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第十話:新しい夜明け

 『紅百合事件』。


 後にそう名付けられた国家反逆罪の首謀者、アレスター・フォン・グレンヴィル侯爵への判決は、迅速かつ厳格に下された。


 爵位と全財産の剥奪。そして、終身にわたり陽の光を見ることのない、王都地下牢への投獄。死よりも屈辱的な、生きたまま全てを奪われるという罰だった。


 彼の破滅は、彼が最も軽蔑していた妻、エレオノーラの証言によって決定づけられた。


 共犯者として捕らえられたエレオノーラの元親友も、家名を剥奪され、北方の修道院へと送致されたと聞く。二度と社交界に戻ることはないだろう。


 長きにわたる欺瞞と裏切りの物語は、こうして、あっけないほどの速さで幕を閉じた。


 そして、季節は一度巡った。


 エレオノーラは今、王都から遠く離れた湖畔の邸宅で、静かな日々を送っていた。


 アレスターとの離縁は正式に認められ、彼女はグレンヴィル侯爵夫人という重い枷から、ようやく解放されたのだ。王家からは多額の慰労金が与えられたが、彼女はそのほとんどを寄付し、この小さな邸宅とささやかな暮らしだけを求めた。


 春の柔らかな日差しが、テラスに置かれた椅子で本を読む彼女の横顔を照らす。高価なドレスも、重い宝飾品も、もうない。シンプルな綿のワンピースに身を包んだ彼女の表情は、侯爵夫人だった頃の完璧な微笑みとは違う、心からの穏やかさに満ちていた。


 もう、誰かの栄光を映す鏡になる必要はない。誰かのための人形を演じる必要もない。


 ただ、エレオノーラとして、風の音を聞き、花の香りを楽しむ。その、あまりに平凡な日常が、これほどまでに愛おしいものだとは知らなかった。


 穏やかな午後の静寂を、一頭の馬の蹄が破った。


 顔を上げた彼女の視線の先、湖畔の道を、一人の男がこちらへ向かってくる。黒い乗馬服に身を包んだ、見慣れた姿。


 エレオノーラは、読んでいた本をそっと閉じると、微笑んで立ち上がった。


「……息災か」


 馬から降りたヴァレリウスは、どこか照れたように言った。漆黒の制服を脱いだ彼は、諜報機関の長官というよりも、ただの無骨な一人の男に見える。


「ええ、とても。貴方様こそ、お変わりなく?」

「ああ。……今日、最後の共謀者の判決が下った。全て、終わった」


 彼の言葉に、エレオノーラは「そうですか」とだけ、静かに答えた。もう、アレスターのことも、過去のことも、彼女の心に波風を立てることはない。


 ヴァレリウスは、エレオノーラの前に立つと、その手を優しく取った。


「エレオノーラ。俺とお前の、共犯者としての契約は、これで終わりだ」


 その言葉に、彼女の心が、ちくりと痛む。


(……この方も、もうここへはいらっしゃらなくなるのね)


 寂しさを悟られぬよう、俯いた彼女に、彼は続けた。


「だから、新しい契約を結びに来た」


 驚いて顔を上げると、彼の黒い瞳が、真摯な熱を帯びて彼女を見つめていた。


「諜報機関の長官としてではない。ただのヴァレリウスという一人の男として、お前と新しい契約を結びたい」


 彼は、エレオノーラの手を、自らの胸へと導く。規則正しく、力強い鼓動が伝わってくる。


「これからの人生、俺のパートナーとして、隣にいてはくれないか。誰かのためではない、お前自身の人生を、俺と共に生きてほしい」


 エレオノーラは、言葉を失った。サファイアの瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちる。それは、悲しみや苦しみの涙ではない。生まれて初めて知った、温かい幸福の涙だった。


 彼女は、こくりと、小さく頷いた。


 それ以上、言葉は必要なかった。


 ヴァレリウスは、彼女の涙を指でそっと拭うと、その唇を優しく塞いだ。


 それは、秘密の匂いがしない、陽の光の下での口づけだった。背徳感も、焦燥感もない。ただ、深く、そして穏やかな愛情だけが、二人を満たしていく。


 もう、何かに怯える必要はない。


 完璧な仮面を被る必要もない。


 王都で最も危険な男と、夫を裏切った悪女。世間は、そう噂するのかもしれない。


 だが、そんなことは、もうどうでもよかった。


 漆黒の夜を越え、ようやく訪れた、新しい夜明け。


 かつて完璧な人形だった女性は、王家の番犬と呼ばれた男の腕の中で、不完全で、そして、かけがえのないほどの幸福を見つけたのだった。


(完)

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