5 ラース、火口へ向かう
月夜だ。
ラースとユイハルは予定通り火山へ向かい、温泉を探し当てた。
噴煙をたなびかせる火山と月を眺めながる一匹のカピバラ。景色としては最上なのではないか。
ラースはのんびりと湯を堪能する。いつまでもこうしていたい。
ユイハルはもう寝ている。
もう少しだけ……そう思った矢先、あたりに不穏な気配が満ちた。
「邪神か……!」
ラースは湯から飛び出し、体をぶるりと震わ水を払うと、すぐに人間の姿になって駆け出した。
そして、驚くべき光景を目の当たりにする。
『……ユイハル、悔しくはないか……我を求めよ……』
ユイハルの胸元から、邪神入りの瓶が這い出し、彼を誘惑していた。
そしてユイハルは苦悶の表情を浮かべ、
「はいはい。うるさいうるさい。わかったから寝ろ!」
邪神を相手に添い寝をしていた。
「よいこよねむれ~ねむれ~フィデーアさまも見ているよ~」
『我は邪神だぞ! 子守唄なんて歌うんじゃない』
抵抗していた邪神のろれつが次第に怪しくなり、寝息を立て始めた。
邪神って、寝るのか……。
衝撃を受けて立ち尽くすラースに気づいてユイハルが手招きした。
「ラースも眠れないのか? ぽんぽんしてやるからこっちに来い」
ユイハルも、どうやら寝ぼけているらしい。
「ぽんぽん!」
ラーズは水を払うときのように全身で震えて、慌てて自分の寝床に戻った。
枝と葉で作った、夜露がしのげる程度の簡単な巣だが、ユイハルの傍よりは安心だ。
グーはこのこと、知っていたのか?
ユイハルときたら、本当に邪神を寝かしつけている。
「毎晩よちよちねんねとしてやるとよいじゃろう」
グーのあの言葉は、冗談じゃなかったのか!
カピバラとなって百年。こんなに動揺したことはなかった。
ああ、なんて夜だ……。
結局、そのあとは一睡もできなかった。
翌朝、ラースは疲れの残る顔で山を登っていた。
「なんだよ、眠れなかったのか」
ユイハルは昨夜のことは覚えていないのか、いつも通りだ。
そのため、ラースは無理やり記憶を追い出した。
「気にするな。それより石を探してくれ。なるべくマナのしみ込んだものがいい」
「マナのしみ込んだ石?」
「自然界にあるものでも、長い年月をかけて霊物となるものがある。枯れた枝、動物の角、石が変化したものだ。霊花や霊木として現れることもあるが――それらはとても希少なものだ。その中でも石は比較的見つけやすい」
「へえ、霊物……。グーの部屋にあったようなヤツか?」
「そうだ。あれはもう邪神に汚染されて使い物にならないがな。どうした、難しいか? マナを巡らせて反応するものを探すんだ」
「……やってみる」
「では、この辺りにいろ。私は火口へ行ってくる」
「は!? 危ないだろ!」
「噴火しているわけでもないし、問題ない。魔法で何とか出来る範囲だ」
「何しに行くんだよ、火口の方が純度の高い石が拾えるっていうなら、俺も近くまで行く!」
「いや、火山燕の営巣地がまだあるか見に行くんだ。可能なら古い巣も採取してくる」
「ツバメ? いや、いないだろそんなところに」
「魔法を使うのは人間だけだと思うのか? 世界はもっと面白いぞ」
ユイハルはピンとこないのか、腑抜けた顔でぽかんとしている。
ラースにとって、学ぶことは楽しいことなのだが、ユイハルは違うのだろうか。
だが、ここで話しこんでいるのも間抜けだ。
「行ってくる」
ラースはそう言って、駆け出した。
山頂付近まで来たとき、ラースはあたりに漂う毒ガスに気が付き、ふわりと風を起こして通り道を作った。
火口を覗き込むと、空よりも青い湖が見えた。噴気孔から煙が出ているものの、予想通り危険度は低い。
火山燕もすいすいと空を渡っている。
すり鉢状に抉れた火口の、とりわけ険しい崖に火山燕の巣がある。
巣は庇のように張り出した場所に、張り付くように作られている。そのため、採集は困難を極める。
――普通なら。
ラースはマナを体に巡らせ、安定した動作で崖を降り、巣のありそうなあたりに検討をつけると、また登る。
いくつか中を覗いて、持ち主のいない古い巣を選ぶと、ナイフを取り出し慎重に削り取った。
火山燕の巣は、火山のマナがたっぷり詰まった泥でできている。これもまた、ある種の霊物なのだ。うまく加工すれば邪神封印の一助になるだろう。
ラースは加工のふちに腰かけ、しばし景色を楽しんだ。
有毒ガスにさえ気を付ければ、美しい光景だった。
「これなら、ユイハルを連れてきても良かったかもしれないな……」
呟いて、ラースは荒涼とした山肌を降りていく。
すると、少し先に肩で息をするユイハルの姿が見えたので、走る。
「ついて来たのか?」
「石を探すついでだよ! 別に、……おまえのこと心配したわけじゃねえし」
「そなたの方が苦しげではないか。マナを巡らせ、呼吸を整えろ。ここは空気が薄いからな」
強がっていてもやはり苦しかったのだろう。
ユイハルは無駄口を叩かず素直に従った。
しばらくすると、かなり顔色が良くなった。ラースもホッとして尋ねた。
「石は見つかったか?」
「……これ」
ユイハルの差し出した石は全部で三つ。どれもマナの量は少ない。
「え……? ダメだったか?」
「いや、ミケの練習にちょうどいいだろう。それよりユイハル、まだ歩けるか」
「当然だろ!」
強がりだとすぐにわかるが、それでも、せっかくここまで来たんだ彼にも見せてやりたい。
「なら、着いてこい」
見せてやりたい?
浮かんだ言葉に、ラースは内心首を傾げた。
なぜ、そんなふうに思うのかわからない。なぜ心がやたらと浮き立つのかわからない。
たぶん、ラースに世界を見せてくれたのが、グーだからだ。
先ほどは、ユイハルに偉そうなことを言った。
けれどラースだって、グーが案内してくれなければきっと、城の窓から見える景色がすべてだと思った。
ユイハルにも、――共に学ぶ彼にも。世界を見せてやりたいと思うのは当然なのではないか。
そんなふうに、ラースは自分を納得させた。
再び火口のふちに立った時、ラースは目の前の雄大な光景よりもむしろ、ユイハルの反応が気になった。
ちらりと盗み見たこともバレないくらい、彼は目の前の景色に夢中だった。
溶岩が作り出した不可思議な模様。空よりも青い湖。おおよそ生物などいそうもない場所を悠々と飛び交う火山燕たち。
ユイハルは口をぽかんと開けて、実に無防備に景色を堪能していた。
「落ちるなよ」
ラースの注意も聞こえていないように見える。
彼の目に、この景色はどんなふうに映っているのだろう。
不思議だ。
人にどう見られるかを意識したことはあっても、人がどう思っているかなんて、今まで考えたこともなかったのに。
やがてユイハルは小さくつぶやいた。抑えきれない興奮のためか、かすかに声を震わせながら。
「本当にいたんだな、ツバメ……」
「ああ」
「すげえなぁ!」
「ああ」
「なんだよその反応、余裕か!?」
ラースの平坦な返事が気に入らなかったのか、ユイハルはわざとらしく顔を歪めた。喧嘩なんてする気もないだろうに。
「いや」
ラースはかすかに苦笑した。
「この辺りは毒ガスが溜まりやすい。長居は禁物だ、そろそろ行くぞ」
「それ、最初に言えよ!」
「今は平気だ」
そろそろ戻らなくてはならないから、ラースは火口に背を向けた。
けれど笑いの余韻がくすぶっていた。
「同じだな」
「……何が?」
絶景を前にして思うことなど、すごい、美しい、恐ろしいに集約されてしまうのではないか。
それでも、すごいという感想が同じだということが、なんだかラースにはやけに楽しく思えた。
「帰りに、温泉によって行こう」
「え? またなのか? 遠回りだろう」
「なんだ、もう歩けないか」
「そんなわけないだろう!」
負けず嫌いのユイハルはまんまと誘いに乗った。
「一緒に入ろう」
浮かれた気分のままそう言うと、ユイハルは絶句した。
そして約束通りふもとの温泉に一緒に浸かった。
「……こんなことだろうと思ったよ。ラースはどこへ行ったんだよ」
「キュイ」
ここにいる。
ユイハルは本当に、いつ気づくのだろうか。




