第四話:最初の密会
ヴァレリウス卿と契約を交わして数日。エレオノーラの日常は、表面上、何も変わらなかった。
完璧な侯爵夫人として夫に尽くし、家の采配を振るう。しかし、その水面下で、彼女の神経は研ぎ澄まされ、五感の全てが情報収集のためのアンテナとなっていた。
侍女たちの噂話。届けられる請求書に記された品目。夫の書斎から香る、客が残した葉巻の匂い。その全てが、パズルのピースだった。
変化は、一本の黒薔薇によってもたらされた。
ある朝、エレオノーラ宛に届けられた、名もなき花屋からの小さなブーケ。侍女たちはその不吉な色合いに眉をひそめたが、エレオノーラは息を呑んだ。
黒薔薇に、トリカブト、そして蔦。
貴族の令嬢が嗜む花言葉。黒薔薇は「別れ、憎しみ」。トリカブトは「用心、あなたは猛毒」。そして蔦は「忠誠、共犯」。
それは、ヴァレリウスからの合図だった。
エレオノーラは侍女に「体調が優れないので、一人で礼拝堂で祈りを捧げたい」と告げた。貞淑な彼女の言葉を、誰も疑う者はいなかった。
彼女が向かったのは、王都の裏側、平民たちが暮らす雑多な地区だった。深くフードを被り、顔を隠していても、上質なドレスの裾が泥水を跳ね上げるたびに、周囲の好奇の視線が突き刺さる。
(本当に、このような場所に……?)
胸を打つ心臓を抑えながら、彼女は指定された酒場『蛇の塒』の、軋む扉を押し開けた。
昼間だというのに薄暗い店内。安いエールと汗の匂い、そして男たちの野卑な笑い声。エレオノーラの知る世界とは、何もかもが違っていた。
店主に銀貨を一枚握らせ、教えられた通りに二階の奥の部屋へと向かう。一歩進むごとに、後戻りできない道へと足を踏み入れている実感が、彼女の背筋を凍らせた。
部屋は、蝋燭一本の光だけが揺れる、狭い個室だった。彼女が入ると、隅の影が揺らめき、一人の男が姿を現す。
ヴァレリウス卿だった。彼もまた、フード付きの質素な外套を身にまとっている。
「……来たか。感心するな、侯爵夫人。貴女のような方が、一人でここまで来られるとは」
その声には、称賛も気遣いもなかった。ただ、事実を確認する響きだけがある。
「ここに長居は無用ですわね」
エレオノーラは震える指先を隠しながら、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「夫が、敵国であるカイザーリヒの商人と密会を重ねています。これは、彼らが禁制品を密輸するために使っている秘密の帳簿の写し。幸い、わたくしの侍女の実家が、夫の領地の港町で働いておりまして」
ヴァレリウスは無言でそれを受け取ると、蝋燭の光にかざして鋭い目で内容を検める。彼の指が羊皮紙の上を滑るたび、エレオノーラの心臓が跳ねた。
「……この暗号は?」
「おそらく、荷を積む船の名を偽装するためのものでしょう。夫は書斎で、よく似た暗号表を眺めておりました」
「書斎に、お前が自由に入れるのか」
「完璧な妻は、夫の書斎を整えるのも仕事のうちですもの」
皮肉を込めて言うと、ヴァレリウスは初めて、かすかに口の端を上げたように見えた。
「なるほどな。敵を欺くには、まず味方から、か」
彼は羊皮紙を懐にしまい、エレオノーラに向き直る。狭い部屋の中、二人の距離は腕を伸ばせば触れられるほどに近い。彼の体温さえも伝わってきそうな距離で、エレオノーラは息を詰めた。
「これは上々の成果だ。だが、次からはもっと慎重を期せ」
ヴァレリウスは、一歩前に出る。エレオノーラは、壁に背中がつくのを感じた。
「アレスター侯爵は用心深い男だ。一度でも疑われれば、お前は妻であろうと容赦なく消される。俺の目の届かぬ、あの屋敷の中では、誰も君を救えん」
彼の低い声が、部屋の空気を震わせる。それは脅しであり、そして、奇妙な警告でもあった。
ヴァレリウスは、エレオノーラが被っていたフードの縁に指をかけた。そして、彼女の顔が闇に完全に隠れるよう、さらに深く引き下げる。冷たい彼の指先が、ほんの一瞬、彼女のこめかみに触れた。
「……っ」
まるで、肌に直接焼き印を押されたような、鋭い熱。エレオノーラは小さく息を呑んだ。
「お前の安全は、我々の計画の成功と直結している。軽率な行動で、全てを無に帰すな」
それは、彼女の身を案じているようにも、ただの駒を管理しているようにも聞こえた。
「次の合図があるまで、動くな」
それだけを告げると、彼は音もなく部屋の闇に溶け込み、姿を消した。
一人残されたエレオノーラは、しばらくその場から動けなかった。こめかみに残る、彼の指の感触。胸を打つ、恐怖と、そして今まで知らなかった高揚感。
最初の密約は、果たされた。
自分はもう、光の差す世界には戻れないのだと、エレオノーラは確信した。
そして、あの男がいる漆黒の闇を、恐ろしく思いながらも、どこかで待ち望んでいる自分に気づいてしまったのだった。




