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1、ヘリュの日々

 閉じた瞼を眩しい朝日が撫で、ヘリュは目を覚ました。

 隣にはまだ母親のイリニヤが寝息を立てて眠っている。

 ヘリュは母親を起こさない様にそっとベッドから這い出て、身支度を整える。

 身支度と言っても中庭に出て水瓶の水を掬って顔を洗うだけだ。

 朝の心地良い風がヘリュの頬に触れ、南国の気候のお陰で自然に乾くので放っておく。

 南国特有の石基壇の高床式の分棟の造りをしたヘリュの家は日の光と風をよく通した。

 台所のある棟に入り、買い物籠を手にしてヘリュは中庭を通り抜け、門を潜り漁港近くの市場へと歩き出す。

 途中、仲の良いイラといつもの様に合流し、挨拶する。

「おはよう、ヘリュ」

「おはよう、イラ」

 イラは黒髪を靡かせてヘリュの顔を覗き込んだ。

「もうじきヘリュの7歳の誕生日ね! 何かお祝いするの?」

「いや。特に何もしないよ。母さんも忙しいだろうし」

「そうなの? じゃあ私が何かお祝いしてあげるわね」

「……無理はしないでいいから。でも、ありがとう」

 二人はこの島のメインストリートになる漁港の市場周辺ではなく、少し外れた島の内陸側に住む。

 そこは主に島の娼婦達の住むエリアだ。

 集落として固まって家屋があるわけではなく、家毎に間隔が設けられている。

 島の娼婦達は自宅を仕事場として使うので客は目当ての娼婦の家に訊ねていく。

 客同士が出来るだけ顔を合わせる事の無い様にとの配慮の為だ。

 ヘリュもイラも島の娼婦の子で1歳違いという事もあり一番気心の知れた友達で、口下手なヘリュの代わりにイラはよく喋る。

 ヘリュはそんなイラのお喋りを聞いているのが大好きだった。

 道すがらずっと喋っていたが、ヘリュにとってはその方が助かる。

 自分の事を話すのが苦手で、どう伝えればいいのかわからない。

 そもそも自分の話が面白いとは思えなかったので、つい何も言わず無口になる。

 でもイラはそんなヘリュに構う事無く次々と自分の喋りたい事を楽し気に喋った。

 イラの話に相槌を打っていると、市場に着いた。

 港沿いに幌を張った店が並んでいて、今朝獲れたばかりの魚や隣島から運ばれてきたフルーツやグリムヒルト本土から入ってきた豆や雑穀等が積まれていた。

 ヘリュとイラは魚の並ぶ店に行き、店番をする少し白髪の混じった男に話しかけた。

「おはよう、ミロさん。今日は余所さんは来そう?」

 イラはミロに明るく声をかけ、ミロもイラとヘリュに笑いかける。

「おう、お二人さん、今日は一緒か。今日は多分いるぜ? 今回も補給の奴らだろうな」

「そうなのね、ありがとう。私はその干し魚を4匹ちょうだい! ヘリュも同じでいい?」

 ヘリュはイラにこくりと頷いた。

 ミロは器用にバナナの葉で干し魚を包みながらヘリュに笑う。

「相変わらずヘリュは不愛想だなぁ。お前せっかく美人になりそうなのにそんなんじゃ将来、おまんま喰いっぱぐれちまうぞ?」

 ヘリュはその言葉には答えず無言で大きな葉で包まれた干し魚を受け取る。

 イラはそんなヘリュの代わりにミロに答えた。

「ヘリュはこれでいいの! じゃあ、また明日!」

 イラはヘリュの手を掴んでそのまま引いて次の店へと歩き出す。

「ミロさんはヘリュの顔見るたびにあんな事ばっかり言うわね、愛想なんかなくてもヘリュはとってもいい子なのに」

 イラは少しだけ怒気を含んだ声音で独り言のように呟いた。

 その言葉にくすぐったい気持ちになりながらヘリュはイラの黒髪の靡く後ろ姿を眺める。

 ずんずん進んでいたイラの足がふと止まる。

「あ、アーダさんだ」

 二人はスッと店と店の間に入って道を開けた。

 店の狭間へヘリュが先に入って、ヘリュを隠すようにその後からイラが入った。

 買い物かごを持ってイラやヘリュと同じ年頃の男の子の手を引き、赤子を抱っこ紐で背負ったアーダがヘリュ達の開けた道を進んでくる。

 アーダは俯くヘリュとイラに一瞥をくれるとツンと前を向いて通り過ぎて行く。

 アーダに手を引かれた男の子は何度もヘリュ達の方を振り返っていたが、その度にアーダに手を引っ張られていた。

 アーダの姿が見えなくなると、イラはふぅっと溜息を吐いてヘリュを振り返った。

「アーダさんに会っちゃうなんて、今日は運が悪かったわね」

「まあ、そんな日もあるよ」

 ヘリュはアーダの去った方を眺めながらイラに答えた。

 次は果物屋に行って、バナナやパパイヤ、パンの実などを買い、帰路に就く。

 イラと別れて集落の共同井戸を通り過ぎた時、一人の男が辺りをキョロキョロと見渡していた。

 島には余所者がよく補給に寄ったりするので見慣れない男がいる事自体は珍しくはないが、このエリアまで来ると大抵は顔を隠して足早に目当ての娼婦の所に急ぐ。

 この男の様に顔も隠さず留まって、辺りを観察してるのは珍しい。

 男はヘリュに気が付くと、市場の方へと歩いて行った。

 少し気になったが家へ帰る。

 そして買ったものを台所の作業台に置いて今度は天秤棒を担いで井戸端まで歩き出した。

 今は乾季で水汲みの頻度が多い。

 ヘリュは担いできた天秤棒の両端のバケツに釣瓶から引き揚げた水を半分ほど満たす。

 再び担ぐと行きよりもずっしりと重くなり、ヘリュの肩に食い込んだ。

 痛みはあるが、ヘリュはそれに構う事無く歩き出す。

 途中、同じ様に水汲みをする子供達とすれ違い挨拶を交わす。

「よお、ヘリュ! 今夜も先生んとこ行く?」

「おはよう、ユホ。うん、行くよ」

 7、8往復ほどして飲料用の水瓶、清掃用の水瓶、浴槽にそれぞれ満たした。

 それが終わると水の満ちた浴槽に香草を入れる。

 浴槽窯に椰子繊維と椰子殻を放り込み、火種を入れて火吹き竹で空気を送り込む。

 簡単に火は立ち上がり、ヘリュはそれを見届けると台所に戻って同じ様に窯に火を入れた。

 そして市場で買った干し魚とパンの実を焼く。パパイヤを切ってる所にイリニヤが顔を出した。

「おはよう、ヘリュ」

「おはよう、母さん。ご飯もう少し待って」

「うん、手伝う?」

「ううん。母さんは湯浴みしてきていいよ」

「そう? じゃあお願いね」

 魚の焼けた香ばしい匂いが立ち込めたので火から引き上げて、バナナの葉をダイニング棟のテーブルに2枚敷いて、その上に焼けた干し魚とパンの実、切ったバナナやパパイヤを乗せた。

 準備が整った頃、イリニヤがダイニングにやって来た。

 イリニヤのこげ茶色の濡れた髪からは香草がほのかに香った。

 その気配に気づいたヘリュは顔を上げてイリニヤに声をかける。

「出来てるよ」

「ありがと。ココナツは危ないから私がやるよ」

「うん」

 イリニヤは台所に行くとココナツを2つ鉈でカットし、それを持ってダイニングに戻る。

 ヘリュはもう自分の席に座ってイリニヤを待っていた。

 イリニヤはココナツを一つヘリュの前に置き、ヘリュの向かいの席に座った。

「さ、食べようか」

「うん、いただきます」

「いただきます」

 ヘリュは焼けた魚を掴んで割く。

 イリニヤも同じ様にパンの実を掴むと千切って口に入れ、咀嚼する。

 イリニヤは少し気だるげに微笑みながらヘリュを見た。

「今日はどう?」

「余所さん来てるって」

「そう。なら今日はイラリが早い時間に来るわね」

「じゃあ、今夜は早めに家出る」

「うん、そうした方がいいね」

「奥さんに会ったよ」

「アーダに? ちゃんと道譲った?」

「うん」

「面倒かけるけどごめんね」

「別にいいよ、その位」

 イラリはこの島の漁師で漁の腕はこの島で1番と言っていい。

 この島の男達の中で島の娼婦に対して縄張り意識がある。

 客として行ってはいけないという決まりは特にはないが、なんとなく男達の中でこの娼婦は誰々のお気に入り……と言った暗黙の了解があり、イラリはイリニヤを気に入っている。

 特別に手当を貰っていないので愛人という訳でもない。

 しかし男達はそういう意識を娼婦達に向けていた。

 そうなると気に入らないのは男達の妻達だ。

 もちろん娼婦達への当たりもキツくなるし、その子供も同罪なのだろう。

 娼婦達は島で穏便に生きる為に妻達には一歩下がる気遣いを見せる。

 それでなんとか島の均衡は保たれていた。

 イラリはイリニヤがヘリュを産んでから、特に執着を見せる様になった。

 ヘリュは島のどの男にも、イリニヤ自身にも似ていない。

 目を引くワインレッドの髪色、獣の様な黄色い瞳。

 イラリにはその男に覚えがあるのだろう。

 余所から補給で島に停泊する船があると、必ず1番最初にイリニヤを買いに来る様になった。

 イリニヤはヘリュにあまり隠さず自分達の置かれた立場を説明した。

 どうして自分達がそうしなければならないのかを子供にわかる言葉で伝えていたので、ヘリュは子供ながらにちゃんと自分の置かれた立場を把握することが出来ていた。

 二人は食事を済ませると日の高い暑い時間を昨日採ってきた香草などの選り分けやベッドを客用のメイクに替えたりしながら屋内で過ごす。

 少し暑さが落ち着いた時間になるとイリニヤはそろそろ客を迎える準備の為、身支度を始める。

 ヘリュは家を出て、森へと向かう。

 森へと向かう道すがら、いつも娼婦の子供達が夜に集まる屋根付きの亭を通り過ぎる。

 そして丘を登っていくと漁港が一望できた。

 もうそろそろ日が海へと向かっていて、空を薄くペールオレンジに染めていた。

 漁港は朝の喧騒とは打って変わって店は閉められ、漁の後片付けをする男達がちらほらをいる位だ。

 自身の影が長く伸びるのを見ながら、森を歩く。

 香草や森に自生する芋を採り、このまま子供達のいる亭へ向かう予定だったが忘れ物を思い出し、家へ戻ることにした。

 家に着いて採った香草や芋の入ったバッグを作業棟に置いて、忘れ物の黒板を手に取ると、もう化粧をして着飾ったイリニヤがヘリュに声をかける。

「門まで送るよ。これも吊るさなきゃ」

 イリニヤは手に持った貝の連なる吊るし飾りを掲げて見せた。

 この吊るし飾りが門に飾ってある時は客待ちをしてるという印だ。

 これが無い時は営業をしていないか、先客がいるかのどちらかという事になる。

「吊るしておこうか?」

「ううん、送るよ」

 そう言ってヘリュとイリニヤは一緒に門まで向かう。

「気を付けて行くんだよ?」

「ん。母さんも無理しないで」

 門を潜るとちょうど道の向こうから男がやって来た。

「よう、イリニヤ。ヘリュも一緒か」

「あら、いらっしゃい、イラリ」

 イラリは軽く片手を上げてイリニヤに笑いかけた。

 ヘリュはイラリをじっと見つめる。

 そんなヘリュに目をやったイラリは二カッと笑った。

「ヘリュ、お前今日アーダに会ったんだって? あいつ挨拶が無かったって文句言ってたぞ? もうちょっと愛想ってもんを磨け? な?」

 ヘリュはイラリをじっと見つめ続けた。

 そんなヘリュの前に立ったイラリはヘリュの頭に掌を置いて笑う。

「まあ、お前の初めても俺が買ってやるからな? 安心しろ」

 イリニヤはイラリの太い浅黒い腕に胸を押し付ける様にしてしがみ付いた。

「何? 今から私とイイコトすんのに浮気?」

 蠱惑的にイラリに微笑んで上目遣いで見つめる。

 その表情に気を良くしたイラリはイリニヤの肩を抱いて耳元に囁きかけた。

「なんだ? こんなガキに妬いてんのか? お前は可愛い女だな」

 再びヘリュの方を見て言った。

「な? 母ちゃん見習って可愛い女になれよ?」

 イリニヤが行けと目配せをしたので、ヘリュは背を向けて亭へと歩き出した。

 少し早足で歩いて、しばらくして振り返ると、二人が腕を組んで家の門を潜っているのが見えた。

 

 鮮やかな橙に染まった空が足元に長い影を作り、その影を追う様にヘリュは駆けだした。

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