第五話:共犯の証
最初の密会から数週間。エレオノーラの二重生活は、張り詰めた弦の上を歩くような緊張に満ちていた。彼女がもたらす情報は、どれも些細なものだったが、ヴァレリウスはそれを繋ぎ合わせ、アレスターの行動パターンを正確に読み解いているようだった。
次の合図は、仮面舞踏会の招待状という形で届いた。
中立派の筆頭である大公が主催する、王侯貴族がこぞって集まる一夜の宴。夫のアレスターも、自身の派閥を誇示するために参加を心待ちにしている。
(夫のすぐ側で、彼の政敵と会う……?)
そのあまりの大胆さに、エレオノーラの背筋を冷たいものが走った。だが、これはヴァレリウスからの信頼の証であり、同時に、彼女の覚悟を試す試験なのだと悟る。
舞踏会の夜、エレオノーラは「月の女神」を模した銀色のドレスと、繊細な銀細工の仮面を身に着けていた。隣に立つアレスターは、対照的に「夜の神」を思わせる黒一色の衣装だ。彼は上機嫌で、次々と有力者に声をかけていく。その傍らで、エレオノーラは完璧な妻を演じながらも、神経の全てを張り巡らせていた。
ワルツの三曲目。パートナーが次々と入れ替わる、華やかな混乱の中。
不意に、力強い腕が彼女の腰を抱いた。見上げると、そこにいたのは鴉の濡れ羽色を思わせる、漆黒の仮面をつけた男。その威圧的な存在感に、エレオノーラは相手が誰であるかを即座に悟った。
ヴァレリウスだった。
「息災か、侯爵夫人」
音楽に紛れるほどの、低い囁き声。
「……ええ。貴方様こそ、大胆なご趣味ですこと」
「敵陣の懐にこそ、好機はある」
ステップを踏みながら、二人は誰にも気づかれぬよう、言葉を交わす。
「アレスターが、カイザーリヒ大使と非公式に会うようです」
「いつ、どこでだ」
「まだ……。ですが、彼の書斎に新しい仕掛け箱が。おそらく、その中に」
「わかった」
彼らの身体が近づき、離れる。その一瞬一瞬が、火花を散らすような緊張に満ちていた。と、その時。すぐ近くを、アレスターが通り過ぎる。彼は立ち止まり、エレオノーラと踊る黒仮面の男を、鋭い猜疑の目で一瞥した。
エレオノーラの心臓が、氷のように凍りつく。
しかし、ヴァレリウスは動じなかった。彼は優雅なステップでエレオノーラをリードし、何事もなかったかのように彼女を群衆の中へと紛れ込ませる。
「……こちらへ」
曲が終わると、ヴァレリウスはエレオノーラの手を取り、人々の目を逃れてテラスへと続く秘密の通路へと導いた。
月明かりだけが差し込む、冷たい石造りの回廊。二人きりになった瞬間、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……もう、無理ですわ……。今、夫に見られたら……っ」
恐怖と、極度の緊張。彼女の身体は、自分のものではないかのように震えていた。
「落ち着け、侯爵夫人。感情の乱れは破滅を招く」
ヴァレリウスの声は、相変わらず冷たい。その冷徹さが、絶望していたエレオノーラの中で、何かを逆撫でした。
(この男は、わたくしをただの駒としか見ていないのだわ)
ならば、駒としての価値を示さなければ。この取引を、終わらせないために。
自暴自棄に似た衝動に駆られ、エレオノーラは自らの銀の仮面を剥ぎ取った。そして、目の前の男の黒い仮面にも、手を伸ばす。
「……っ!」
驚いたように目を見開いたヴァレリウスの素顔が、月光の下に晒される。噂通りの、整ってはいるが厳しく、冷たい貌。
「これでも、足りませんの?」
エレオノーラは、震える唇で囁いた。
「貴方様が仰った『対価』……わたくしが支払うべきものが、まだあるのでしょう?」
彼女は、自らつま先立ち、その冷たい唇に、己の唇を重ねた。
それは、絶望と、怒りと、そしてほんの少しの反抗心から生まれた、捨て身の口づけだった。
ヴァレリウスは、一瞬、硬直した。だが、すぐに彼の腕がエレオノーラの腰を強く抱き寄せ、口づけに応える。それは、彼女が与えたものとは全く違う、全てを支配するような、深く激しい口づけだった。
夫との義務的な行為しか知らないエレオノーラの身体に、稲妻のような衝撃が走る。
これは取引のはずだった。なのに、なぜ。なぜ、この男の腕の中で、自分はこれほどまでに熱く、求められていると感じてしまうのか。
長い口づけが終わり、唇が離れた時、二人の間には荒い呼吸だけがあった。
ヴァレリウスは、エレオノーラの乱れた髪を優しく払いながら、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……はっきりさせておこう、エレオノーラ」
初めて、彼は彼女の名を呼んだ。
「これは、『対価』ではない。これは、俺とお前を繋ぐ『契約』そのものだ」
彼の声は、熱を帯びて掠れていた。
「お前はもう、ただの情報提供者ではない。俺の共犯者だ。そして、俺は俺のものを、決して誰にも奪わせん」
彼はそう言うと、彼女のドレスの乱れを直し、仮面をそっと顔に戻した。
そして、何事もなかったかのように、彼女を舞踏会の喧騒の中へと連れ戻す。
夫アレスターの隣に戻った時、エレオノーラは完璧な侯爵夫人の仮面を再び被っていた。
しかし、その仮面の下で、彼女の唇はまだ熱く、身体の芯は甘く疼いていた。
夫の腕にいるのに、心はあの漆黒の男に奪われていた。
もう、後戻りはできない。




