに微笑む泉の顔を見た響は、頭をショートさせたまま、フラフラと添削された山のような作文を持って教室へ引き返した。