王族だから仕方ないでしょう
王立宮殿の北棟にある図書室は、午後の光に満たされていた。
高い窓から差し込む秋の日差しが、磨き上げられた床に長方形の光を落としている。壁一面の書架には歴代国王の記録や外交文書、貴族名鑑が整然と並び、その一角には王族の私的な記録を保管するための特別な書棚が設けられていた。
その日、王都の上流貴族の令嬢で構成される【王都婦人歴史会】のメンバーたちが集まっていたのは、まさにその書棚から出された一冊の写本を読むためだった。故人となった第一王子、レオナルトの私的な日記。正確には、彼が王太子候補だった時代に書き残した日記の一部を、王室記録院が公開可能と判断して写し取ったものだった。
レオナルトは二年前、王位継承者としての適性を疑問視され、正式に継承順位を下げられた。その後、王宮を離れて領地経営を学ぶことになったが、病を得て三十歳を迎える前に亡くなっている。彼の死後、日記の一部が公開されると、王都ではちょっとした騒ぎになった。
なにしろ、そこには王宮の人間関係について、これまで表立って語られなかった事情が綴られていたのだから。
「……かわいそうに」
最後まで読み終えた令嬢の一人が、小さく呟いた。淡い桃色のドレスを着た彼女は、日記の写しをそっと閉じた。
「お父上である国王陛下は側室と第二王子ばかりを気にかけて、ご自身には冷淡だった。お母上である王妃陛下は、第一王子を王位につけることしか考えていなかった。そして婚約者の公爵令嬢まで、弟君のほうに好意を寄せていたなんて……」
「馬鹿じゃないの?」
あまりにも容赦のない声が、静かな図書室に響いた。令嬢たちは一斉に顔を上げた。声の主は、窓際の席で紅茶を飲んでいたエレノア・ヴァレンティス伯爵令嬢だった。
二十歳になったばかりの彼女は、派手な美貌の持ち主ではない。けれど、よく通る声と、相手の目をまっすぐに見据える灰青色の瞳には、妙に人を怯ませる力があった。
なお、この【王都婦人歴史会】では忌憚のない意見を交わし合うために身分への遠慮も配慮も一切不要となっている。
「エ、エレノア様。いくらなんでも、そのような言い方は……」
「では、どんな言い方なら満足なの? お気の毒な境遇でしたね、涙を禁じ得ません、かしら」
「それは……」
「事実を整理しましょうか」
エレノアはカップを置いた。
「正妃腹の第一王子。身分の低い側室腹の、わずか一歳年下の第二王子。その第二王子のほうが、学問でも政治的な判断力でも遥かに優秀だった。そして第一王子の婚約者である公爵令嬢は、もともと第二王子と親しく、婚約が成立する寸前だった」
「ええ。それは日記にも……」
「ところが、正妃はそれを快く思わなかった。第二王子と公爵家が結びつけば、第二王子を推す勢力が強くなり、自分の息子の王位が危うくなる。そこで第二王子の命を狙った」
部屋の空気が、わずかに冷えた。
その事件は、王宮の歴史に残る暗い一頁だった。第二王子ユリウスが八歳のとき、狩猟場で彼の乗る馬が何者かに細工され、暴走したのである。幸い、護衛騎士の機転によって命は救われた。しかし、調査の結果、馬具の細工に王妃付きの侍従が関与していたことが判明した。
王妃本人の指示を示す直接的な証拠こそなかったものの、侍従が王妃の実家から多額の金銭を受け取っていたこともあり、事件は彼女の政治的立場を大きく揺るがした。
「国王陛下は第二王子を守り、王国の安定を維持するため、公爵令嬢を第一王子の婚約者にした。第二王子と公爵家が結びつく可能性を断ち切り、同時に、第一王子の後継者としての立場を強化したわけね」
「でも、それでは……」
「第一王子も、公爵令嬢も、政治の駒にされたということよ」
エレノアは淡々と言った。
「そして当時、王子たちは十歳にも満たない子供だった。婚約者の公爵令嬢だって、同じような年齢よ」
彼女は日記の写しを指先で軽く叩いた。
「自分の弟の命を狙った人間が母親で、自分より優秀な弟がいて、父親はその弟を気にかけている。そんな環境で育った第一王子が孤独だったことは否定しないわ。母親が息子を王位につけるための道具として扱っていたことも、父親が十分な愛情を注がなかったことも、問題でしょうね」
「でしたら、なぜ馬鹿だなんて……」
「婚約者の話よ」
エレノアは即座に答えた。
「公爵令嬢は、望んでもいない婚約を押しつけられたのよ。しかも、もともと親しくしていた相手との未来を奪われて。そんな彼女が、婚約者に対してすぐに笑顔を向けられなかったとして、何が悪いの?」
「でも、婚約者なのですから……」
「婚約者なら、自分を好きになって当然?」
エレノアの眉が上がった。
「八歳か九歳の女の子に、自分の家族を守るための政治的な犠牲になれと言っておきながら、今度は自分を愛してくれと?」
令嬢たちは黙り込んだ。
「わたくしだって、十歳で完璧な淑女の仮面を被れと言われたら無理よ。大人になった今だって、腹の立つ相手に笑顔を向けるには相応の努力がいるのに」
エレノアは肩をすくめた。
「それなのに、この日記の主は、自分が孤独だったことばかり書き連ねている。婚約者が自分を好きではなかった。母親は自分を利用した。父親は弟を可愛がった。だから自分は不幸だった、と」
彼女は一呼吸置いた。
「言わせてもらうわ。甘えてんじゃねぇよって」
「エレノア様!」
「だって、そうでしょう?」
エレノアは悪びれもしなかった。
「自分の気持ちを理解してほしいなら、相手の気持ちも理解しなさいよ。自分だけが傷ついたと思わないことね」
「……ですが」
それまで黙っていた、深緑色のドレスの令嬢が口を開いた。 セシリア・ローゼン公爵令嬢。現宰相の姪であり、王宮の教育制度にも詳しい人物だった。
「第一王子殿下も、あの環境では仕方なかったのではありませんか?」
セシリアは慎重に言葉を選んだ。
「王妃殿下は、殿下に王位を継がせることばかりを考えていたのでしょう。幼い頃からそのような圧力を受けていたなら、殿下の心が歪んでしまったとしても、不思議ではありません」
「そうね。環境の影響は大きいわ」
意外にも、エレノアはあっさりと認めた。
「けれど、それで全部説明できるかしら?」
「全部、とは?」
「第一王子殿下は、王太子教育を受けていたのでしょう?」
エレノアは、今度は日記ではなく、王室記録院の紋章が押された封筒に視線を向けた。
「教師の選定には、国王陛下だけでなく、宰相や重臣たちも関わっていたはずよ。王族の教育は、単に家庭教師を一人雇って終わりというものではないわ。王国の将来を左右する事業なのだから」
「……つまり?」
「教育環境が本当に不遇だったのか、調べてみましょう」
エレノアは封筒を手に取った。
「かわいそうだったかどうかを議論するのは、それからでも遅くないでしょう?」
三日後。
ヴァレンティス伯爵家のサロンには、王室記録院から取り寄せられた書類が山のように積み上げられていた。第一王子の教育記録、教師たちの報告書、学習計画、側近の日誌、そして当時の宮廷会議の議事録。
閲覧を許されたのは、エレノアとセシリアを含む五人の令嬢だった。
「……こんなにあるの?」
セシリアが呆然と呟いた。
「王太子教育ですもの。当然でしょう」
エレノアは手袋を外し、最初の書類を開いた。
「さて。第一王子殿下は、本当に教育面で不遇だったのかしらね」
窓の外では、秋の風が庭園の木々を揺らしていた。少女たちの前に並んだ書類は、故人の悲しい思い出を記した日記とは違い、感情を持たない。
だからこそ、そこには日記とは別の真実が眠っていた。
「まず、こちらをご覧ください」
セシリアが一枚の書類を持ち上げた。
「第一王子殿下の家庭教師一覧です。歴史学、法学、財政学、外交学、軍事学……それぞれに専門の教師がついていますね」
「人数も多いわね」
「ええ。しかも、名前に見覚えがあります。歴史学を担当した方は、現在の王立学院で名誉教授を務めていらっしゃる方ですし、法学の教師は当時、王国でも指折りの法学者だったはずです」
「外交学の教師は隣国との条約交渉を何度も成功させた人物ね。軍事学の教師も、国境紛争を終結させた実績があるわ」
エレノアは別の書類を取り出した。
「教師の選定会議の記録もあるわよ」
彼女は該当箇所を読み上げた。
「『第一王子殿下の教育には、王太子教育の経験を持つ者を優先し、学識のみならず、幼少期の発達段階に応じた指導能力を重視する』。……ふうん。ずいぶんと丁寧に考えられているじゃない」
「国王陛下だけでなく、宰相と教育担当の重臣も選定に参加していますね」
「つまり、第一王子殿下に質の低い教師があてがわれたという可能性は、かなり低いわけね」
エレノアは書類を机に置いた。
「では、第二王子殿下のほうはどうかしら?」
別の束を引き寄せる。こちらは第二王子の教育記録だった。
「……あら?」
セシリアが目を丸くした。
「こちらの教師一覧、第一王子殿下のものと比べると、かなり見劣りしますね」
「そうなのよ」
エレノアは口元に薄い笑みを浮かべた。
「第二王子殿下は側室腹。王妃の実家にとっては、王位を脅かしかねない存在だった。少なくとも、当時の王宮で彼の教育に多大な投資をすることを望んでいた人間は少なかったでしょうね」
「それなのに、第二王子殿下は第一王子殿下より優秀だった……」
「ええ。しかも、第二王子殿下の教師の一人は、学力そのものよりも、第一王子殿下に対する競争心を煽る指導を重視していたようね」
エレノアは報告書を読み進めた。
「『兄君の成績を示すことで奮起を促したが、第二王子殿下は比較に関心を示さず、自身の理解不足について質問を繰り返した』ですって」
「……あら」
「別の報告書には、『第二王子殿下は誤答を指摘されても不機嫌にならず、解答の根拠を確認し、同様の問題を再度解くことを望んだ』とあるわ」
セシリアはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「第二王子殿下は、学ぶことそのものに前向きだったのですね」
「そういうことね」
エレノアは頷いた。
「ただし、これだけで第一王子殿下が生まれつき愚かだったと結論づけるのは早いわ。学力には個人差があるし、家庭環境だって無関係ではない。問題は、その後よ」
彼女は第一王子の記録に戻った。
最初に見つかったのは、歴史学の教師による報告書だった。
第一王子レオナルトは、歴史上の戦争について、将軍たちの功績や戦術の変遷を暗記することには長けていた。一方で、戦争が発生した政治的な背景や、終結後の財政的影響について考察する課題では、一定以上の評価を得られなかった。
教師は、原因を単なる理解力不足とは判断していなかった。彼は王子に対して、年表を暗記させるだけでなく、複数の史料を比較させる課題を用意した。難しい内容については段階を分け、最初は選択肢を提示し、次に自分の言葉で説明させるようにした。
学習計画も見直されていた。結果は、少しずつ改善していた。
「ちゃんと対策を講じているじゃない」
エレノアが言った。
「ええ。こちらには、苦手科目について個別指導の時間を増やしたとあります」
セシリアが別の報告書をめくった。
「学習時間を一方的に増やすのではなく、集中力が落ちる時間帯を避け、短い課題を複数回に分けている……。かなり工夫されていますね」
「王太子教育を任されるような教師なら、当然でしょうね。学識に優れているだけでは足りない。教え子の理解度に合わせて方法を変え、やる気を引き出し、失敗したときにどう立ち直らせるかまで考えなければならないのだから」
エレノアは次の報告書を開いた。
今度は、財政学の教師によるものだった。第一王子は、ある課題で税収の計算を誤った。教師は、答えだけを訂正するのではなく、計算の過程を一つずつ確認し、どこで誤ったのかを本人に考えさせた。ところが、王子は途中で不機嫌になり、こう言ったという。
『このような計算方法を教えたのは、あなたではないか』
教師は、自身の説明に不足があった可能性を認め、別の方法で説明し直した。その後、同じ形式の課題を提示したが、王子は取り組もうとしなかった。翌日の報告には、こう記されていた。
『殿下は理解できないことを恥と感じておられるご様子である。誤りを指摘する際には、他者の前で恥をかかせないよう配慮が必要。しかし、本人が誤りを認めず、課題そのものを拒絶する場合、指導の効果には限界がある』
「……これを読むと、話が違ってきますね」
セシリアの声は沈んでいた。
「ええ。失敗すること自体は問題ではないのよ」
エレノアは書類を揃えた。
「王族だって、初めから何でもできるわけではない。むしろ、王位を継ぐ者ほど、自分が間違える可能性を受け入れなければならないでしょう。問題は、間違いを指摘されたときにどうするかよ」
さらに記録を調べていくと、似たような事例が次々に見つかった。
外交学の授業では、隣国の使節に対する対応を誤り、教師から改善案を提示された際、「そのような言い方では相手に軽く見られる」と反論した。軍事学の演習では、補給計画の不備を指摘されると、「想定した兵数が多すぎた」と条件設定の責任にした。法学の課題では、法令の解釈を誤った際、条文の読み違いを認めるよりも、教師の説明が不明瞭だったと主張した。
もちろん、教師の側に問題があった可能性も皆無ではない。だが、複数の教師が、異なる科目で、似たような問題を報告している。しかも、いずれの教師も当初は王子の自尊心に配慮し、指導方法を変更し、改善の機会を与えていた。
「これでは、教師の質だけの問題とは言えませんね」
「そうね」
エレノアは頷いた。
「本人が学ぶ気にならなければ、どんなに優秀な教師だって万能ではないわ」
午後になって、公爵令嬢アデライードがサロンを訪れた。
かつてレオナルトの婚約者だった女性である。現在は独身で、公爵家の領地経営と慈善事業に携わっている。彼女が王宮を訪れることは珍しくなかったが、私的な集まりに顔を出すことは滅多になかった。
「わたくしに、あの方の日記について聞きたいことがあると伺いました」
アデライードは、静かな声で言った。
「突然のお呼び立てをお許しくださいませ」
エレノアが立ち上がり、礼をした。
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます。お答えになりにくいことでしたら、無理にお話しいただかなくても構いません」
「お気遣い、感謝いたしますわ」
アデライードは席に着いた。
彼女は三十代に差しかかっていたが、姿勢は美しく、物腰には長年の宮廷生活で培われた落ち着きがあった。
「……殿下は、日記にわたくしのことをお書きになっていたのでしょう?」
「はい」
「わたくしが、ユリウス殿下を好いていた、と」
アデライードは微笑んだ。
それは、苦い記憶を口にするときの微笑みだった。
「間違いではありませんわ。わたくしは幼い頃、ユリウス殿下と親しくしておりました。読書の好みも似ていましたし、庭園で植物の名前を教え合うこともありました。あの方は、わからないことがあると、年上の教師に対しても遠慮なく質問なさる方でした」
「婚約の話も進んでいたのですか?」
「ええ。両家の間で、将来の婚約について話し合いが行われていました。ただ、正式な決定には至っておりませんでした」
アデライードは指を組んだ。
「そして、事件が起きました」
第二王子暗殺未遂事件。その後、王妃の政治的な影響力が強く残る王宮で、公爵家が第二王子と婚姻によって結びつくことは、危険な選択になった。国王はアデライードの父に、第一王子との婚約を提案した。それは提案という形を取っていたが、実質的には王命に等しかった。
「わたくしは、父から説明を受けました。王家の安定のために必要なことだと。第二王子殿下の安全を守るためにも、第一王子殿下の後継者としての立場を確かなものにする必要があると」
「……受け入れるしかなかったのですね」
「公爵家の娘ですもの。家の立場も考えなければなりませんでした。もちろん、わたくしにも感情はありました。ですが、わたくしの気持ちだけで決められることではなかったのです」
アデライードは、窓の外へ目を向けた。
「最初、レオナルト殿下は、わたくしにとても丁寧に接してくださいました。わたくしも、殿下を嫌っていたわけではありません。婚約が決まった以上、少しずつでもお互いを理解していけたらと思っていました」
「具体的には、どのようなことを?」
「ある日、殿下が歴史の課題で苦労なさっていると聞きました。わたくしは歴史が好きでしたので、参考になりそうな本をお持ちしたのです。それから……」
彼女は少し考えた。
「『難しいところがあれば、ご一緒に考えましょう』と申し上げました」
「殿下は、なんと?」
「『君はユリウスのほうが好きなのだろう。僕に同情しているだけなら、余計なことはしなくていい』と」
サロンが静まり返った。
「わたくしは、どう答えればよいのかわかりませんでした。殿下がおつらい立場にいらっしゃることは理解していました。でも、だからといって、わたくしの親切を同情だと決めつけられてしまっては……」
アデライードは目を伏せた。
「その後も、何度かお話ししようとしました。けれど、殿下はわたくしがユリウス殿下を話題に出すたびに不機嫌になられました。ユリウス殿下の話題を避ければ、今度は殿下に関心がないのだと受け取られました」
「それは……」
「わたくしは、どうすればよかったのでしょうね」
アデライードは誰にともなく尋ねた。
「ユリウス殿下を好きだったことを、なかったことにすればよかったのでしょうか。それとも、レオナルト殿下の望むとおりに振る舞い、いつか殿下が安心してくださるまで、ずっと待っていればよかったのでしょうか」
誰も答えられなかった。エレノアは、しばらく考えたあと、口を開いた。
「いいえ。公爵令嬢は、十分に努力なさったと思います」
「ありがとうございます」
「ただ……」
エレノアは日記の写しに目を落とした。
「殿下は、誰かに愛されたいと願いながら、相手が自分に差し出したものを、信じることができなかったのかもしれませんね」
アデライードは静かに頷いた。
「そうかもしれません。わたくしも、あの方が本当に孤独だったことは疑っておりません。ただ、あの方の孤独を埋めるために、わたくしが自分の心を押し殺さなければならない理由も、なかったと思うのです」
その言葉は、サロンにいた全員の胸に深く残った。
アデライードが帰ったあと、セシリアはしばらく黙っていた。やがて、彼女は小さな声で言った。
「第一王子殿下は、愛されなかったから、あのようになってしまったのでしょうか」
「一部はそうかもしれないわね」
エレノアは答えた。
「けれど、愛情を十分に得られなかったことと、何をしても許されることは別よ。孤独だった人が、他人を傷つけていい理由にはならない」
「……はい」
「それに、記録を見ていると、もう一つ気になることがあるの」
エレノアは、教師の報告書の束をめくった。
「レオナルト殿下は、最初から努力を拒絶していたわけではないようなのよ」
ある時期を境に、報告書の内容が変わっていた。それまで頻繁に記されていた「指導への抵抗」「失敗の責任転嫁」という記述が、少しずつ減っている。代わりに、「自発的な復習」「質問の増加」「課題への取り組み時間の延長」という記述が現れ始めていた。
「……これは」
セシリアが身を乗り出した。
「殿下が、努力を始めていらっしゃったということですか?」
「そう考えるのが自然でしょうね」
エレノアは、記録の最後に挟まれていた封筒を取り出した。そこには、教育担当官の署名があった。表書きには、こう記されている。
『第一王子殿下の学習態度に関する総括報告』
エレノアは封を切った。中には、短い報告書と、一枚の手紙が入っていた。報告書の冒頭には、こう書かれていた。
『殿下は、この時期に至って初めて、ご自身の不足を認め、改善のために真剣に努力なさる姿勢を示された』
セシリアが、ほっと息を吐いた。
「よかった……。殿下にも、変わる機会があったのですね」
「ええ」
エレノアは、次の一文を読んだ。そして、その表情が変わった。
『しかし、その努力は長く続かなかった』
サロンに、再び沈黙が落ちた。
なぜなのか。王子は、ようやく自分の弱さを認め、学ぶことを始めたのではなかったのか。どうして、その努力をやめてしまったのか。エレノアは、報告書に添えられた手紙をそっと開いた。
「……なるほど」
その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。
「どうなさったのですか?」
セシリアが尋ねた。エレノアは手紙を机に置いた。
「答えがわかったわ」
彼女は、集まった令嬢たちを見回した。
「どうやら、レオナルト殿下は、自分の努力が報われないことに耐えられなかったらしいわね」
手紙を書いたのは、レオナルトの教育を長年担当していた老教師だった。
彼は王太子教育に携わった経験があり、国王の信頼も厚い人物だった。第一王子の教育を任された当初、彼はレオナルトに十分な可能性があると考えていた。実際、王子には優れた点もあった。礼儀作法を身につけるのは早く、人前での振る舞いにも一定の才能があった。記憶力も決して悪くなく、興味を持った分野については熱心に調べることができた。
ただし、苦手なことに直面した際、彼は極端に自尊心を傷つけられやすかった。間違いを指摘されれば、指摘した相手の態度に腹を立てた。弟が優れた成績を取れば、教師の質が違うのだと主張した。そして、周囲が彼のために指導方法を工夫すればするほど、王子はそれを当然のこととして受け止めるようになった。
彼に必要だったのは、失敗しても立ち直れるという安心感だった。だが同時に、自分の失敗を認め、他人の助言を受け入れる姿勢も必要だったのである。その両方を、彼はなかなか身につけることができなかった。
手紙には、レオナルトが努力を始めたきっかけが記されていた。
十一歳の冬。第二王子ユリウスが、王宮で行われた模擬統治演習において、兄を上回る評価を得た。演習の課題は、凶作に見舞われた地方領の統治だった。 限られた備蓄食料をどのように配分するか。税の徴収をどこまで緩和するか。商人たちにどのような条件で穀物の輸入を依頼するか。領民の不満を抑えながら、翌年の収穫まで財政を維持するにはどうすべきか。
レオナルトは、備蓄食料の放出と税の減免を優先した。短期的には領民を救える。しかし、商人との交渉が不十分で、翌年までの財政計画も曖昧だった。一方、ユリウスは商人への融資保証を提案し、複数の都市から穀物を集める仕組みを考案した。税の減免についても、すべての領民を一律に扱うのではなく、被害の程度に応じて段階を設けた。
完璧な案ではなかった。だが、問題点を指摘されると、ユリウスはそれを受け入れ、計画を修正した。評価を担当した重臣たちは、第二王子の案を高く評価した。その結果を聞いたレオナルトは、教師にこう言ったという。
『弟は、初めから優れた者ばかりに囲まれている。僕が同じ条件で学んでいれば、結果は違ったはずだ』
教師は、その言葉を否定しなかった。第二王子が恵まれた環境にいたとは言い難いことを、彼も知っていたからだ。
だが、彼は王子に一つの提案をした。
『殿下。もし本当に、ご自身の力を確かめたいとお思いなら、次の演習に向けて、一緒に準備をなさいませんか』
レオナルトは、しばらく考えたあと、頷いた。それが、彼にとって初めての本格的な努力の始まりだった。
その冬から、レオナルトは学習計画を守るようになった。
苦手な財政学の課題にも取り組み、間違いを指摘されても、以前のように教師を責めることは減った。彼は自分の解答を見直し、どこで判断を誤ったのかを考えるようになった。教師たちは喜んだ。努力の成果は、すぐに現れたわけではない。それでも、少しずつ改善は見られた。
外交学の課題では、相手国の事情を考慮した交渉案を作成できるようになった。財政学でも、数字の誤りが減り、複数の条件を比較して判断する力がついてきた。
教師は、手紙にこう記していた。
『殿下は決して能力のないお方ではない。適切な指導と、ご自身の努力があれば、十分に成長なさる可能性があると考えておりました』
だが、努力を始めて数か月後、レオナルトは再び壁にぶつかった。第二王子ユリウスが、外交演習で優秀な成績を収めたのである。
ユリウスは隣国との交易協定を想定した演習で、関税率の引き下げと引き換えに、国境地帯の輸送路整備を相手国に約束させる案を提出した。その案は、単に相手国を説得するだけではなかった。輸送路が整備されれば、国境地帯の商業が活性化する。交易量が増えれば、関税率を下げても税収の減少を補える可能性がある。さらに、両国の商人が利益を得ることで、将来的な関係の安定にもつながる。
演習の評価者たちは、その構想力を高く評価した。
レオナルトも、同じ課題に取り組んでいた。彼の案も、以前に比べれば格段に優れていた。教師たちは、改善の跡を認めていた。
しかし、評価はユリウスのほうが上だった。その夜、レオナルトは教育担当官のもとを訪れた。
『僕は、努力しました』
彼はそう言ったという。
『以前より勉強しました。間違いを認め、教師の助言も聞きました。それなのに、弟には勝てないのですか』
教育担当官は、答えに窮した。レオナルトが努力したことは事実だった。彼が成長したことも事実だった。
だが、ユリウスもまた努力を続けていたのである。第二王子は、兄が苦手とする分野について、自分なりの方法で学び続けていた。失敗を恥じるよりも、失敗から何を得られるかを考え、わからないことは積極的に質問していた。
二人の差は、一朝一夕に生まれたものではなかった。そして、数か月努力しただけで、その差がすべて埋まるわけでもなかった。
『殿下。努力は、必ずしも他人に勝つためだけのものではございません』
教育担当官は、そう答えた。
『ご自身が昨日より成長するためのものでもございます』
レオナルトは黙っていた。
その言葉が、彼に届いたのかどうかはわからない。ただ、その日を境に、彼の学習時間は再び短くなっていった。復習を怠り、課題を後回しにし、教師の助言にも耳を貸さなくなった。
やがて彼は、以前と同じ言葉を口にするようになった。
『弟は恵まれている』
『教師の質が違う』
『僕が努力しても、評価されない』
教師は、何度も話し合おうとした。けれど、レオナルトは応じなかった。
手紙の最後には、老教師の悔恨が記されていた。
『殿下は、努力が報われないことを恐れておられたのだと思います。もし努力を続けても弟君に及ばなければ、ご自身の能力の限界を認めなければならない。殿下にとって、それは耐えがたいことだったのでしょう』
『努力をやめれば、結果が出なくても、努力が足りなかったからだと言い訳ができます。ご自身の限界を知る必要もありません』
『私は、殿下にその恐れを乗り越えていただきたかった。しかし、最後まで十分なお力添えができませんでした』
手紙は、そこで終わっていた。
エレノアは、読み終えた手紙を机の上に置いた。サロンにいた令嬢たちは、誰も口を開かなかった。
しばらくして、セシリアが言った。
「……第一王子殿下は、努力しても弟君に勝てないことが、怖かったのですね」
「そうでしょうね」
エレノアは答えた。
「王妃殿下から、繰り返し言われていたのでしょう。あなたは王太子なのだから、弟より優れていなければならない、と」
「それでは、努力することそのものが、苦痛になってしまいますね」
「ええ。けれど、だからこそ、殿下には自分の価値を他人との比較だけで決めないことを学んでいただきたかったわ」
エレノアは、少しだけ表情を和らげた。
「王位継承者としての適性は、試験の点数だけで決まるものではないでしょう。弟に負けたとしても、そこから学び、成長することはできる。何より、王になるための勉強は、弟に勝つためのものではないのだから」
「国を治めるため、ですね」
「そうよ」
エレノアは頷いた。
「それを理解できなかったことが、殿下にとって最大の問題だったのかもしれないわね」
セシリアは、日記の写しを見つめた。
「でも、やはりお気の毒だと思います。幼い頃から、母親には王位を求められ、父親には十分に愛されず、婚約者にも心を開いてもらえなかった。そうした事情がなければ、違う人生もあったのではないでしょうか」
「それは、そうかもしれないわ」
エレノアは否定しなかった。
「もし国王陛下が、もっと早く息子たちの関係に向き合っていれば。もし王妃殿下が、息子を王位につけることだけに執着しなければ。もし周囲の大人たちが、レオナルト殿下に王族としての責任と、失敗しても学び直せるという安心感を、両方教えられていたなら」
彼女は、窓の外を見た。
「殿下は、違う人間になっていたかもしれないわね」
「では……」
「でもね、セシリア」
エレノアは、再び彼女に向き直った。
「そうした可能性があったことと、実際に何をしたかは、別の問題よ」
その声は、穏やかだった。
「殿下が孤独だったことは否定しないわ。愛情を求めていたことも、理解できる。けれど、孤独だったからといって、周囲が自分を理解し、認め、愛してくれるまで何もしなくていいわけではないでしょう?」
セシリアは唇を引き結んだ。
「……はい」
「誰かに愛されたいと思うのなら、まず相手を一人の人間として見なければならない。自分の望みどおりに振る舞ってくれないからといって、その人の気持ちを否定していいわけではないわ」
エレノアは、アデライードの言葉を思い出していた。
自分の心を押し殺してまで、誰かの孤独を埋める義務はない。それは、王族であろうと貴族であろうと、変わらないはずだった。
それから数日後、王宮では第一王子の王位継承権をめぐる正式な審議が行われた。日記の公開によって、レオナルトの境遇に同情する声が高まっていたからだ。
彼を不当に扱った王宮の責任を問う声もあった。王妃はすでに政治の表舞台から退いていたが、彼女の実家は今なお有力貴族として影響力を持っていた。その一部は、第一王子の名誉回復を求めていた。
しかし、審議に提出された資料は、日記だけではなかった。教育記録、教師たちの報告書、模擬統治演習の評価、そして王位継承者としての適性を審査した際の議事録。それらは、第一王子の境遇に問題があったことを示す一方で、彼に改善の機会が与えられていたことも示していた。
国王は、審議の席で静かに語った。
「レオナルトが、十分な愛情を得られなかったことは事実であろう。私が父親として、あの子に向き合う努力を怠ったことも否定しない」
出席者たちは、沈黙した。
「王妃の行いを止められなかったことも、あの子に王位継承者としての責任ばかりを求めたことも、私の過ちであった」
国王は目を閉じた。
「だが、それを理由に、王位継承者としての適性を問わずに済ませることはできぬ。王は、国民の生活と王国の未来を預かる立場にある。どれほど不遇な境遇にあったとしても、その責任から逃れることはできないのだ」
宰相が立ち上がった。
「陛下のお言葉のとおりでございます。王族の教育は、王族本人のためだけにあるものではありません。王国の将来に対する責任の一環でございます」
彼は資料を一つ掲げた。
「第一王子殿下には、優秀な教師がつけられておりました。苦手分野への個別指導も行われ、学習方法も幾度となく見直されております。第二王子殿下よりも、むしろ恵まれた教育環境にあったと判断せざるを得ません」
王妃の実家の代表が、反論した。
「しかし、殿下の精神的な負担については、いかがでしょうか。母親から過度な期待をかけられ、父親の愛情にも恵まれなかった。そのような環境が、殿下の成長に悪影響を及ぼした可能性は否定できないはずです」
「その点については、異論はございません」
宰相は頷いた。
「しかし、精神的な負担があったことと、王位継承者として必要な能力を備えていたことは、同じではありません」
彼は別の資料を開いた。
「また、殿下には、自らの不足を認め、努力を始められた時期がございました。そのことは、教育担当官の報告にも明記されております」
「では、殿下は成長なさっていたのではありませんか?」
「はい。一時的には、確かに成長しておられました」
宰相は、そこで言葉を切った。
「しかし、弟君との成績の差を目の当たりにした後、努力をやめられた。その理由について、教師はこう報告しております。『殿下は、努力が報われないことに耐えられなかったのではないか』と」
王妃の実家の代表は、黙り込んだ。
「努力しても、必ずしも望む結果が得られるとは限りません。それでも責任を果たすために学び続けること。それこそが、王位継承者に必要な資質ではないでしょうか」
審議の結論は、その日のうちにまとまった。
第一王子レオナルトの王位継承順位の変更は、妥当な判断であった。第二王子ユリウスが、正式な王位継承者として認められることになったのである。ただし、審議の記録には、国王自身の責任も明記された。
第一王子の教育に必要な資源は与えられていた。しかし、彼が置かれた家庭環境や、母親の政治的な野心が与えた影響について、国王は十分な対策を講じなかった。王位継承者の適性を評価するだけではなく、その適性を育む環境を整えることも、国王の責務だったのだ。
第二王子を守るための政治的な判断は、必要だった。だが、その判断によって傷ついた者たちに、何の説明も支援も与えなくてよいということにはならない。
王国は、ようやくその事実を認めたのである。
審議の結果が公表されてから一週間後。エレノアは、再び王宮の図書室を訪れていた。窓際の席には、セシリアが座っていた。
「エレノア様」
「ごきげんよう。審議の記録は読んだ?」
「ええ。第一王子殿下の継承順位の変更は維持されるそうですね」
「当然の判断でしょうね」
エレノアは席に着いた。
「ただし、国王陛下の責任についても明記されたのは、よかったと思うわ」
「……第一王子殿下だけが悪かったわけではない、ということですね」
「そういうことよ」
エレノアは紅茶を受け取った。
「人間は、誰だって環境の影響を受けるわ。幼い頃に十分な愛情を得られなかった人が、大人になっても苦しむことはあるでしょう。失敗を恐れるあまり、努力を続けられなくなることだってある」
「では、第一王子殿下は……」
「お気の毒な方だったと思うわ」
エレノアは、今度ははっきりと言った。
「ただ、かわいそうだったことと、王になるべきだったことは、別の話よ」
セシリアは、静かに頷いた。
「わたくし、最初は第一王子殿下に同情していました。日記を読んで、誰も愛してくれなかったなんて、なんて悲しい人生なのだろうと思ったのです」
「そうね」
「でも、今は……殿下が何を求めていたのか、少しわかった気がします」
セシリアは、日記の写しを見つめた。
「きっと、誰かに自分の価値を認めてほしかったのでしょうね。弟君に勝てなくても、王妃殿下の望みどおりになれなくても、自分には価値があるのだと、誰かに言ってほしかった」
「ええ。そうだったのかもしれないわ」
「それなのに、殿下は、他人に勝つことや、他人から愛されることばかりを、自分の価値の証明にしてしまった……」
エレノアは、紅茶を一口飲んだ。
「誰かに認めてもらいたいと思うこと自体は、悪いことではないわ。でも、他人が自分を認めてくれるまで何もしないのなら、いつまで経っても、自分の人生を他人に預けたままよ」
「……難しいことですね」
「そうね。だからこそ、子供の頃から学ばなければならないのよ。自分の感情を大切にすることと、自分の感情を理由に他人を振り回さないこと。その両方をね」
セシリアは微笑んだ。
「エレノア様は、厳しい方ですね」
「そうかしら?」
「ええ。第一王子殿下を、ただ悪い人だったと片づけることもなさらない。けれど、かわいそうだったから仕方ない、ともおっしゃらない」
「だって、どちらも事実ではないもの」
エレノアは、少しだけ意地悪そうに笑った。
「人間は、被害者でありながら、誰かを傷つけることもあるでしょう。過去に傷つけられたからといって、自分が誰かを傷つけた責任まで消えるわけではないわ」
セシリアは、しばらく考えてから頷いた。
「……そうですね」
窓の外では、秋の木々が風に揺れていた。
図書室の時計が、午後三時を告げた。エレノアは席を立ち、読み終えた日記の写しを元の場所に戻した。
第一王子レオナルト。彼は、不幸な子供だったのだろう。愛情を求めながら、それを得られず、自分より優れた弟に劣等感を抱き、母親の野心に苦しんだ。
彼が違う環境で育っていたなら、違う人生を歩んでいたかもしれない。
けれど、彼が王位を継ぐべきだったかどうかは、それとは別の問題だった。
王位とは、愛情を得られなかった者への慰めではない。自分の価値を証明するための勲章でもない。国民の生活を預かり、王国の未来に責任を負う地位なのだから。
「そういえば、エレノア様」
図書室を出る直前、セシリアが思い出したように言った。
「第一王子殿下の日記には、最後までご自身の努力をやめた理由については書かれていなかったのですね」
「そうね」
「もし書かれていたら、殿下に対する評価も、少しは変わったのでしょうか」
エレノアは、足を止めた。
「どうかしらね」
彼女は考え込むように、廊下の窓を見つめた。
「もし殿下が、自分の弱さを認めて、努力を続けられなかったことを後悔していたのなら、わたくしも、もう少し違う気持ちで読めたかもしれないわ」
「……ご自身の責任を認めていれば、ということですか?」
「ええ。自分の過ちを認めることは、簡単ではないもの。だからこそ、それができる人は尊敬に値すると思うわ」
エレノアは歩き始めた。
「けれど、あの日記に書かれていたのは、自分がどれほど不幸だったかという話ばかりだったでしょう?」
「はい」
「父親が弟を可愛がった。母親は自分を利用した。婚約者は自分を愛してくれなかった。……それらは、確かに事実だったのでしょうね」
彼女は、廊下の窓から差し込む光の中で、ふっと笑った。
「でもね。第一王子殿下が王族だったことも、また事実なのよ」
「王族だったこと……」
「ええ」
エレノアは、当たり前のことを確認するように言った。
「王族は、国益を第一に考えなければならない。家族の情も、個人の感情も、大切ではあるけれど、国益に反しない範囲でしか優先できないわ」
セシリアは、ゆっくりと頷いた。
「それは、厳しいことですね」
「そうね。だからこそ、王族には、その厳しさに耐えられるだけの資質が必要なのよ」
エレノアは、王宮の奥へと続く廊下を見渡した。
「王族だから、かわいそうだったから、愛されなかったから。そんな理由で王位を任せるわけにはいかないでしょう?」
そして、いつもの調子で言い切った。
「王族だから仕方ないでしょう。まず第一に国益。家族の情は、国益に反しない範囲よ」
セシリアは、思わず笑ってしまった。
「エレノア様。それでは、あまりにも身も蓋もありませんわ」
「そうかしら?」
「ええ」
「でも、王宮で生きるというのは、そういうことでしょう?」
エレノアは微笑んだ。
「もちろん、国益を理由に、何をしても許されるわけではないわ。国王陛下だって、息子たちに向き合わなかった責任を免れることはできない。王妃殿下が自分の野心のために第二王子の命を狙ったことなど、言うまでもないでしょうね」
「はい」
「ただ、誰かの不幸を理解することと、その人に責任を負わせないことは違う。それだけの話よ」
セシリアは、今度こそ深く頷いた。二人は、午後の光に照らされた廊下を歩いていった。
王宮の中では、今日も誰かが誰かの思惑を読み、誰かが誰かの期待に応えようとし、誰かが自分の望みを胸の奥に押し込めているのだろう。
王族だから。
貴族だから。
家のためだから。
国のためだから。
そうした言葉は、ときに人を救い、ときに人を縛る。けれど、どんな立場にあろうとも、人が自分の行いに責任を負うという原則だけは、変わらないはずだった。
第一王子レオナルトは、愛されなかったことを嘆いた。だが、彼が本当に必要としていたのは、誰かが自分の孤独を埋めてくれることだけではなかったのかもしれない。自分が不完全であることを認め、それでも学び、成長し、誰かのために行動すること。
それこそが、彼に与えられていた、もう一つの道だった。彼はその道を選ばなかった。そして、王位を継ぐこともなかった。
それは悲しいことだった。しかし、王国にとっては、必要な判断だったのである。
――王族だから仕方ない。
その言葉は、誰かの過ちを許すための免罪符ではない。
自分の望みよりも大きな責任を背負うこと。
その責任を果たせないのなら、たとえ王族であっても、王位にふさわしくないと判断されること。
それもまた、王族だからこそ、仕方のないことだった。
そしてエレノアは、その厳しい現実を、少しも疑っていなかった。




