第九話:断罪の夜会
ヴァレリウスの隠れ家で迎えた朝は、嘘のように静かだった。
エレオノーラは、逞しい腕に抱かれて目を覚ました。アレスターの冷たい寝室ではなく、ヴァレリウスの温もりに包まれている。ほんの一瞬、このまま時が止まればいいと願った。しかし、窓から差し込む光は、否応なく現実を連れてくる。
「……眠れたか」
いつの間にか起きていたヴァレリウスが、彼女の髪を優しく撫でる。その瞳は、昨夜の情熱的な男のものではなく、既に「王家の番犬」としての冷徹な光を宿していた。
「これから、どうなるのですか」
「今夜、王宮でカイザーリヒ帝国からの使節団を歓迎する晩餐会が開かれる。表向きは和平交渉の成功を祝う宴だ。そして、その主賓は、お前の夫、アレスター侯爵」
ヴァレリウスは、既に戦いの盤上を見据えている。
「これ以上、奴に泳ぐ時間を与えるわけにはいかん。今夜、全てを決める」
彼は、エレオノーラが命懸けで持ち出した羊皮紙を手に取った。
「最高の舞台だ。最も輝かしい瞬間に、地獄の底へ突き落としてやる」
その夜、王宮の舞踏室は、まばゆいばかりの光と、人々の熱気に満ちていた。
アレスター侯爵は、まさしく栄光の絶頂にいた。妻が失踪したことは計算外だったが、感傷に浸る彼ではない。後で探し出し、罰を与えればいい。今は、目前の成功を味わうことこそが重要だった。
国王陛下から直々に和平への貢献を讃えられ、カイザーリヒの大使からは賛辞を贈られる。彼の権力は、今宵、盤石のものとなるはずだった。
「……侯爵の類まれなる外交手腕に、改めて感謝の意を表したい!」
国王がそう言って高らかに杯を掲げ、アレスターは満足げにそれを受けた。会場が、割れんばかりの拍手に包まれる。
その、まさに頂点の瞬間だった。
舞踏室の重厚な扉が、乱暴に開け放たれた。
音楽が止み、全ての視線が扉へと注がれる。そこに立っていたのは、宴の招待客ではない。漆黒の制服に身を包んだ、王室諜報機関の長官、ヴァレリウス卿。そして、彼の背後には、抜身の剣を携えた近衛騎士たちが控えていた。
「ヴァレリウス卿! 何の騒ぎだ!」
国王が咎めるように言うが、ヴァレリウスは陛下に一瞥もくれず、真っ直ぐにアレスターを見据えた。
「アレスター・フォン・グレンヴィル侯爵」
その声は、死刑宣告のように、静まり返ったホールに響き渡る。
「国王陛下への反逆、及び、カイザーリヒ帝国との内通による国家反逆罪の容疑で、貴殿を拘束する」
一瞬の静寂の後、ホールは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。アレスターは、一瞬だけ目を見開いた後、大声で笑い出した。
「は、ははは! 気でも狂ったか、ヴァレリウス! そのような戯言、証拠でもあるというのか!」
「証拠?」
ヴァレリウスは、氷のような笑みを浮かべた。
「ああ、あるとも。物的証拠よりも、遥かに雄弁な……生きた証拠がな」
彼が合図をすると、騎士たちが道を開ける。
そして、その奥から、一人の女性が静かに歩みを進めてきた。
夜色の、しかし一切の装飾もない、凛としたドレス。その姿に、ホールにいた誰もが息を呑んだ。
「……エレオノーラ……!」
アレスターの顔から、初めて血の気が引いた。
「お前、なぜその男と……! そいつに攫われ、あらぬ嘘を吹き込まれたのだな!」
必死に叫ぶアレスターを無視し、エレオノーラは国王の前に進み出ると、深く淑女の礼をとった。
「陛下。わたくしは誰かに唆されたわけではございません。自らの意志で、ここにおります」
その声は、鈴のように澄んで、そして揺るぎなかった。
「我が夫、アレスター侯爵の、『紅百合』計画の全貌を、陛下にご報告するために」
エレオノーラは、澱みなく語り始めた。カイザーリヒとの密約、国王暗殺計画、そして貴族たちのリスト。彼女の言葉は、完璧な侯爵夫人だった頃からは想像もつかないほど、理路整然としていた。
彼女が語り終えると、ヴァレリウスが一歩前に出て、羊皮紙の束を国王に差し出した。
「そして陛下、これがその物的証拠。侯爵の自筆による、大逆の盟約書でございます」
国王が羊皮紙に目を通し、その顔が怒りで赤く染まっていく。
万事休す。
それを悟った瞬間、アレスターの理性が、完全に焼き切れた。
「……よくも……よくも、この俺を裏切ったなァッ!!」
彼は、もはや侯爵の威厳などかなぐり捨て、獣のような雄叫びを上げてエレオノーラへと突進した。
「この売女めが! 八つ裂きにしてくれるわ!」
だが、その凶刃がエレオノーラに届くことはなかった。
一陣の風のように動いたヴァレリウスが、抜き放った剣の柄でアレスターの鳩尾を強打し、その動きを止める。間髪入れず、近衛騎士たちがアレスターの身体を取り押さえた。
「離せ! 離さんか! エレオノーラァァァッ!!」
呪詛の言葉を喚き散らしながら引きずられていく夫の姿を、エレオオーラは、ただ無表情に見つめていた。
ホールでは、リストに名のあった貴族たちが、次々と騎士たちに拘束されていく。
阿鼻叫喚の地獄絵図と化した舞踏室の中心で、エレオノーラは静かに佇んでいた。
ふと、ヴァレリウスと視線が交わる。
彼の黒い瞳が、ほんのわずかに、労るように細められた。
それは、長かった共犯関係の終わりと、そして、新しい関係の始まりを告げる、静かな合図だった。