表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不倫された妻の、危険な復讐契約  作者: 希羽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/10

第四話:最初の密会

 ヴァレリウス卿と契約を交わして数日。エレオノーラの日常は、表面上、何も変わらなかった。


 完璧な侯爵夫人として夫に尽くし、家の采配を振るう。しかし、その水面下で、彼女の神経は研ぎ澄まされ、五感の全てが情報収集のためのアンテナとなっていた。


 侍女たちの噂話。届けられる請求書に記された品目。夫の書斎から香る、客が残した葉巻の匂い。その全てが、パズルのピースだった。


 変化は、一本の黒薔薇によってもたらされた。


 ある朝、エレオノーラ宛に届けられた、名もなき花屋からの小さなブーケ。侍女たちはその不吉な色合いに眉をひそめたが、エレオノーラは息を呑んだ。


 黒薔薇に、トリカブト、そして蔦。


 貴族の令嬢が嗜む花言葉。黒薔薇は「別れ、憎しみ」。トリカブトは「用心、あなたは猛毒」。そして蔦は「忠誠、共犯」。


 それは、ヴァレリウスからの合図だった。


 エレオノーラは侍女に「体調が優れないので、一人で礼拝堂で祈りを捧げたい」と告げた。貞淑な彼女の言葉を、誰も疑う者はいなかった。


 彼女が向かったのは、王都の裏側、平民たちが暮らす雑多な地区だった。深くフードを被り、顔を隠していても、上質なドレスの裾が泥水を跳ね上げるたびに、周囲の好奇の視線が突き刺さる。


(本当に、このような場所に……?)


 胸を打つ心臓を抑えながら、彼女は指定された酒場『蛇の(ねぐら)』の、軋む扉を押し開けた。


 昼間だというのに薄暗い店内。安いエールと汗の匂い、そして男たちの野卑な笑い声。エレオノーラの知る世界とは、何もかもが違っていた。


 店主に銀貨を一枚握らせ、教えられた通りに二階の奥の部屋へと向かう。一歩進むごとに、後戻りできない道へと足を踏み入れている実感が、彼女の背筋を凍らせた。


 部屋は、蝋燭(ろうそく)一本の光だけが揺れる、狭い個室だった。彼女が入ると、隅の影が揺らめき、一人の男が姿を現す。


 ヴァレリウス卿だった。彼もまた、フード付きの質素な外套を身にまとっている。


「……来たか。感心するな、侯爵夫人。貴女のような方が、一人でここまで来られるとは」


 その声には、称賛も気遣いもなかった。ただ、事実を確認する響きだけがある。


「ここに長居は無用ですわね」


 エレオノーラは震える指先を隠しながら、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「夫が、敵国であるカイザーリヒの商人と密会を重ねています。これは、彼らが禁制品を密輸するために使っている秘密の帳簿の写し。幸い、わたくしの侍女の実家が、夫の領地の港町で働いておりまして」


 ヴァレリウスは無言でそれを受け取ると、蝋燭の光にかざして鋭い目で内容を検める。彼の指が羊皮紙の上を滑るたび、エレオノーラの心臓が跳ねた。


「……この暗号は?」

「おそらく、荷を積む船の名を偽装するためのものでしょう。夫は書斎で、よく似た暗号表を眺めておりました」

「書斎に、お前が自由に入れるのか」

「完璧な妻は、夫の書斎を整えるのも仕事のうちですもの」


 皮肉を込めて言うと、ヴァレリウスは初めて、かすかに口の端を上げたように見えた。


「なるほどな。敵を欺くには、まず味方から、か」


 彼は羊皮紙を懐にしまい、エレオノーラに向き直る。狭い部屋の中、二人の距離は腕を伸ばせば触れられるほどに近い。彼の体温さえも伝わってきそうな距離で、エレオノーラは息を詰めた。


「これは上々の成果だ。だが、次からはもっと慎重を期せ」


 ヴァレリウスは、一歩前に出る。エレオノーラは、壁に背中がつくのを感じた。


「アレスター侯爵は用心深い男だ。一度でも疑われれば、お前は妻であろうと容赦なく消される。俺の目の届かぬ、あの屋敷の中では、誰も君を救えん」


 彼の低い声が、部屋の空気を震わせる。それは脅しであり、そして、奇妙な警告でもあった。


 ヴァレリウスは、エレオノーラが被っていたフードの縁に指をかけた。そして、彼女の顔が闇に完全に隠れるよう、さらに深く引き下げる。冷たい彼の指先が、ほんの一瞬、彼女のこめかみに触れた。


「……っ」


 まるで、肌に直接焼き印を押されたような、鋭い熱。エレオノーラは小さく息を呑んだ。


「お前の安全は、我々の計画の成功と直結している。軽率な行動で、全てを無に帰すな」


 それは、彼女の身を案じているようにも、ただの駒を管理しているようにも聞こえた。


「次の合図があるまで、動くな」


 それだけを告げると、彼は音もなく部屋の闇に溶け込み、姿を消した。


 一人残されたエレオノーラは、しばらくその場から動けなかった。こめかみに残る、彼の指の感触。胸を打つ、恐怖と、そして今まで知らなかった高揚感。


 最初の密約は、果たされた。


 自分はもう、光の差す世界には戻れないのだと、エレオノーラは確信した。


 そして、あの男がいる漆黒の闇を、恐ろしく思いながらも、どこかで待ち望んでいる自分に気づいてしまったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ