第六話:二重生活
仮面舞踏会の夜を境に、エレオノーラの世界は二つの色に分かれた。
昼の世界は、これまでと変わらぬ、夫アレスター侯爵の完璧な妻を演じる、金色の檻。
そして夜の世界は、ヴァレリウス卿の腕の中で、危険な共犯者、そして一人の女として過ごす、漆黒の密会。
不思議なことに、危険な二重生活は、エレオノーラの心を蝕むどころか、むしろ彼女に生きる活力を与えていた。
朝食の席で、アレスターがいつものように彼女の意見を鼻で笑う。
「女の浅知恵で口を挟むなと言ったはずだ」
以前なら、その一言で一日中、心が萎縮していただろう。だが、今の彼女は違った。
(……けれど、その浅知恵が、貴方の足元を掬うのですよ)
心の中でそう呟き、淑やかな笑みを返すことができる。「申し訳ありません、アレスター様」と。
夫に見下される自分と、ヴァレリウスに求められる自分。二つの顔を持つことで、エレオノーラはかろうじて精神の均衡を保っていた。
彼女の諜報活動は、より大胆かつ緻密になっていた。
狙いは、舞踏会でヴァレリウスに伝えた、アレスターの書斎にある新しい仕掛け箱。厳重に施錠されたそれに、夫の最も重要な秘密が隠されていると彼女は睨んでいた。
ある午後、エレオノーラは「夫の服の綻びを繕う」という口実で、彼の私室に入り込んだ。そして、彼が書斎の鍵を置いている上着のポケットに、内側からそっと、柔らかな蜜蝋を薄く塗りつけた。
案の定、その日の夜に帰宅したアレスターは、書斎へと向かった。彼が去った後、エレオノーラは上着を回収し、蜜蝋についた鍵の完璧な型を手に入れることに成功する。
その鍵型を、ヴァレリウスとの次の密会で渡す。それが、彼女の新たな任務だった。
密会の場所は、いつもヴァレリウスの隠れ家だった。そこはもう、ただの逢瀬の場所ではなく、エレオノーラにとって唯一、仮面を脱いで息ができる、聖域のような空間になっていた。
「……見事な手際だ」
鍵型を検めながら、ヴァレリウスが感心したように言った。彼はエレオノーラからもたらされる情報の正確さと、彼女の思いがけない大胆さを、高く評価しているようだった。
「貴女のような方を、ただの飾り物にしておくとは。アレスター侯爵も、見る目がない」
その言葉だけで、エレオノーラの心は満たされた。
「……貴方様が、見ていてくださるのなら、それで」
彼女がそう言うと、ヴァレリウスは鍵型を置き、彼女の身体を強く引き寄せた。
今夜の彼は、いつもより優しく、そして時間をかけて彼女を求めた。まるで、彼女が昼間の世界で負った心の傷を、一つ一つ確かめて癒すかのように。
この男の前でだけ、自分は自分でいられる。貞淑な侯爵夫人ではなく、ただのエレオノーラとして。
彼の腕の中で、甘い痺れに蕩けながら、ふと、昼間の出来事を思い出した。
「そういえば……夫が、眠りながら魘されていました。『紅百合』と……」
何気なく口にしたその言葉に、ヴァレリウスの動きが、ぴたりと止まった。
「……何と言った?」
彼の声は、先程までの甘さを失い、諜報機関の長官としての鋭さを取り戻していた。
「『紅百合』。……間違いないか?」
「ええ……何か、ご存じで?」
ヴァレリウスは答えなかった。だが、その一瞬の沈黙と、彼の身体に走った緊張が、それがただならぬ意味を持つ言葉であることを物語っていた。
翌日、エレオノーラは慈善活動を終え、夕暮れ時に屋敷へと戻った。どこか満ち足りた気持ちで玄関ホールを歩いていると、待ち構えていたかのようにアレスターが姿を現した。
「……随分と遅い帰りだな」
その声は、地を這うように低く、疑念に満ちていた。
「慈善教会の寄り合いですわ」
完璧な笑みで答えるが、アレスターは納得していない。彼は無言でエレオノーラに近づくと、その腕を乱暴に掴んだ。
「っ……!」
「この頃のお前、どこか変わったな。俺の知らぬところで、何か良からぬことを考えているのではないか?」
万力のような力で締め上げられ、腕に鋭い痛みが走る。
「何を……仰って……」
「忘れるな、エレオノーラ。お前が誰の物であるかを」
アレスターは、獲物を見据える爬虫類のような目で彼女を睨みつけると、その腕を突き放すように離し、去っていった。
一人残されたエレオノーラは、掴まれた腕を押さえた。ドレスの袖の下で、夫がつけた痣が赤く、そして熱く疼いている。
平和な日常の仮面が、初めて、はっきりと裂ける音がした。
危険はもう、すぐそこまで迫っている。
エレオノーラは、背筋を駆け上る戦慄を、必死で抑え込んでいた。




