追伸
6畳半、抱えたままのギターの6弦が地味に音を鳴らす。
凝視していたノートもいつしかは視界からは外れてしまっていた。
東京、炎天下、曇りのない空。今日は七月の五の日。私は考えるのを放棄していた。
なんとなく入った大学での成績もまちまちで、なんとかバイトをして食い繋いでいる。惰性で続けている音楽も行き詰まっている。どうしてあんなに熱くなっていたのか、今はもう思い出せない。
夏は嫌いだ。蝉の声が煩いから。
聞くに耐えない夏の喧騒を窓で遮る。
私は何をしているのだろう。一体何に突き動かされ、何をしようとしたのだろう。
溜まった洗濯物に積み上げられた本の山、付きっぱなしのデスクトップに、午後三時半を示す時計の針。まるで怠惰の権化とも言わんばかりに気力を失った私は、何かを思い出せずにいた。
必死に生きてきた今日までも、まるで切り取られたかのように。
「きっと忘れるさ」
そう思っていたあの夏の日。もう戻ることのない、あの夏を。戻らない記憶を指でなぞる。青くて、苦しい。もう戻らない、あの続き。
追いかけられなかった、あの背中。
はっと、何かを思い出したかのように押し入れへ体を突っ込んだ。ぼんやりとした頭のまま。
ずっと、何かを探していた。いつかの誰かに、贈る言葉を。
ここへ来るときに持ってきたもの。その中に何か大切なものがあったはず。
そうありもしない希望だけを頼りに、気が付けば手を伸ばしていた。
ふと、懐かしい感触に手を止める。そこにあったのは、文字の綴られたノート。殴り書きみたいに描かれていたそれは、歌だった。少女が誰かへの恋心を歌った曲。
パラパラとページを捲る。そのひとつひとつが、私の記憶にこびりついた錆を落としていく。
そしてたどり着いたのは、まだ見えない世界。書きかけの、あの曲。
思い出した。あの日と、君の全てを。忘れてしまっていた、あの夏の日のこと。
鍵をかけるのも忘れ、無我夢中で飛び出す。三番線の電車に乗り込む。
行く宛なら、とっくのとうに決まっている。
まるで何かに急かされるように、足を動かす。あの日から会えなかったあの少女。彼女と過ごした日々を、どうして忘れてしまったのだろう。
海へ向かう列車は、いつしか暗闇の世界を走っていた。途切れない夜の街の光を抜け、いつしか世界は眠りにつく。
終点に着いた電車を降り、走る。まだ遠いけど、ここからは闇の世界。目的地へ続く列車はない。
それでも私にはあの町へ、いや、彼女の元へ行く以外に道はなかった。
暗闇の中を、ただひたすらに走る。走る。転んでも、止まらなかった。止まれなかった。
気づくと辺りは明るくなっていた。
午前七時を指すスマホの画面には、朝日が映っている。
道の途中で眠ってしまっていた。知らない間に座っていたベンチから立ち上がる。
もう知っている場所まで来ている。もうすぐそこにあるはずだ。私の生まれ育った場所。
あの夏を過ごした、あの場所が。
――
響く風の音。鳴る蝉の声。目に染みる汗と、痛いくらい眩しい日の光。聞こえない波の音を聞きながら、ただ足を動かす。
今はもう聞こえないタイヤの音も、故障した自転車で落ちたことも、何故だか懐かしく感じる。帰ってきたのだ。あの場所へ。
懐かしい校舎を横目に、坂を下る。角を曲がり、海岸線と合流する。打ち付ける波の音を聞きながら、風と暑さに揺られていた。
ふと、堤防の上に少女がいた。そんな気がした。
可愛らしい顔に大きな帽子、華奢な体にワンピースがよく似合う。そんな美少女が、そこにいた気がした。
堤防へ上る。コンクリートが熱い。彼女はいない。それでもなんとか、話す言葉を探す。
「夢、叶えられた?」
ふと、そんな声が聞こえた気がして俯いていた顔を上げる。
「まだ……かも。何も……わからなくて」
自分の中の答えも、この先に待つ答えも、探すとどこか不安になっていく。
期待もしなくなっていく自分の人生、それでも彼女がくれた希望をいつだって信じていたのかもしれない。
「あなたはもっと、自信を持つべきだよ。」
そんな言葉が、聞こえた気がした。いつか彼女が私に話したこと。
そうだよね。帰ってきて最初にこんな話、聞きたくないよね。
「こんな話じゃつまんないね。じゃあ、もっと楽しい話をしよう」
なんて言ってみる。
この言葉は、彼女に届いているだろうか。
潮風に揺られる長い髪を、真っ白なワンピースを。体温を、匂いを思い出していた。
相変わらず痛くて恥ずかしいほど青い空。
影の境界で区切られた停留所から、光を乱反射する水面を見下ろす。
この景色は、いつだってあの時の事を鮮明に思い出させる。止まっていた秒針が、少しづつ動き出すのを感じた。
立ち上がり、堤防から降りる。コンクリートの熱がまだ手に残っている。遠く離れていた彼女は、確かにいた。
まだ、行くべき場所がある。何度も彼女と出会ったあの場所。
あの日と同じように、彼女に会いに行く。待っていなくても、たとえ君がいなくても。
「ここで待ってる。いつでも。」
そんな言葉を思い出す。
分かりきってはいた。彼女はいなかった。木陰に座る彼女も、私を覗き込む彼女も、どこにも。まるで跡形もなく消えてしまった彼女に、夢であったのでは、とさえ思ってしまう。
夢ならそれで構わない。どうかもう一度思い出させてほしい。
いつもの木の下、彼女が座っていたあの場所に、未だ彼女の熱が残っている気がする。毎日のように、この木陰で話していたあの時を思い出す。
彼女の笑顔も、優しさも、全部思い出した。
そっと、地面に触れる。他の場所とは少し違う、盛り上がった部分があった。自分が何を感じ取ったかはわからない、ただ直観に従うまま、私はその土を手で掘った。
コツン、と、何かが手に当たる。それはお菓子の箱のようだった。よく見る、銀色のもの。私は蓋を開ける。失くしてしまった日々を取り戻すように。
中には紙が入っていた。
「あなたへ」
「そういえば、まだ名前も聞いていなくて。こんな書き出しになっちゃってごめんね。」
そこにあったのは、おそらく、いや、きっと彼女の文字だろう。読み進める。彼女に掛けられた、私が彼女に掛けていた鍵をひとつづつ取っていく。
「私は、重い病気にかかっていた。」
そこに合ったのは、まだ私の知らない文字だった。
「お母さんもお医者さんも治るって言ってたけど、きっともう治らないとわかってた。だから私には、生きる意味が分からなかった。このまま真っ暗な世界で終わりを待つのを、受け入れていた。お母さんが引っ越そうと言った時も、私はどうでもいいと思っていた。眺めていた海に飛び込んで、そのまま戻れなくなったらいいのに、なんて考えていた。」
「でも、そんなときにあなたに出会った。話しかけてくれたあの日のことも、その次の日のことも憶えてる。いつでも私と笑ってくれた。毎日が楽しくて、あなたのために生きたい、なんて思えた。」
「それでも、もう私の終わりは近づいていた。毎日たくさんの薬を飲んで、あなたと笑っていた。それでもだんだん苦しくなってきて、ひどくなってきて。いつか急に会えなくなるんじゃないかって、毎日怖かった。」
あの不安は、苦しみは。私だけのものじゃなかった。
「あなたともっと笑いたかった。歩きたかった。隣にいたかった。あなたの隣で、ずっと生きていたかった。」
「私は、あなたが好きだった。」
「声も、笑った顔も、ギターの音色も。そのすべてが輝いて見えて、私の人生を照らしてくれた。だから、死にたくなかった。もっと一緒にいたかった。でも、もうだめなこともわかってた。」
一文字一文字が、嫌と言うほど頭の中で響く。
苦しかった。消えゆくその文字を追いかけるのが。その先にある結末を、望みたくなかったから。
「きっとこの想いは伝えられないかもしれない。あなたはきっと、忘れてしまうかもしれない。でも、忘れたらそれでいい。あの日と私の全てを。あなたには笑っていてほしいから。
「あなたの夢が叶うように願っています。」
「こんな書き方になっちゃってごめんね。伝えたいこと、ちゃんと伝わってるかな。」
「少し照れくさいけど、これだけ言わせてね」
「愛してるよ」
ぼやける視界に溜まる水を腕で拭う。溢れ出す感情を堪え、続きを読もうとする。
炎天下、快晴の下。ずっと霧がかかっていた私の心は、青く澄み渡っていた。
悲しみも苦しみも全部受け入れて、絞り出した声を空へと届ける。
「私はまた、あの夏と出会えたよ。全部思い出した。あの日と君の全てを。忘れるなんて、んなわけないじゃん。」
そう呟く私は走り出す。
何故か、笑っていた。
波打つ海岸、いつかの様子で、裸足で飛び跳ねる君の姿が見えた。
私は、青の幻を視ていた。
「私も、君が好きだよ。愛してる。」
そして握られた手紙へ目をやる。
目に映るのは、彼女の生命。
そこに綴られていたのは、二文字と、それに続く言の葉。
「追伸、