1 ラース、煮炊きの匂いを嗅ぐ
早朝、小雨が降っていた。
ラースは雨に濡れるのを嫌い、魔法で草を刈り取って湯殿中に積み上げむしゃむしゃと食べていた。
そこへ、グーがやってきた。
「キュルキュルル(おはよう、グー! 湯を使いに来たのか?)」
それなら一緒に入ろうとソワソワするラースだったが、違うようだ。
グーはラースの隣にしゃがみこんだ。
「いや、昨夜は久しぶりにずいぶん飲んだからのう」
などと言っているが、いつも通り“ひとなめ”だったはずだ。
「それよりラースよ、今日からユイハルの修行を始めるつもりじゃろう」
「キュイ(もちろんそのつもりだ)」
「その姿ではいかんぞ」
ラースは伏し目がちの目を見開いた。
「全く考えておらんかったという顔じゃな。それでどうやって教えるつもりじゃ? 言葉も通じないじゃろう」
「キュゥ」
「何をいまさら恥ずかしがる必要があるのじゃ? 同じ湯船に浸かった仲じゃろう?」
「キュイ(なぜそれを!)」
「おぬしが湯殿まで行って指をくわえているとは思えぬわ……。それにずいぶんとサッパリした顔をしておったぞ?」
ラースはそっと、顔ごと視線をそらした。
「ラース、わしは後悔しておるんじゃよ」
グーが似合わぬセリフを言うから、ラースは驚いて彼をまじまじと見つめた。
「おぬしに人間でいる時間を作れと言いながら、わしはその手助けを全くしてこなかった」
「キュ(グー、それは――)」
グーは静かに首を振り、ラースにそれ以上しゃべらせなかった。
「最後に寝台を使ったのはいつじゃ? あたたかい食事の匂いをかいだのは。――ユイハルが来たのはいい機会じゃったのかもしれぬ」
聞きたくない。
ラースはその場で丸まった。
グーの声に押しつけがましいところはなく、だからこそラースはその言葉を黙って聞いていた。
「人としての暮らしを取り戻すときがきたのじゃ」
ラースが返事をせずにいると、グーはやがて、根負けしたように立ち上がった。
「すぐにすべてを変えろとは言わぬよ。じゃが、指導をするときと、食事の時くらいは人の姿でいてやるのがいいじゃろうな。ユイハルはまだ子供じゃ。住み慣れた場所を離れ、食事まで一人となれば、寂しいじゃろうからな」
――私は、いつも一人だった。
ラースの脳裏に浮かんだのは、控えの間として使われるような飾り気のない薄暗い部屋だった。
隣の部屋から漏れるわずかな明かりを頼りに、ラースは席に着く。
笑い声が聞こえる。王妃と兄の声だ。
彼らは明るい部屋の中、肉とクリームと油、それにみずみずしい果物をたっぷりと使った料理を楽しんでいる。
ラースはそれを背に、固いパンをちぎり、音をたてぬよう冷めきったスープを口に運んでいた。
どう考えても、カピバラの方がいいのでは?
だれの目も気にせず、自由気ままに草をはむ生活の方が、ラースには合っている。
自分のためならラースはこのまま動かなかった。
しかし、グーはラースのことをよくわかっている。だれかのためだと言われるほうが、よほど無視できないのだ。
昨夜ユイハルのことを任されたばかりでもある。
ラースはゆっくりと立ち上がった。
廊下に出たら、なぜグーが急にあんなことを言い出したのか、わかった気がした。
調理場の方から煮炊きの匂いがする。
ラースが食堂に入ると、荒れ果てていたはずの食堂は、すっかりきれいになっていた。壊れた椅子は片付けられ、床やテーブルは丁寧に拭き清められている。
それ以上踏み入る前に、ラースは人の姿になった。
カピバラの時はあまりいい匂いと思えなかったのに、この姿では少し違って感じられた。
――似ている。
思い出したのは、かつてグーに連れられて出かけた、野営訓練のことだった。
グーや彼の弟子たちと共に焚火を囲った。
そこらで採ってきたキノコや、しなびた野菜で作った少々見た目の悪いスープ。
あれは――、美味しかった。
戸口でぼんやりしていると、ユイハルが皿を持って調理場から出てきた。
「あ……、食うか?」
「いや、匂いだけでいい」
「匂いだけ!? いや、それめっちゃ居心地悪いんだけど!」
「……グーが、ユイハルだけで食事は寂しかろうと」
「いや、そりゃまあ、そうだけど……」
その素直な口ぶりに、ラースは少々驚いた。彼は自分の弱みを知られることが怖くないらしい。
「本当に食べないのか?」
「うん」
ユイハルは、理解しがたいという顔つきで眉を寄せていたものの、やがて諦めがついたらしい。
「で? それ言い出したグーは来ないのか?」
「グーはいいんだ。それより、座ってもいいだろうか?」
「自分のうちだろ」
それもそうだと思い、ラースは彼の正面に腰を下ろした。
ユイハルは食前の祈りを捧げたあと、チラリとラースを見た。
「せめて水かなんか飲む?」
「早く食べろ。冷めるぞ」
彼は大げさに肩をすくめ、ようやくスプーンを持った。
そのとき、後ろからコツッと足音が聞こえた。
振り返るとグーはニコリとして、手に持っていたリンゴをラースの前とユイハルの前、それから空いた席へ置いた。
「これなら一緒に食べられるじゃろう?」
「グー、どうしたんだ、これ」
「城の様子を見に行ってきたんじゃ。ずいぶん前に打ち捨てられたようじゃったがのう……。果樹が少し生き残っておったから、土産じゃ。ほれ、ユイハルのぶんもあるぞ」
と、グーは愛用の革袋の紐を緩め、中から小麦粉や野菜やハムや調味料を、次々テーブルの上に積み上げた。
「どっから!?」
革袋には入るはずもない大量の食糧が出てくるのを見て、ユイハルがのけぞっている。
ラースはここぞとばかりに自慢した。
「空間魔法だ。言っただろう、グーは大魔法使いなんだ。グー、あとで保存庫も作ってやるといい」
「そうしよう。それはそうと、そのスープ、わしの分もあるかのう」
「あるけど、食べないんじゃなかったのか?」
「食べずとも何ら問題はないのじゃが……、ちょっとした心境の変化じゃな」
ユイハルはグーに疑いのまなざしを向けたが、席を立ってスープを注いできた。
そしてそれは、なぜかラースの分もあった。
「形だけでも置いておけよ。なんか、俺が意地悪してるみたいだろ」
「私は気にしない」
「俺が気にすんの! ……食べられそうなら食べればいいし、残してもあとで俺が食べるから」
ラースはチラリとグーを見た。グーは微笑んでゆっくりと頷いた。
そこでラースも、ユイハルの行動を不思議に思いながらも、頷いた。
改めて食事が始まると、ラースはスープとリンゴをしばし見比べ、リンゴを一口かじった。
舌に感じたのは酸味と、わずかな渋み。
美味しいかどうかは、正直よく分からなかった。
ただ、胸のあたりがくすぐったいような、不思議な感じがした。
「だけど、よくこんなにたくさん、食料が手に入ったな」
「うん? そうじゃのう。近所にはろくなもんがないようじゃった。それでちと隣国まで行ってきたからの」
「は? また意味の分からないこと言って」
ユイハルは目をむいたが、ラースは喜んで身を乗り出した。
「ではグー、ついに完成したんだな」
転移魔法は、グーがずっと研究してきた魔法のひとつだ。
「試すにはいい機会じゃった」
グーもしみじみしている。
「百年間の引きこもり生活も無駄ではなかったということだな」
嬉しくなって頷くと、グーはなにやらまじまじとこちらを見た。
「……ふむ。ラースは、ユイハルの言う百年経ったという言葉を全く疑っておらんのじゃな」
「うん? そういえばそうだな」
ラースはユイハルの顔をじっと見つめた。
青い瞳に濁りはなく、騙されることはあっても、騙すような人間には見えなかった。
「な、なんだよ」
「いや――」
別に話題を変えようと画策したわけではなかったが、ラースはふと恐ろしいことに気が付いた。
「待て、グー。それでは邪神は野放しか? 見張っていなくて大丈夫なのか」
「心配無用じゃとも。実は今朝からユイハルに預けてあるんじゃ。朝晩祈りを捧げるように」
「それじゃまるで俺が邪神に祈ってるみたいだろ! 俺はフィデーア様に祈ってるんだ!」
ユイハルは吠えたが、グーは笑って取り合わなかった。
グーこそずいぶん彼を信頼しているようだ。
ラースは目をパチパチさせながら、二人を見比べた。
するとグーが、こっそり念話を送ってきた。
「(朝、逃げ出そうとしておったのでの。役割を与えたんじゃ)」
「(そうか)」
やがて食事を終えたグーが席を立ち、ユイハルも片付けのため調理場に引っ込むと、ラースは齧りかけの林檎を持って外へ向かった。
こちらの姿で食べたほうがうまいだろうと予想していたのに、歯を入れた瞬間、ラースは「キュッ!」とのけぞった。
酸味が強すぎる。
それでも、これはグーがラースのために取ってきてくれたものだ。残すのも気が引けて、結局、芯まで全部食べた。




