3 ラース、屈辱を味わう
カピバラは他人の目など気にしない。
ラースはそう考えていた。だが、先程温泉に浸かっているとき、少年のぶしつけな眼差しについ苛立ちを覚えてしまった。
そして、無礼だなどと感じた自分に戸惑った。
まだラースは完全にカピバラになりきれていないのだ。
もっとも、すべてを忘れてカピバラになり果てることは、グーに固く禁じられているのだが。
とぼとぼと屋敷に戻ったラースが廊下を歩いていた時、外から、ガラスが割れるような音が聞こえた。
結界が――砕けた。
思いもよらぬ事態にラースは一瞬その場で固まり、すぐに外へ飛び出した。
何が起こったのか、確認しなくては!
屋敷の前では、先程見かけた少年が呆然と立ち尽くしていた。
彼が結界を壊したのか?
それにしては攻め入ってくる様子もないし、しでかしたことの大きさを理解したふうでもない。
問い詰めるのはあとだ。
屋敷の周りには、魔獣が集まりつつあった。この魔獣も彼が連れてきたのか?
いや、誰のせいでも関係ない。邪魔になれば片付けるだけだ。
それよりも早くグーの元へ行かなくては。
グーのは多少苦労しているようだ。邪神の騒ぐ声がここまで聞こえた。
ラースは屋敷に駆け戻る。
ところが、グーの研究室に飛び込む寸前、思いがけず制止された。
「ラース、来てはならん!」
「キュプ!」
「いや、勘違いするな。その姿ではダメだと言っておるんじゃ」
「キュキュウ(どういうことだ)」
「今、呪われた姿で近づけば邪神が勢いづく。せめて人間の姿になるんじゃ!」
「グググ(な、なんだって!)」
「ラースよ、おぬしまさか自分の姿を忘れたわけではあるまいな」
そんなことはない。
ラースが完全にカピバラになってしまえば、邪神の封印が解けてしまうとグーは言うのだ。
それに、剣の腕も落としたくない。
ラースはとっくに呪いを制御できるようになっていた。
そして夜な夜なこっそり人の姿になっては、修行を積んでいた。
「キュウウ(だが、今は人がいるし……)」
「こんな時に人見知りか!」
グググと一声うなった後、ラースはしぶしぶ人の姿をとった。ちょうどその瞬間、「大丈夫ですか!」と叫びながら、あの少年が部屋に入ってきた。
しかも、やたらとジロジロみられている気がする。
「なんという屈辱、人前でこの姿をさらすなどと……」
小声のつぶやきを拾って、グーは「もともと人間のはずじゃろうが」などと呆れている。だがそうではない。カピバラとして生きると決めたからには、他人に正体を明かすなどと敗北も同義とラースは感じているのだ。
だが、不満を顔に出すのも不面目である。
と言っても本人が思うほどには、ラースの表情筋は仕事をしていなかった。カピバラとして長く過ごしすぎた弊害もあるが、顔色を読まれるのをよしとしない王族としての育ちのせいでもある。
それはともかく、気を取り直そうとラースが軽く目をつぶった瞬間。グーが呆れて気を抜いたその瞬間に――。
邪神がするりと瓶から抜け出した。
ラースが気づいたときには、邪神は一直線に少年へと向かっていた。
「しまった!」
慌てて追いかけるが、――邪神の方が早い!
このままでは少年が邪神に食われてしまう。
ラースは息を飲んだ。
と、その時、邪神は急に気を変えたようにひゅんと瓶に戻った。
「ん?」
「んん?」
ラースもグーも首を傾げた。少年だけが事態を把握できずに叫び声をあげた。
「い、今のはなんだ! その邪悪な奴は俺に何をしたんだ! それに、あんたたちはいったいなんなんだよっ」
見たところ全くの無傷だ。
そのことは、逆にラースを警戒させた。
「そなたこそいったい何をした? ここは私の住まいだ。結界を破り、ずかずかやってきた闖入者はそちらではないか。名前と所属、訪問の目的を聞かせてもらおう」
「結界ってまさかアレか? 確かに変な音がして、急にこの屋敷が現れたけど、俺は何もしてない! ただ、剣を振っただけで」
「剣を振っただけだと?」
それでなぜ結界が壊れるんだ。あれは、かなり強固なものだぞ。
ラースは内心首を傾げた。
引きこもり始めたころ兄が何度かやってきて、兵士に一通り試させていたし、魔導師を何人も連れてきて魔法弾を放つよう命じたりもした。当然、傷一つつかなかった。
「とうてい信じられないが……」
目の前でオロオロする少年が、噓を言っているようにも見えないのだ。
「本当だって! 嫌な気配がしたから神に祈りをささげて、――ただの邪気払いのつもりだった! そんな簡単に壊れるなんて」
「普通は壊れんじゃろうな」
あっけらかんとした口調でグーが言う。
「じゃが、おぬしは神聖力の使い手じゃな? おぬしの力がマナの流れを正したのじゃ」
「神聖力?」
「そうじゃ。屋敷を覆う結界は、封印対象の力を逆用して成立させたものじゃった。聖女や聖者ほどの使い手が現れない限り安泰じゃと踏んでおったのじゃがのう……」
グーは興味深そうに、少年の姿を眺めまわしている。邪神を封じた瓶を手にしていなければ、今頃ずいずいと近づいてあちこち触っていたに違いない。
だが、少年の方は困惑していた。
笑いをこらえるような半端な表情でつぶやいた。
「はあ? 聖女? 聖者??」
ラースも改めて、少年を観察したが、やはりそんなたいそうなものには見えなかった。
額が見えるほど短く切った金髪に、澄んだ青い瞳。身に着けているのは白地に金の装飾が施された簡易鎧だ。
敬語交じりの妙なしゃべり方といい、大げさなそぶりといい、洗練されているとはいいがたい。
いかにも体力自慢の無鉄砲といった感じだ。
だが、ひとつわかったことがある。
「そなた、魔獣の血を浴びたな? そのせいで邪神も見誤ったのだろう」
「どちらにせよ、邪神をどうにかするのが先じゃな! 落ち着いて話しもできん。すまんがおぬし、そこに甕が転がってるじゃろう。それにマナを詰めるのじゃ」
「は? 何をしろって?」
「そうじゃのう、とりあえず神にでも祈ってみるんじゃな」
「とりあえず祈るって……罰当たりだな」
文句を言いつつも、少年は善神に祈りを捧げた。
甕に満ちたマナは、なるほど確かに見たことのない種類のものだった。興味はあったが、グーは邪神の瓶をひょいとその中に入れると、さっさと蓋をしてしまった。
グーはホッとした様子で長いため息をついた。余裕があるように見えたグーも、実はギリギリだったのだ。
もちろん、グーが恐れたのは酒の品質管理が行き届かなくなること、だったのであろうが。