表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

第九話:断罪の夜会

 ヴァレリウスの隠れ家で迎えた朝は、嘘のように静かだった。


 エレオノーラは、逞しい腕に抱かれて目を覚ました。アレスターの冷たい寝室ではなく、ヴァレリウスの温もりに包まれている。ほんの一瞬、このまま時が止まればいいと願った。しかし、窓から差し込む光は、否応なく現実を連れてくる。


「……眠れたか」


 いつの間にか起きていたヴァレリウスが、彼女の髪を優しく撫でる。その瞳は、昨夜の情熱的な男のものではなく、既に「王家の番犬」としての冷徹な光を宿していた。


「これから、どうなるのですか」

「今夜、王宮でカイザーリヒ帝国からの使節団を歓迎する晩餐会が開かれる。表向きは和平交渉の成功を祝う宴だ。そして、その主賓は、お前の夫、アレスター侯爵」


 ヴァレリウスは、既に戦いの盤上を見据えている。


「これ以上、奴に泳ぐ時間を与えるわけにはいかん。今夜、全てを決める」


 彼は、エレオノーラが命懸けで持ち出した羊皮紙を手に取った。


「最高の舞台だ。最も輝かしい瞬間に、地獄の底へ突き落としてやる」


 その夜、王宮の舞踏室は、まばゆいばかりの光と、人々の熱気に満ちていた。


 アレスター侯爵は、まさしく栄光の絶頂にいた。妻が失踪したことは計算外だったが、感傷に浸る彼ではない。後で探し出し、罰を与えればいい。今は、目前の成功を味わうことこそが重要だった。


 国王陛下から直々に和平への貢献を讃えられ、カイザーリヒの大使からは賛辞を贈られる。彼の権力は、今宵、盤石のものとなるはずだった。


「……侯爵の類まれなる外交手腕に、改めて感謝の意を表したい!」


 国王がそう言って高らかに杯を掲げ、アレスターは満足げにそれを受けた。会場が、割れんばかりの拍手に包まれる。


 その、まさに頂点の瞬間だった。


 舞踏室の重厚な扉が、乱暴に開け放たれた。


 音楽が止み、全ての視線が扉へと注がれる。そこに立っていたのは、宴の招待客ではない。漆黒の制服に身を包んだ、王室諜報機関の長官、ヴァレリウス卿。そして、彼の背後には、抜身の剣を携えた近衛騎士たちが控えていた。


「ヴァレリウス卿! 何の騒ぎだ!」


 国王が咎めるように言うが、ヴァレリウスは陛下に一瞥もくれず、真っ直ぐにアレスターを見据えた。


「アレスター・フォン・グレンヴィル侯爵」


 その声は、死刑宣告のように、静まり返ったホールに響き渡る。


「国王陛下への反逆、及び、カイザーリヒ帝国との内通による国家反逆罪の容疑で、貴殿を拘束する」


 一瞬の静寂の後、ホールは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。アレスターは、一瞬だけ目を見開いた後、大声で笑い出した。


「は、ははは! 気でも狂ったか、ヴァレリウス! そのような戯言、証拠でもあるというのか!」

「証拠?」


 ヴァレリウスは、氷のような笑みを浮かべた。


「ああ、あるとも。物的証拠よりも、遥かに雄弁な……生きた証拠がな」


 彼が合図をすると、騎士たちが道を開ける。


 そして、その奥から、一人の女性が静かに歩みを進めてきた。

 夜色の、しかし一切の装飾もない、凛としたドレス。その姿に、ホールにいた誰もが息を呑んだ。


「……エレオノーラ……!」


 アレスターの顔から、初めて血の気が引いた。


「お前、なぜその男と……! そいつに攫われ、あらぬ嘘を吹き込まれたのだな!」


 必死に叫ぶアレスターを無視し、エレオノーラは国王の前に進み出ると、深く淑女の礼をとった。


「陛下。わたくしは誰かに唆されたわけではございません。自らの意志で、ここにおります」


 その声は、鈴のように澄んで、そして揺るぎなかった。


「我が夫、アレスター侯爵の、『紅百合』計画の全貌を、陛下にご報告するために」


 エレオノーラは、澱みなく語り始めた。カイザーリヒとの密約、国王暗殺計画、そして貴族たちのリスト。彼女の言葉は、完璧な侯爵夫人だった頃からは想像もつかないほど、理路整然としていた。


 彼女が語り終えると、ヴァレリウスが一歩前に出て、羊皮紙の束を国王に差し出した。


「そして陛下、これがその物的証拠。侯爵の自筆による、大逆の盟約書でございます」


 国王が羊皮紙に目を通し、その顔が怒りで赤く染まっていく。


 万事休す。


 それを悟った瞬間、アレスターの理性が、完全に焼き切れた。


「……よくも……よくも、この俺を裏切ったなァッ!!」


 彼は、もはや侯爵の威厳などかなぐり捨て、獣のような雄叫びを上げてエレオノーラへと突進した。


「この売女めが! 八つ裂きにしてくれるわ!」


 だが、その凶刃がエレオノーラに届くことはなかった。


 一陣の風のように動いたヴァレリウスが、抜き放った剣の柄でアレスターの鳩尾を強打し、その動きを止める。間髪入れず、近衛騎士たちがアレスターの身体を取り押さえた。


「離せ! 離さんか! エレオノーラァァァッ!!」


 呪詛の言葉を喚き散らしながら引きずられていく夫の姿を、エレオオーラは、ただ無表情に見つめていた。


 ホールでは、リストに名のあった貴族たちが、次々と騎士たちに拘束されていく。


 阿鼻叫喚の地獄絵図と化した舞踏室の中心で、エレオノーラは静かに佇んでいた。


 ふと、ヴァレリウスと視線が交わる。


 彼の黒い瞳が、ほんのわずかに、労るように細められた。


 それは、長かった共犯関係の終わりと、そして、新しい関係の始まりを告げる、静かな合図だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ