追憶
響く風の音。鳴る蝉の声。目に染みる汗と、痛いくらい眩しい日の光。
聞こえない波の音を聞きながら、ただ足を動かす。いつも通りの午後三時。
今日は七月の五の日。未だ夕焼けは知らず。角を曲がり、海岸線と合流する私を、潮風が迎える。打ち付ける波の音を聞きながら、風と暑さに揺られていた。
眩しい青に照らされる水面を反射するアスファルト、ふと、その上に少女が見えた。可愛らしい顔に大きな帽子、華奢な体にワンピースがよく似合う。紛うことなきその美少女のような姿に、私は目を奪われてしまう。
彼女は、地平を眺めている。その奥かもしれない、ただまっすぐ、蒼の彼方を見ている。
私は自転車を止め、堤防へと上る。手に触れるコンクリートが熱い。
「あ、こんにちは……。」
「え、あ、えっと……」
できる限り自然に、笑顔で話しかけてみる。少女は突然声を掛けられ、驚いているようだった。
「え、えっと、この町の人じゃ、ないよね……?」
話す理由を咄嗟に探し、出てきた言葉を紡ぐ。
今の私にとって、彼女がこの町の人間なのかとかは二の次だ。
ただ彼女と話してみたい。そんな衝動に駆られてしまった。
「うん、えっと、昨日越してきたばっかりで」
可愛らしい声で答える。昨日。何も聞いてなかったし何も気づかなかった自分を許せない。
こんなにも可愛らしい、美しい子がこの町に越してきたのか、と少し驚く私に彼女は言葉を続ける。
「元々東京に住んでた……んですけど、学校、行けなくなっちゃって」
そう言葉を溢す。その様子はまるで、詰まった言葉を吐き出すようだった。
少し考え込んだあと、再び口を開く。
「そろそろ戻らないと。お母さんが待ってる」
でも彼女はこうして言葉を濁して、立ち去ろうとする。私はそんな彼女を引き留めることができなかった。
当然といえば当然だ。初対面で、しかもお互い何も知らない。たまたま会っただけの私のような人間に引き留められる道理など、彼女のどこにもないのだ。
「うん、またね。」
そう言ってその小さな背中を見送る。
また、なんて。またいつか会えると願ってしまっている。こんなに小さい町なら、いつかは会うことができるだろう。でももう会えないかもしれない、なんて考えが少しだけ過る。そう思ってしまうほど、私は彼女に惹かれてしまっていた。
コンクリートの重い熱が、未だ手に残っていた。
「……あ、やっと目、覚めた?」
目を覚ますと、あの少女がいた。一体この状況は何なのかと、辺りを見渡してみる。
忘れてしまっていた記憶を掘り起こす。あれから彼女のことでいっぱいになってしまったような脳内から、何とか正常な記憶を呼び戻す。
今日は七月の六の日。たしか帰り道、自転車のブレーキが故障して。
「畑に倒れてたんだよ?心配しちゃって」
風を切る感覚を思い出していた私の顔を覗き込んで、木陰に座る彼女はそう言った。
「あ……そうなんだ、ありがとう、ごめんね、心配かけちゃって……」
慌てて飛び起き、止めてある自転車に目をやる。使い古されたそれはあらぬ方向に曲がり、事切れていた。
「ブレーキ、壊れちゃったみたいで……はは……」
彼女を見ながら、苦し紛れに笑ってみせる。まだ買ってからそんなに経ってなかったんだけどな。
この自転車ともお別れか、と惜しみながら言葉を漏らし、少し痛む足で無理に立とうとする。
「痛っ」
「大丈夫?まだ少し休んだほうが良いよ。」
そう彼女に言われ、再び座り込む。ここは言う通りにした方が良さそうだ。
「いやー、なんかごめんね……。」
気まずい。何か話さなければ。
「えっと……あなたは、高校生?」
そう思っていた矢先、先に切り出したのは少女の方だった。
「え……、あ、うん。そこの坂からずっと上に行ったとこ。」
何か、もっと言えることはないだろうか。
そういえばこの子、東京から来たと言っていた。そう思い、慌てて付け足す。
「教室から海、見えるんだよ。」
都会じゃあきっとこんな学校は存在しないだろう、と自慢げになりながら話す。
小さい頃からずっとここに住んでいる私にとっては当たり前の景色だが、彼女からすれば非日常なのだろう。そして彼女の「日常」もまた、私にとっての非日常。
東京の、都会の学校の教室から見える景色は全く知らない世界だ。見知らぬ景色にいつしか思いを馳せてしまう。
「いいなぁ……」
目を輝かせる少女。その目の光を絶やさんとばかりに質問を続ける。
「ね、学校、楽しい?もっと聞かせてほしい、学校のこと。」
そうしてしばらくの間、私は彼女と話した。どういう授業を受けているのかとか、何の部活に入っているのかとか。と言っても私は部活には入っていないが。
「……部活に入ってたら帰りが遅くなるだろうし、私と出会えなかったかもね。」
なんて彼女が冗談めかして笑う。あまりにも眩しいその笑顔に、思わず私も目を細める。
気づいた時には、この時間が続けばいいのに、なんてことを考えてしまっていた。
そんな私をスマホの通知が現実へと引き戻す。液晶に映る時計を見て、早すぎる時間の経過を認識した。
私は慌ててスカートについた砂を落としながら立ち上がる。
「この後時間ある?お礼、したくて」
「お礼?」
「うん、助けてくれたから。ちょっと着いてきて。」
そうして向かったのは近くの売店、冷凍庫が冷たくて気持ちいい。ずっと手を突っ込んでいたくなる。
2つに分けられるタイプの棒状のアイスを買い、2つに割った。力を込めた手に伝わるひんやりと伝わる温度は、上がり切った心の温度さえも冷ます。
見たこともない景色に戸惑っているのか、店の前でただ立ち尽くす少女にその片割れを手渡した。
「はい、どうぞ。」
「あ、ありがとう……」
暑さも涼しさも、この小さな氷の粒の冷たささえ、2人で分かち合った。
「暑いね。」なんて、風を送り合う。ふたりぼっちで、笑い合いながら。
「全然涼しくないね」と言って手を止めた彼女の顔が、何故だか頭から離れない。
夏の隅の木陰、昨日出会ったばかりの私たちは、まるでもう親しい友人かのように笑いあっていた。
ふと、私は彼女に、帰らないのか訪ねる。
「うん、きっと大丈夫。お母さんは優しいから。」
どこか寂しそうな彼女に、私は続けて聞いてしまう。その言葉はたぶん紡がない方が良かったのだと、口にした後に気付いてしまった。
「どうして、学校に行けなかったの?」
その瞬間、黙り込んでしまう彼女。何か思いつめたような、曇った表情だ。言葉はもうそこまで来ているのか、それでも彼女はそれを抑え込んで答える。
「それは……ごめん、うまく、言えなくて……」
なんとなく知ってはいけないような、自分も傷を負いそうな、そんな気がした。
「……そっか、ごめんね。急にこんなこと聞いて」慌てて謝る。
突如現れる静寂。無言の間を経て、彼女が口を開く。
「あなたはさ、今、楽しい?幸せ?」
突然そんなことを聞かれ、戸惑ってしまう。
よく考えてみればわからない。普通の家庭に生まれ、普通に暮らしている。それは紛れもなく幸せなんだとは思う。でも、心の中では納得していないというか、私は自分の人生に満足していない。恐らく正解はない。
幸せという定義されていない事に関して、自分がそうである、そうでないと言える根拠はどこにもない。ただ、今の私を定義できるとするなら、言える答えは。
「うん、私は幸せ、だよ。」
なんて、根拠も理由もない曖昧な返答をする。
「……そっか。」と少女は俯く。
少しの間、少女は俯いたまま何も言わなかった。でもそれは、ただ黙っているわけじゃない。きっとなにか、思うことがあるのだろう。少女は俯いたまま続ける。
「あなたはさ、死ぬことって、考えたこととかある?死んだらどうなるのかな、とか」
考えたこともなかった。いや、正確に言えば少しは考えたことがある。でもそれは少し疑問に思っただけで、深く考えたことはない。
「……私ね、死ぬのが怖いの。今の幸せな人生が終わってしまう、って。」
彼女は苦しそうに笑う。きっと無理をしている。
何か、大きなものを背負っているんじゃないかと、そんな考えが頭を過ぎる。それはきっと、彼女の小さな背中にはとても大きすぎるものなのだろう。
それでも私は、きっと私は、そのすべてを否定したかった。何故彼女が急にこんな話をし出したのか、私にはわからないのに。
「もう、帰らないと。」
曇った表情のまま立ち上がる彼女に、どこにあるのかもわからない、彼女の心に抗うように言った。
「また、会おうね」
「うん、ここで待ってる。いつでも。」
遠くから見てもわかるような、目立った大きな木の下。木陰。
日の光に照らされる彼女の背中を見送る。何を背負っているのか、わたしにはわからない。それでも、わかってあげたい。そんな無責任で勝手なことを願う。
とても黒く、深く、悲しい何かがそのの奥に見えた気がした。まだ青い空を見上げる。
鞄の中の書類を思い出す。進路希望調査。
「あぁもう!」
葛藤が入り混じった私の心は日に照らされ、今にも私ごと溶けてしまいそうだった。
その夜、夢を見た。暗くて深く、恐ろしい夢。細かくは覚えていなかった。それでも何故だか、とても恐ろしかった。目を覚ましたその時、私はもうあの少女には会えないのではないかと思ってしまった。
午前四時半、きっとそういう夢だったのだろう、と行方不明の自分の記憶を決めつける。目も覚めてしまったし、二度寝するには微妙な時間だ。私は着替え、ドアを開ける。きっと両親はまだ寝ているだろう、気づかないだろうと思い、外へ出る。
まだ淡い朝焼けに照らされる地平線を眺める。まだ覚めない町の空気は、いつもよりも少し冷たい気がした。
「……進路……ね」
零れ落ちるように、不安を含んだ言葉が口に出る。ずっと目指していた道に、疑念が生じている。本当にその道でいいのか。そこへ進んだとして、私はどうするのか。わかりもしない未来のことを思い浮かべては憂う。
「私……なにしたいんだろ」
そんな私の目を覚ますように誰かが言う。
「おはよ。あなたもここ、来てたんだ」
「うわぁっ!?」
びっくりして飛び上がりそうになる。
「ごめんね、驚かせちゃった?」
そこには、あの少女がいた。独り言を聞かれていないか、そもそもこんなところで会えるのか、なんて色々なことが頭の中を飛び交う。そんな私の脳内交通網を切り裂くように言う。
「朝早くの海、綺麗だろうなって思って。来ちゃった。まさかあなたがいるなんて思わなかったけど。」
こちらこそ、だ。あれからというもの、よく彼女と会っていたが、まさかこんな場所でも会うとは思わなかった。
「……何か、悩んでる?」
やっぱり、聞かれていたのか。悩み、といえばいくらでもあるが、
「進路……だよね……」
やっぱり聞かれていた。
「……うん……私、今の進路で本当にいいのかな……って……」
なんて、言葉を漏らしてみる。ただ思い浮かぶまま連ねた言葉も、きっと消えていくのだろう。まだ中学生の彼女にこんな話をしたところで、わかってくれるのだろうか。
「……あなたはさ、本当は何がしたいの?」
本当は。
「あなたはさ、何が好き?やっぱり音楽?よく話してるもんね」
本当に好きなこと。確かに私は音楽が好きだ。前に彼女と話した。でもそれは決してレベルの高いものではなく、趣味のレベルであって。
「夢、ないの?」
そんなことを聞かれる。
「あなたはギターが弾けるし、作曲家?歌手かな?」
なんて話を膨らませる。やめて。私に、今の私にそこまでの才能なんて。
「あなたが聞かせてくれたあの歌、良かったよ。」
私の思考という連なった紙を切るかのように遮る。
そういえば彼女に聞かせた、夏の恋心を歌った曲。咲く花とその記憶が、鮮明に思い出された。
「あの曲、あなたが作ったの?」
「そ、そうだけど、全然レベル高くないし」
そう返す私の言葉に被さるように、食い気味に彼女は言う。
「じゃあきっと、あなたはすごい作曲家さんになれるね。」
夢か、と言われれば判断ができない。確かに、音楽を仕事にできれば、みんなに私の曲を聞いてもらえればそれは嬉しい事だ。でもそれは、私にとってそれは夢なのだろうか。
どこか遠すぎて手を伸ばせずにいるそれは、朝焼けの奥に映る、夜空の星にも似ている。
手を伸ばしても届かない。そんなもの。きっと、夢なんてものじゃない。
もっと遠くにあって、もっと……。
「あなたなら、夢を叶えられる。」
何か詰まったような表情で彼女は声を絞り出す。
「私の」
そのか細い声は、波の音にさらわれてしまう。もう戻ってこないような、刹那の音を、私は聞けなかった。きっとこれは、もう聞けないのだと、そう心が言っていた。
「……やっぱり、なんでもない。」
「そっか。」
聞いちゃいけない気がした。聞いてしまったら、私は戻れなくなってしまう。でも、私は何かを彼女にもらった気がする。きっと届かなくても、いつかは手が届くのだろうか。そう淡い希望が胸に、いつのまにか灯った気がした。願ったものは夢じゃない、叶えるものなんだと、教えてくれた気がした。
「……私ね、夢がいっぱいあるの」
彼女が言う。
「じゃあ、叶えないとね。」
「……うん。」
そう答える彼女の目には、どこか悲しさが滲んでいた。
その奥の心根と目を合わせないように、私はそっと目を閉じた。
――
「あははっ、冷たいよ」
青く光る水飛沫に笑みを溢す彼女を見つめる、波の最中。潮風に揺られる木々の葉が遠くで揺れる。脚が膝まで浸かりそうな塩水は、やがて夏の温度を攫う。
海に入りたい、なんて言い出したのは少女のほうだった。理由はわからないが、目が輝いていた。
きっと今まで経験がなかったのだろうと割り切るが、それでも振り切れないのはほんの少しの不安だった。そんな気持ちも日に焼かれ昇華してしまいそうなほど、日差しに灼かれるようだった。
「……どうしたの?」
覗き込む少女の目は、まっすぐ私を見る。その水晶体に、網膜に。彼女の世界には、きっと私だけが写っているのだと、今、感じた。
「ううん、大丈夫。」
私も同じ。私には彼女しか映っていない。今も、明日も。まっすぐに少女を見つめて、そう答えた。
「私、海って入ったことなくて」
少し俯く少女がそう言う。
「だから、あなたと来られてよかった。こんなに冷たくて気持ちいいなんて知らなかった。」
海に入ったことがないなんて、都会の子はみんなこうなのだろうか。無邪気に笑う彼女はどこか、いつもの落ち着いた彼女とは違う気がした。
「海がしょっぱいって、本当なのかな」
そう言って手で海水をすくい上げる彼女は、それを不思議そうな顔で見つめる。
「あ、そんなに口に入れたら」
それを口に含んだ途端、思わず口の中の物を吐き出してしまう。
「うぇっ、こんなにしょっぱいの!?」
「だから言ったのに。」
口の中に残る塩の味が容易に想像できる。喉の焼けるようなあの最悪の後味。
「うええ、口の中がしょっぱい……」
どこか儚い空気を纏っていた彼女の今まで見たこともないような無邪気な姿に、どこか愛しさを感じる。
「もう、ほら。一旦戻って水飲む?」
「うん……」
水の滴る細い腕を引く。思えば、彼女に触れたのは初めてだった。
真っ白で病的なほど細く、か弱い腕。静かにその腕を見つめる私は、何かを振り払うようにそのまま砂浜へ向かった。
ガコン、と音を立てる透き通った水の入ったボトルを手に取る。まだ明るい日差しはまるで人々を外から追い出すようだ。ひんやりと冷たいそれを少女に渡す。
「ん、ありがと。」
何台か側を軽トラが通り過ぎる。
「あれ、何かな。」
その行く先を指さす少女。
「ああ、あれはお祭りの準備かな。」
「お祭り……聞いたことある。」
「うん、今度花火大会があるの。」
花火大会。この時期になると必ずやる、お決まりのイベントだ。
「花火って……あの、空で爆発する……?」
「あ……花火、知らない……?」
「あ、いや、知らなくはないけど……ずっと、遠くから見るしかできなかったから……」
瞳の奥が輝いている。期待の眼差しだ。
「じゃあ、近くで見たことはないんだ。」
「うん。」
東京は、遠くから花火を見るのだろうか。いや、そもそもあのビルだらけの場所に花火を打上げる場所があるのか?全く想像がつかない。
やはりきっと、私の知っている世界とは違うのだろう。そう割り切ることにした。
「ね、一緒に行こうね。花火、見てみたい。」
期待の目を向けてくる。きっと、こっちに来てから色々な知らないものに出会ってきたのだろう。
私はそのすべての瞬間を、彼女と共有している。
「うん、行こうね。一緒に。」
それはまるで甘い呪いのように。振り返ればそこには少女がいた。気付けばいつも傍にいた。共に時を過ごしていくうちに、彼女は私にとって特別な存在となったのだと、そんな気がした。
「またね。」
と別れの言葉を交わすのも、何度も出会うのも。その全てが鮮明に、色濃く脳に焼き付く。
「星が綺麗に見えるね。」
口を開けたまま、少女は夜空から目を離さない。この瞬間だけでも私が彼女の世界にいない、なんて、少し夜空に嫉妬してしまいそうになる。
「こんな星空、見たことないよ……すごく、綺麗。」
そういえば聞いたことがある。なんでも、都会は街明かりが強すぎて夜空の星が見えないらしい。
これが本物なのだと、必死に目に焼き付けるようだった。
いつもの木陰、陽が無くともその視界は色付いていた。
何も無い、誰にも邪魔されない。私たちだけの、からっぽの月夜の下。
いつかの日に星空を見上げたその時も、私は彼女を鮮やかに描いていた。重なる手の温度を確かめながら。か弱く、白く。それでも確かに熱を帯びていた。
その煌めく横顔を見る度、どうしてか私の胸は締め付けられていた。涙が出そうなほどに呑まれていた。
私は、この気持ちに名前を付けられなかった。
――
昼下がりの坂道、力いっぱいにペダルを漕ぐ。いつも通りのあの道。いつものように彼女が待っているあの木の下へと向かう。
「ね、あのね。さっき、すごいところ見つけて。」
開口一番に彼女は目を輝かせながら言う。
「ついてきて!」
妙に高まったテンションの彼女の後を追いかけて着いたのは、一面に広がる向日葵畑。黄色く広がるその花たちは、一斉に太陽の方を向いている。
青空を反射するかのような花たちは青く輝くようだった。青い向日葵、本当にあるのか、私にはわからない。ただ、彼女に似合うだろうなと、そんな幻想を抱くだけだった。
「ここ、見つけたの?」
そう彼女に聞く。
「うん、朝にね、家から遠くに見えたの」
そう自慢げに話し、背の高い向日葵に隠れるように彼女は走り回る。ぜぇぜぇと息を荒くしながらも、彼女は私に笑いかける。彼女がこんなに動き回っているのは見たことがない。
きっと、こんな景色も見たことがないのだろう。少し苦しそうにする彼女を心配しながらも、その笑顔を見て私は確信を持った。と、いうよりも、自分に正直になる覚悟ができた。
向日葵の森を抜け日が照りつける道へと出る。汗で輝く彼女にタオルを渡し、持ってきたスポーツドリンクを渡す。
「……ありがと、いいの?」
もともと自分のために持ってきたが、あまりに汗をかきすぎている彼女が心配になってしまった。
「うん。もちろん。」
水滴が滴るペットボトルの口を捻る。半透明を覗いた先で、夏と目が合った気がした。
私はその風に乗せられるまま、気付けば心の内を口にしていた。
「あのね。やっぱり音楽、やってみようと思う。」
その私の言葉に、彼女は嬉しそうに言う。
「……そっか、よかった。またあなたの曲、聞かせてね。沢山。」
優しく微笑む彼女の顔に、決心がついてよかった、と思える。
いつか、もっとたくさん聞かせてあげたいな、なんて。それは自分ではなく彼女のためなのだが。
それでも喜んでくれる人がいるというのは嬉しいもので、それが続ける理由になってくれたのだ。
「うん、君は私のファン、第一号だからね。」
「なにそれ、ふふ。」
なんて彼女が笑い出す。
決心して少し晴れが差し掛かった心、そこにはまだ何かがあった。
私はそれを見ようとはせず、閉じ込めておくことにした。
きっといつか、失くしてしまうように。そう願った。それが良いのだと知った。
向日葵の葉を伝う水滴が地面に落ちる。日に照らされたそれは輝き、私たちを見つめる。未だ乾ききらない昨日の雨が、空気を少し湿らせる。
まるで晴れ切らない私の心みたいだ、なんて考えてしまう。
天気と心がリンクする、というような小説をどこかで読んだ気がする。世界はそういうものなのだろうか。誰かを中心に回っているのだろうか。動き続ける空、真っ白く静止した入道雲を眺める。
きっと、世界は自然に回り続ける。時は残酷に、平等に私たちを取り巻く。それでも、少なくとも私の世界は違った。彼女という特別な存在が真ん中に置かれている。ただその中に、私だけが生きているのだ。
強く手を握る彼女をどこまでも追いかける。土を踏みしめる足が沈み込むのを引き上げるように、少し軽くなった足取りで。それでも、小さな背中は私を不安にさせる。
彼女を失いたくないと、願ってしまっていた。
それは微かに、失ってしまうと思っているから。
私はそれが、怖くて仕方なかった。でも、この不安はどうすることもできない。
だからせめて、終わるそのときまで少女の傍にいたいと思う。
離さないように、その手を強く握る。
その温度は、微笑んだ彼女の顔を見て確かなものとなった。
どうかこのままでいさせてと、そう願いながら。汗の滲む手の境界線を引いた。
――
カレンダーが一枚消え、夏休みに入った。例年よりも暑い世界に、まだ夏休みじゃなかったのか、なんて疑問さえ浮かんでしまう。
ギターを抱え、ノートを凝視する。新しい歌を。彼女への歌を。また聞かせてあげたい。それは、今の私の"夢"だった。ど
うして夢、なんて遠い存在に考えてしまうのか、私には理解できなかった。
大学の入試案内が広がる机、まだ共通テスト対策には入っていないらしい。
音楽を続ける、と決めたはいいもののただ惰性で続けるようになってしまっては困るし、最低限の学歴は欲しい。なので適当に、文学部で絞り込んだ。
ただ、あらゆる学問の中で一番向いていると感じたのが文学だったというだけの話だ。作詞などにも繋げられるかもしれないし、と自分を納得させるまでに、そう時間はかからなかった。
蒸し暑い部屋の中、こうしてギターを抱えている間だけ、私は生き返る。まるでこれが生命維持装置であるように。
彼女は毎日、笑顔を絶やさなかった。でもその度に、あの時の疑念が脳裏を過ぎる。考えすぎだろうか。
ありもしない結末を、未来を頭の片隅に置き、忘れようとしていた。でも忘れちゃいけない気がして、忘れられずにいる。
それを振り払おうと、私は必死に頭を動かした。手を動かした。何も考えずに、ただひたすらに。言葉を綴った。想いを綴った。
それが届くはずないなんて、恐ろしくて考えたくなかった。
花火大会の日、少女はまたあの向日葵畑に行きたいと言い出した。
太陽の宗教。今日もまた花たちの讃歌が聞こえる。そんな情景をも無視して、彼女は畑の奥、森の中へと足を運ぶ。時刻はもう七時が近い。
「ねえ、そろそろ戻ったほうがいいんじゃない?」
そう聞く私に、彼女は何も答えない。おかしい。何かが。まるでいつもの彼女じゃない。
「ねぇ、大丈夫?」
そんな私の声も無視して、彼女は歩く。
まるで、私を引き離すように。
嫌だ。行かないで。私を置いていかないで。
そんな叫びが喉のすぐそこまで迫っていた。
まるで彼女に縋るように、私はひたすら彼女に着いていく。
薄暗い木々の隙間を縫うように、その背中を追いかけた。
そしてやがて視界は開ける。その先には空が見えていた。相も変わらず、星明かりが照らしている。
そんな星々を、闇を照らすように、大きな花が咲いた。
その重い音は私の心を震わせる。熱い温度さえも伝わってくる。
「花火……。」
開けた神社、山の上のそこは、花火を見るのに絶好の場所だった。空に映るその花は、まるで私たちに用意されたように咲く。
「もしかして、これを知ってて。」
「ここなら花火、よく見えそうだな、って」
微笑む彼女が答える。一緒に視界に収めたいと、そう願ってくれたのだろうか。
赤、緑、紫とカラフルに彩られるその空は、まるで夢のような景色で。彼女と見るそれはいつも眺めていたものとは違う、鮮やかな色で世界を彩っていた。
花に見惚れるその横顔が美しくて、何故だか緊張してしまう。
「綺麗……。」
そう声を漏らす彼女に応える。
「うん。すごく綺麗。」
その言葉は花火よりも彼女に向けたものだった。
ヒュー、と音を立てて光が空へと上がる。きっと大きい花火だ。
空が光り、また花が咲く。その一瞬、世界が色付く。
薄暗く響く爆発音も、するはずのない火薬の匂いも。すぐそばの、彼女との距離に色を付けた。
握られた手は強く、そして優しく包み込む。この時間がずっと続けばいいのに、そう願った。
それは淡く、希薄な夢だった。
行く当てのないその夢を、忘れてしまわないように。私はそれを永遠にしようとした。
その瞬間、奪われる唇。感じたことのない感触、でも確かに何かわかる感触。
閉じた目を見開いたその前には、他の誰でもない、彼女がいた。
「え、あ、」
身体が動かない。動けない。
どっ、どっ、どっ、と。心臓が大きく動く。
胸が苦しい。息が震える。
破裂音すら掻き消してしまうほど、鼓動がうるさく鳴り響く。
目の前のその少女は、顔を赤らめて視線を逸らす。そうして私の手を強く引き、山をどんどんと降りていった。ただ離れないように、その手を握る。それだけが精一杯。
突然の出来事に、私は何も考えられずにいる。
本当に一瞬の、刹那の出来事だった。でもそれは確かにあった。
心臓の音が鳴り止まない。苦しいくらいに、私の中で暴れる。
火花の残り香の下、たくさんの屋台が夜の中で煌めいていた。
花火はもう上がらないのか、空に花は咲かなかった。
灯るたくさんの光、照らされる闇の中、そっと私を見つめる。その顔は美しくて、儚くて。涙混じりに綴られた言葉も、掠れて消えてしまいそうで。
「もう、行かなきゃ。」
いやだ、行かないで。
声は出なかった。
その手が離れる。距離が、震えていた。
「いつか、あなたが大人になっても。」
「忘れないで。」
言葉を遺して、どうしてか彼女は走り去ってしまう。
きっと追いつけたのに、追いかけられなかった。
追いかけちゃいけないって、どこかわかっていたのかもしれない。
こんなに急なお別れが、最後のお別れになるなんて、
考えもしなかったし、考えたくもなかった。