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第一話:完璧な仮面夫婦

 王家主催の夜会において、アレスター侯爵夫妻の存在は、ひときわ眩い光を放っていた。


 次期宰相の最有力候補と目される夫、アレスター・フォン・グレンヴィル。人々を惹きつけてやまないカリスマ性と、鋭い知性を感じさせる美しい貌。


 そして、その隣で完璧な微笑みを浮かべる妻、エレオノーラ。絹のように艶やかな夜色の髪に、サファイアの瞳。誰からも「内助の功の鑑」と謳われる、貞淑で聡明な、非の打ち所のない貴婦人。


「侯爵、先日ご提案いただいた運河の件、陛下も大変ご興味を」

「ありがたきお言葉。すべては王国の未来のため……そして、ここにいる妻の支えがあってこそです」


 アレスターがそう言ってエレオノーラの肩を抱けば、周囲からは羨望のため息が漏れる。エレオノーラは、心得たものだ。ここで少しだけはにかみ、夫を誇らしげに見上げる。それが、彼の価値を最も高める所作だと知っているから。


 彼女の人生は、夫であるアレスターのためにあった。彼の野望を支え、彼の栄光を輝かせる。それが、グレンヴィル侯爵夫人である彼女に与えられた、唯一つの存在意義だと信じていた。


 夜会が終わり、帰りの馬車に乗り込んだ瞬間、その完璧な仮面は音もなく剥がれ落ちた。


「エレオノーラ」


 先程までの温かな声音が嘘のような、冷え切った声だった。


「財務大臣の奥方への対応、なっていないな」

「……申し訳ありません。ですが、失礼のないようにお話させていただいたつもりですわ」

「つもり、か。夫人は、東方との新しい交易路を望んでいる。そのための布石として、我が派閥の支持が欲しいと暗に示していた。お前はそれに気づき、俺へと話を繋ぐべきだった。ただ当たり障りのない会話をするだけなら、そこにいる価値はない」


 馬車の窓から差し込む月明かりが、アレスターの冷徹な横顔を照らす。エレオノーラの胸が、きゅう、と小さく痛んだ。


「お前の役割は、俺の栄光を映す鏡だ。鏡は自ら輝こうとするな。ただ、俺を完璧に映し出せばいい」


 その夜、大理石でできた壮麗な寝室は、まるで霊廟(れいびょう)のように静まり返っていた。


 夜会で使った宝飾品を侍女に外させ、薄絹のネグリジェに身を包む。寝台では、既にアレスターが彼女を待っていた。


 彼の指が、何の情緒もなくエレオノーラの肌をなぞる。それは愛撫ではなく、所有物の価値を確かめる鑑定士のそれに似ていた。


「……ん……」


 漏れた吐息に、熱はない。


 これが義務であり、侯爵夫人としての務めなのだと、エレオノーラは自身に言い聞かせる。目を閉じれば、夫の匂いも、肌の熱も、遠い世界の出来事のように感じられた。彼女はただ、完璧な妻という役割を演じる人形に徹する。


 事が終わると、アレスターはすぐに背を向けた。


「世継ぎはまだか。お前の最も重要な役目だろう」


 その言葉が、氷の楔のようにエレオノーラの心臓に打ち込まれる。


 返事はない。ただ、シーツを固く握りしめる。


 先に眠りに落ちた夫の穏やかな寝息を聞きながら、エレオノーラは月明かりに照らされた豪奢な天蓋を見上げていた。


 誰もが羨む地位。非の打ち所のない夫。完璧な幸福。


 その全てが、息もできないほど美しい、金色の檻だった。


 まだ、彼女は知らない。


 この完璧に磨き上げられた檻が、すぐそこまで迫った絶望によって、内側から砕け散る運命にあることを。

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