第二話:砕け散った信頼
あの日以来、エレオノーラは鏡に映る自分を、より完璧に演じるようになっていた。
夫アレスターの些細な望みを先読みして満たし、彼の言葉には従順に頷く。夜の閨では、心を殺して彼の求めるままに応じる。彼女の完璧な演技に、アレスターは満足げな様子だった。
しかし、その仮面の下で、エレオノーラの心は静かに死んでいた。あの夜に打ち込まれた氷の楔が、ゆっくりと彼女の魂を蝕んでいく。それでも、彼女は信じようとしていた。いつか、この献身が報われる日が来るかもしれない、と。
今日は、結婚記念日だった。
エレオノーラは朝から厨房に立ち、アレスターの好物である仔羊の香草焼きの準備を監督していた。ささやかでも、二人きりで祝う夕食。そのために、彼女は夫への贈り物も用意していた。彼の趣味である古代戦略論に関する、稀少な古書だ。
(この贈り物、喜んでくださるかしら……)
そんな淡い期待を胸に、彼女は夕暮れ時の夫の帰りを待った。
しかし、約束の時間を過ぎても、アレスターは食堂に現れなかった。
侍従に尋ねると、彼は書斎に来客があり、立て込んでいるという。
「お客様……? どなたがいらしているの?」
「……その、エレオノーラ様の古くからのご友人、子爵夫人が……」
侍従が口にしたのは、エレオノーラが唯一心を許す親友の名だった。こんな日に、アポイントもなしに訪ねてくるなんて。訝しく思いながらも、エレオノーラは微笑んだ。
「そう。では、わたくしからお声がけするわ。お茶の準備を」
贈り物の古書を手に、彼女は夫の書斎へと向かった。親友も一緒なら、きっと夫も喜んでくれるだろう。
書斎の重厚な扉の前まで来て、エレオノーラは足を止めた。中から、楽しげな声が漏れ聞こえてくる。夫の声、そして、親友の甘えたような笑い声。
扉にかけようとした指が、凍りついた。胸騒ぎがして、エレオノーラは息を殺し、扉に彫られた格子の隙間から、そっと中を覗き見る。
そして、彼女の世界は音を立てて崩壊した。
暖炉の光に照らされ、長椅子の上で絡み合う二つの影。夫アレスターと、信頼していた親友。乱れたドレス、肌をまさぐる夫の手、そして恍惚とした表情で夫の首に腕を回す親友の姿。
「……ああ、アレスター様……奥様は、何もご存じないの?」
「エレオノーラか? あの女は、私が時折、飴を与えてやれば喜んで籠の中にいる鳥だ。扱いやすくて便利な人形だが、心も身体も退屈でな。お前のような、刺激的な女がいてくれねば、息が詰まってしまう」
夫の嘲笑が、親友の嬌声が、毒矢のようにエレオノーラの心に突き刺さる。
信じていた。愛していると、信じようとしていた。その全てが、無惨に踏みにじられていく。
手から滑り落ちた贈り物の本が、音もなく厚い絨毯の上に転がった。
どうやって自室に戻ったのか、覚えていない。
侍女をすべて下がらせ、エレオノーラはただ、姿見の前に立ち尽くしていた。
鏡に映っているのは、完璧な侯爵夫人。穏やかな微笑みを浮かべた、美しい人形。
(……鳥……扱いやすい、人形……)
夫の言葉が、頭の中で木霊する。
信頼していた夫からの裏切り。心を許した親友からの裏切り。
彼女の世界を構成していた全てが、偽りだった。
激しい吐き気に襲われ、その場に崩れ落ちる。胃の腑からせり上がってくるのは、悲しみか、怒りか、それとも自分自身への侮蔑か。
涙は、一滴も出なかった。あまりの絶望に、感情さえも麻痺してしまったかのようだった。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
床に散らばった自身の髪に触れ、エレオノーラはゆっくりと顔を上げた。鏡に映る自分の瞳の奥に、今まで見たこともない光が宿っていることに気づく。
それは、冷たく、硬質で、昏い光。
悲しみは、とうに臨界点を超えていた。残ったのは、骨身に染みるほどの憎悪と、全てを破壊し尽くしたいという、焼け付くような衝動。
泣き寝入りなどしない。彼らに許しを乞うこともしない。
あの男が、自分を「完璧な人形」だというのなら。
ならば、完璧な人形を演じきってやろう。彼のすぐ隣で、貞淑な妻の仮面を被り続けながら、その喉元に、静かに刃を突き立ててやろう。
エレオノーラは、震える手で立ち上がった。
彼女の脳裏には、一人の男の顔が浮かんでいた。
夫が最も忌み嫌い、そして恐れている政敵。王家の血を引き、その冷徹さから「王家の番犬」と畏怖される、王室諜報機関の長官。
──ヴァレリウス卿。
復讐の駒は、揃っている。
エレオノーラは鏡の中の自分に向かって、静かに微笑んだ。それは、これから始まる長く孤独な戦いを誓う、決別の笑みだった。