第七話:夫の疑惑
あの日以来、アレスターの猜疑心は、屋敷の中にたちこめる毒霧のようにエレオノーラの日常を侵食し始めた。
彼女の外出は厳しく制限され、行き先には必ず夫の息のかかった護衛が付けられるようになった。侍女たちの目も、以前の親しげなものから、どこか監視するような冷たさに変わっている。金色の檻は、より狭く、そして頑丈なものへと変貌していた。
「……今日は、やけに香水の匂いが強いな」
夕食の席で、アレスターが何気ない口調で言った。しかし、その瞳は笑っていない。
「新しいものを試してみたのです。お気に召しませんでしたか?」
「いや。ただ、俺の知らんお前の一面が増えるのは、好かんな」
彼の言葉は、じわりじわりとエレオノーラの首を絞める絹の紐のようだった。完璧な妻を演じる仮面の下で、彼女の心は絶えず恐怖に苛まれていた。ヴァレリウスとの連絡も、今は完全に途絶えている。合図の黒薔薇は、もう届かない。
焦燥感に駆られたある夜、エレオノーラはついに禁じ手を打つ。
侍女頭に「母の形見の指輪を、寄付先の教会に置き忘れてしまったようだ」と涙ながらに訴えたのだ。貞淑な彼女が、亡き母の思い出の品を失って取り乱す姿を、疑う者はいなかった。
深夜、アレスターが眠りについたのを確認し、彼女は護衛もつけず、たった一人、夜の闇に紛れて屋敷を抜け出した。向かう先は、あの裏通りの酒場『蛇の塒』。ヴァレリウスが、万が一のために残してくれた最後の連絡手段だった。
酒場の個室で待つ時間は、永遠のように感じられた。もう彼は来ないのかもしれない。全ては自分の独りよがりだったのかもしれない。絶望が胸をよぎったその時、音もなく扉が開き、漆黒の外套をまとったヴァレリウスが姿を現した。
「……無謀な真似を」
その声には、怒りと、そして隠しきれない安堵の色が滲んでいた。
「会いたかった……」
エレオノーラは、彼の胸にすがるように飛び込んでいた。恐怖、孤独、そして張り詰めていた緊張の糸が切れ、彼女の肩は小さく震えていた。
ヴァレリウスは、何も言わずにその震える身体を強く抱きしめる。彼の腕の中だけが、この世界で唯一、安全な場所のように感じられた。
「夫が……何かを感づいています。もう、時間の問題かもしれません」
「だろうな。お前の周囲に、俺の息のかかった者も配置している。だが、屋敷の中までは入れん」
ヴァレリウスは、エレオノーラの顔を両手で包み込み、その瞳を覗き込んだ。
「エレオノーラ。先日、君が口にした『紅百合』という言葉。それは、ただの寝言ではない」
彼の声が、真剣さを帯びる。
「それは、我が国を根底から覆そうとする、大逆の計画名だ。アレスターは、その中心人物の一人と見て間違いない。もはや、これはただの痴情のもつれではない。国家の存亡を賭けた戦いだ」
その言葉の重みに、エレオノーラは息を呑んだ。自分の復讐は、いつの間にか、それほどまでに巨大なものと繋がってしまっていたのだ。
「ならば、尚更……。わたくしが、証拠を見つけ出します」
「危険すぎる」
「危険なのは、貴方様も同じでしょう?」
見つめ合う二人の間に、共犯者としての、そして男女としての強い絆が生まれる。ヴァレリウスは、何かを諦めたように深くため息をつくと、彼女の唇を激しく奪った。それは、いつものような支配的なものではなく、彼女を失うことへの恐れと、焦燥に満ちた、切ない口づけだった。
エレオノーラが屋敷に戻ったのは、夜明け前のことだった。
幸い、誰にも気づかれず自室の寝台に滑り込む。しかし、その背後で、アレスターの寝室の扉が静かに開いていたことに、彼女は気づかなかった。
その日の午後。アレスターは、理由もなくエレオノーラの私室に立ち入った。そして、まるで獣が縄張りを確かめるように、部屋の中を検め始めた。クローゼットを開け、ドレスの匂いを嗅ぎ、宝石箱の中をかき回す。
決定的な証拠は何もない。だが、彼の目は、ドレッサーの隅に置かれた一着の外套に留まった。
それは、エレオノーラが昨夜、屋敷を抜け出す際に使った、ごく平凡な灰色の外套だった。
アレスターはそれを手に取ると、その裾についた、微かな汚れに気づく。王都の中心部では見られない、湿った土と、場末の酒場特有の、安酒が染み込んだような匂い。
そして、その外套の裏地から、一本の髪の毛を見つけ出した。
それは、エレオノーラの銀色のものではない。短く、硬質な、漆黒の髪。
アレスターの顔から、ゆっくりと表情が消えていった。
そして、その代わりに浮かび上がったのは、嫉妬や怒りを通り越した、絶対零度の殺意。
彼は、その黒い髪を指先で弄びながら、静かに、そして低く呟いた。
「……見つけたぞ、鼠が」




