2 ラース、呪いを捻じ曲げる――【百年前】
「キャッ! 目を覚ましたわ」
「こんなのどうやって世話をすれっていうんだ?」
「知らないわよ!」
そんな声とともに、床に投げつけられたものは、料理の入った皿だった。
ラースはのっそりと顔を上げ、見知らぬ男女を眺める。
(彼らはだれだ? ここは……?)
違和感を覚えてハッと自分の姿を見下ろすと、四つ足の獣になっていた。
驚いて廊下へ飛び出したラースは、見おぼえのある景色にますます戸惑った。
淡い灰色の石壁に暗色の屋根――ああ、ここは……。
かつて母が暮らしていた離宮だ。
この地は打ち捨てられた場所だった。屋敷の背後に広がる山は豊かに見えるが、毒沼地があるとして管理すら放棄され、魔獣が多くうろついている。
現王妃が、病がちな母をこの地へ追いやった。母は亡くなる間際までずっと、寂しいと泣いていた。
自分も追放されたのだと理解しても、驚きはなかった。怒りも、悲しみさえも湧いてこない。
今、ラースの気を引くのは、みずみずしい青草の匂いだった。むしゃりむしゃりと移動しながら草をはむうち、水たまりを見つけて覗き込む。長い顔、大きな鼻。半分閉じたような切れ長の瞳。
本当にカピバラになったと知って、むしろ愉快な気分だった。草はうまいし空は青い。
このままのんびり生きて行けたなら……。
その時、平穏を打ち壊す不快な声が響いた。
「おい、アレを見ろ! なんて間抜けな顔の魔獣だ」
顔を上げるまでもなく、兄の声だと分かってしまった。
「あれは本当にラースなのか? いや、疑わしいものだ。よし、射かけてみよ!」
彼らが何やら揉めている間も、本当に矢が飛んできても、ラースは避ける気にもならなかった。
だが、矢が刺さると見えた寸前に、ひらりと青い影が眼前を遮った。
「キュルル!(グー!)」
「大魔法使いグースレウス!」
「やれやれ、一張羅が台無しじゃのう」
もちろんグーは、わざと刺さってやったのだ。兄を困らせるために。
それでも、兄は狼狽をきれいに押し隠し、図々しくも友好的な笑顔を浮かべた。
「そなたならもちろん、狙ってやったわけではないと分かってくれるだろう? それより、陛下がそなたをお呼びだ。すぐに帰ってきてくれないか」
グーはそれを無視してこちらを覗き込んだ。
「ラースよ。死にかけたというのにもう散歩か? 若いもんは無謀じゃのう」
「クキュ!(グー、どうしてここに!)」
「わしか? わしはの……」
ラースの頭を撫でようとしたグーだったが、すぐにパッと手を離した。
「む? おぬし意外と剛毛じゃのう。刺さったぞ」
「プキュゥ……(え? それはすまない)」
「ははっ、何を謝っておるのじゃ」
朗らかに笑うグーに業を煮やした様子で、兄が口を挟んだ。
「おい! 私を無視するな! まさかそれと仲良くおしゃべりしている、などと言うつもりじゃないだろうな!」
「なんとそれでは、王子はいまだに念話を習得できていないということかな?」
「そ、それは!」
魔法を開花させるには、資質だけではなく努力が必要だ。兄はそれを怠っているため、いつまでたっても初級止まりなのだ。
それにたとえ念話を習得できたとしても、兄が自分の話を聞くとは思えない。
ラースはグーをつついて気を引いた。
「クウ(それよりも今はグーの話が聞きたい)」
「ふむ。それもそうじゃな。帰るとするか」
「待て、陛下の命令だぞ! 大魔法使いと言えど逆らうことなど許さるわけがない」
「なんと言われても戻らん! わしはもう引退したんじゃ」
「マナの大半を失ったそなたを、それでも引き立てるという陛下のご厚情が理解できぬか!」
ラースは驚き、グーの横顔をまじまじと見つめた。
けれどグーはいつものように泰然としていて、そのような悲劇があったとは露ほども感じさせなかった。
「陛下に伝えてもらおうか。いつまでも老い先短い魔法使いをあてにしているようでは困る、とな」
グーの姿は二十代ほどの青年なので、その言い分はいまいち説得力に欠けるのだが、彼はニヤリと笑って付け加えた。
「それともお使いの途中でわざわざ狩りに興じた王子の流れ矢に当たって、わしは気分を害した。と、報告してもらっても構わんぞ」
「なっ!」
絶句する兄にグーはひらひらと手を振った。
屋敷の三階に、グーは自らの研究所を丸ごと移設したようだ。古びた書物や巻物、魔岩石や魔木の枝などの素材が乱雑に並んでいる。
この分では秘蔵の酒まで持ち込んでいるに違いない。
グーは、本当にここに住むつもりなのだ!
「さて、ラースよ。目覚めたからには聞きたいことがたくさんあるぞ!」
「クキュプウ?(グーが私に? 私がグーにではなく?)」
「それもあるじゃろうが、まずはわしからじゃ!」
グーはまず、ラースの体調を案じた。
「痛いところはないか。苦しいところは? 気分はどうじゃ、落ち込んではおらぬか」
その一つ一つにラースはうなずいたり、首を振ったりして答えた。
「キュク(気分は、むしろ爽快だ!)」
「……ふむ、では、魔法は使えるか?」
「クク(試してみよう!」
手のひらサイズの炎を出すつもりが、危うく部屋ごと燃やし尽くすところだった。
グーが危なげなく対処してくれてくれたので、ホッとする。
「では本題じゃ。ラースよ、おぬしなぜそのような姿になったのじゃ」
「ググゥ(なぜって、邪神の呪いで……)」
「いや、そうではない! 邪神は……おぬしに“カヒィバーラ”になれと呪ったのじゃ!」
「キュキュ!(カヒィバーラ? 世界を滅ぼすという伝説の魔獣か!)」
ラースはどうやら、呪いを取り違えたようだった。
あの時、カヒィバーラとなって、人々に襲い掛かる様子をまざまざと思い浮かべたのなら、その恐怖を吸い取って、邪神は呪いを完成させたはずだ。そして破壊の限りを尽くしていただろう。
ところが、ラースが想像したのは温泉にのんびりつかるカピバラだった。
そう説明すると、グーは息もできないくらいに笑い転げた。
「なるほどのう! 邪神の呪いを捻じ曲げたか。さすがラースじゃ! 面白いのう」
「クルル!(そんなことよりグー! マナを失ったというのは本当なのか!)」
するとグーは、「うーむ」と唸って首を傾げた。
「邪神との戦いで力の大半を失ったと進言し大魔法使いの座を降りたのじゃ。少なくとも謁見したときはそんな状態じゃった。まあ、三日も眠ればすっかり回復したのじゃがな」
言葉もなかった。では、グーは陛下を欺いたのか?
「いやいや、それがまったくの嘘というわけでもないんじゃ。実際、今は邪神の封印で手いっぱいなんじゃよ」
グーはそう言って、暖炉の上から無造作に瓶を取ってきた。
その中には手のひらサイズの黒煙が、ゆらりと揺れていた。




