第三話:悪魔との契約
あの日以来、エレオノーラの世界から色は消え失せた。
完璧な妻を演じる日々の裏で、彼女は水面下で着々と準備を進めていた。侍女たちの噂話に耳を澄ませ、夫の書斎から「誤って」持ち出された書類の写しを取り、夜会の会話を記憶する。その全てが、復讐のための武器だった。
そして、決行の日。
エレオノーラは「市街地の教会へ寄付を届ける」という、侯爵夫人として誰も疑わない口実を作った。だが、彼女を乗せた馬車が向かったのは、陽の当たる大聖堂ではなく、王宮の影にひっそりと佇む、黒鉄の門に守られた一角。
王室諜報機関本部──『王家の番犬』ヴァレリウス卿の巣だった。
通された長官執務室は、彼女が知るどんな部屋とも異なっていた。壁一面に並ぶのは書物と分厚い羊皮紙の巻物。華美な装飾は一切なく、ただ巨大な黒檀の執務机と、壁に広げられた王都の巨大な地図だけが、この部屋の主の権威を静かに示している。インクと古い紙、そして微かな革の匂いが空気に満ちていた。
「……何の御用かな、侯爵夫人」
声がして、エレオノーラは息を呑んだ。部屋の奥の影から、長身の男が姿を現す。
ヴァレリウス卿。
噂に違わぬ、鋭い眼光を持つ男だった。夜色の髪は短く刈り込まれ、その貌には一切の贅肉も、そして感情さえもないように見える。ただ、全てを見透かすような黒い瞳だけが、獲物を前にした獣のようにぎらついていた。
エレオノーラは、恐怖で震えそうになる膝を叱咤し、背筋を伸ばした。
「わたくしは、エレオノーラ・フォン・グレンヴィル。本日は、貴方様にある取引をご提案しに参りました」
「取引?」
ヴァレリウスは眉ひとつ動かさず、彼女の言葉を待つ。
「はい。……夫、アレスター侯爵の破滅を、貴方様に」
その言葉に、部屋の空気が張り詰めた。ヴァレリウスは初めて、値踏みするような視線をエレオノーラに向ける。
「面白い冗談だ。政敵である俺を陥れるための、侯爵の差し金か?」
「いいえ。わたくしは本気です」
「動機は? 夫に新しい愛人ができたことへの、女々しい嫉妬か?」
侮蔑的な言葉。しかし、エレオノーラの心は揺らがなかった。もう、涙は枯れ果てた。
「わたくしの動機が何であれ、貴方様には関係のないこと。重要なのは、わたくしがご提供する情報に、アレスターを失脚させる価値があるかどうか。それだけですわ」
彼女は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、夫の派閥に流れる不正な資金の動きを記した、不完全な帳簿の写しだった。
ヴァレリウスはそれを一瞥すると、興味なさげに机に放る。
「……なるほど。だが、なぜ俺が、最大の政敵の妻である貴女を信じなければならない?」
「信じていただく必要はありません。これは取引です。わたくしは情報を提供し、貴方様はそれをお使いになる。互いに利があるだけの関係です」
エレオノーラは、一歩も引かなかった。この男に少しでも弱みを見せれば、食い尽くされる。その覚悟が、彼女のサファイアの瞳に、昏い決意の光を宿らせていた。
沈黙が続く。
ヴァレリウスの黒い瞳が、じっとエレオノーラを射抜く。まるで、魂の奥底まで暴こうとするかのように。
やがて、彼はふっと口の端を上げた。それは、笑みと呼ぶにはあまりに冷たい形だった。
「よかろう。その取引、乗ってやる」
エレオノーラが安堵の息を吐く間もなく、彼は続けた。
「だが、これは危険なゲームだ、夫人。もし貴女の情報が偽りであったり、貴女が俺を裏切った場合……その『対価』は払って貰わねばなるまい」
ヴァレリウスはゆっくりと椅子から立ち、彼女の前まで歩み寄る。逃げ場のない執務室で、彼の影がエレオノーラを完全に覆い尽くした。
「貴女が差し出せる担保とは、一体何だ?」
彼の低い声が、すぐ耳元で響く。その吐息には、拒絶を許さない、絶対的な支配者の匂いがした。
エレオノーラは、彼の黒い瞳をまっすぐに見つめ返した。
「わたくしは、夫に未来も、誇りも、心さえも奪われました。残っているものなど、何もございません」
彼女は、自嘲気味に微笑む。
「差し出せるものがあるとすれば、この命と……破滅へ向かう、揺るぎない覚悟だけ。――それだけでは、貴方様のご満足には足りませんこと?」
その言葉を聞いたヴァレリウスの瞳に、初めて予測不能な光が宿った。
それは驚きか、感心か、あるいは、もっと別の昏い感情か。
危険な契約が、今、静かに結ばれた。
二人の間に流れる張り詰めた空気が、これから始まる背徳と復讐の物語を、雄弁に物語っていた。




