第八話:覚悟の夜
その日の晩餐は、まるで葬儀のようだった。
アレスターは、獲物を前にした蛇のように、穏やかでさえあった。彼は上機嫌にワインを口に運び、歴史上の逸話を語って聞かせた。それは、夫を裏切った妃が、塔に幽閉され、狂い死にしていく物語だった。
「……哀れな女だ。自らの分をわきまえぬから、そんな末路を辿る」
彼はそう言って、ワイングラス越しにエレオノーラに微笑みかけた。その瞳の奥には、温度というものが一切存在しない。
エレオノーラは、血の気の引いた顔で微笑み返した。全身の肌が粟立ち、警鐘が鳴り響いている。
(……バレている)
自分は間違いなく殺されるか、あるいは二度と日の目を見ることのない場所に囚われる。
もう、時間がない。
その夜、エレオノーラは侍女に「激しい頭痛がする」と告げ、薬と葡萄酒を大量に寝室へ運ばせた。そして、侍女が下がると、その葡萄酒のほとんどを窓から庭へと捨てる。
彼女に残された時間は、アレスターが眠りに落ちるまでの、ほんのわずかな間だけ。
屋敷中に張り巡らされた夫の監視網。その中で、唯一、夫自身が決して他者を入れない聖域。──彼の書斎。
そこに、全ての答えがあるはずだった。
音を殺して廊下を歩き、書斎の扉の前に立つ。懐から取り出した合鍵を、震える手で鍵穴に差し込んだ。ヴァレリウスが作らせたそれは、吸い込まれるように滑らかに回り、音もなく錠が開く。
月明かりだけが差し込む書斎に忍び込み、彼女は迷わず仕掛け箱へと向かった。心臓が、肋骨を砕くほどに高鳴る。
箱を開けると、そこには数枚の羊皮紙が収められていた。震える指でそれを広げ、エレオノーラは息を呑んだ。
そこにあったのは、王国の主要貴族の名が連なるリスト。そして、国王暗殺と、カイザーリヒ帝国への国土割譲を約する、大逆の盟約書だった。
『紅百合』。その計画の、禍々しい全貌。
これさえあれば、アレスターを確実に破滅させられる。
彼女が羊皮紙を胸に抱き、立ち上がった、その時だった。
「──面白い物を見つけたようだな、我が妻よ」
背後からかけられた声に、エレオノーラの心臓が止まった。
振り返ると、そこには、寝間着姿のアレスターが立っていた。その手には、あの黒い髪の毛が一本、ひらひらと握られている。
「その汚らわしい鼠の巣に、お前もいたとはな」
彼の顔から、完璧な夫の仮面が完全に剥がれ落ちていた。そこにいるのは、嫉妬と支配欲に狂った、一匹の獣。
「っ……!」
エレオノーラは、咄嗟に扉へと駆け出した。だが、アレスターの方が早い。彼はエレオノーラの髪を鷲掴みにし、床へと引き倒した。
「どこへ行く、エレオノーラ。お前の居場所は、俺の隣だけだ。永遠に、な」
彼は馬乗りになり、その太い指が、エレオノーラの細い首にかかる。
(死ぬ……!)
朦朧とする意識の中、エレオノーラは最後の力を振り絞り、近くにあった重いインク壺を掴むと、アレスターの側頭部めがけて殴りつけた。
一瞬、彼の力が緩む。その隙に、彼女は転がるようにして書斎を飛び出し、闇の中をひた走った。背後から、アレスターの獣のような怒号が追いかけてくる。
目指すは、ヴァレリウスから教えられていた、たった一つの逃げ道。庭園の、古い礼拝堂の地下通路。
息も絶え絶えに隠れ家に転がり込んだ彼女を、待ち構えていたかのように、ヴァレリウスが力強く受け止めた。
「……来たか」
彼の腕に抱かれた瞬間、張り詰めていた全ての糸が切れた。
「アレスターが……! わたくしを、殺そうと……!」
「わかっている。もう、お前をあの場所へは帰さん」
彼は、エレオノーラの破れたドレスや、首に残る痣に気づくと、その瞳に静かな怒りの炎を宿した。
「これが、証拠です……『紅百合』の、全て……」
彼女が差し出した羊皮紙を受け取ると、彼はそれを確認もせず、暖炉のそばの机に置いた。今の彼にとって、それよりも重要なものが目の前にあったからだ。
彼はエレオノーラの冷え切った身体を抱き上げると、寝室へと運び、その傷ついた肌に、そっと薬を塗り始めた。彼の指は、驚くほど優しかった。
「もう、何も恐れることはない」
薬を塗り終えた彼の手が、彼女の頬を包む。
「エレオノーラ……お前は、俺のものだ」
それは、アレスターの言葉と同じだった。だが、意味は全く違う。アレスターのそれは所有の宣言であり、ヴァレリリウスのそれは、生涯を賭けた守護の誓いだった。
夜が明ける頃、二人は静かに寄り添っていた。
外の世界では、侯爵家が総力を挙げて、失踪した夫人の行方を捜索しているだろう。
しかし、王都で最も危険な男の腕の中で、エレオノーラは、生まれて初めて、心の底からの安らぎを感じていた。
もう、彼女の戦いは終わった。
これからは、彼の戦いが始まるのだ。




