悪女は夢を見る
「フレデリカ・ラングレー、そなたの処刑が一か月後に決まった。毒杯を授ける方法になるだろう」
王城の地下牢に入っているラングレー公爵家の十六歳の娘フレデリカは、元婚約者であり王太子のクラレンスからそう告げられた。
シンプルな木製の椅子に腰かけていたフレデリカは金色の髪を耳にかけ、アメジストの瞳を真っすぐクラレンスに向けると、「承知しました」と端的に返した。
処刑を言い渡されたとは思えないほどの彼女の落ち着きように、クラレンスは思わず鉄格子を掴む。
整えていた黒髪の前髪がハラリと額を隠し、青く澄んだ瞳に苦渋が滲んでいた。
「……私たちの婚約は父上が決めた、王命。どうして聖女ルーナを幾度も害したのだ? 何もしなければ私たちは、予定通り結婚できた。それにルーナ殿と私は決して嫉妬されるような関係でないと、何度も伝えたのに……っ」
「改めて動機を聞いて、何か変わりますか? わたくしはクラレンス殿下と懇意にしていたルーナ様に嫉妬し、何度も嫌がらせを繰り返し、ついには命を狙ったという公表内容は覆りませんよ」
「――本当に、どうして」
クラレンスは鉄格子を握る手に力を込め、小刻みに震わせた。
浮気という誤解を正せなかった、己の立ち回りの未熟さに対してか。フレデリカは途中で目を覚ますだろうと高を括って、フォローを怠ったことなのか。それとも聖女ルーナへの嫌がらせの調査を側近たち任せにしていたことで、断罪を止める機会を逃してしまったことだろうか。
正義感の強く、優しいクラレンスの後悔はなんとなく伝わってくる。
(国王陛下に任された件で、クラレンス殿下に余裕がないのは知っていた。わたくしは、敢えてそのタイミングを狙ったというのに……)
責任感があることは素晴らしいが、必要以上に自責の念に苦しまないか心配になる。
フレデリカは口を横に強く引いて、相手を見つめた。
すると、クラレンスはとある提案をした。
「最期に、したいことはないか?」
「最期……そうですわね」
フレデリカの望むことを最後の最後に叶えることで、わずかでも気持ちを軽くしたいのかもしれない。
なら、ちょうどいい。
「では、聖女ルーナの王太子妃教育をさせてください」
「ルーナ殿の教育を、フレデリカが?」
「はい。ルーナ様は平民でありながら、聖女としていずれ神殿の上層部に立つ身。神殿と王室の関係を考慮し、王族の誰かと婚姻を結ぶべきでしょう。候補はふたりいますが、選ばれるのはおそらく――」
「私だろうな」
聖女の婚約者候補はふたり。王太子クラレンスか、王弟のどちらか。
ただ王弟が現在独身なのは、二年前に妻の王弟妃を亡くしたからだ。
一方でクラレンスに結婚歴はなく、聖女が『後妻』扱いにもならず体裁も良い。
救国の聖女ルーナが王太子の婚約者の座に納まるというのは、王家としても、関係を密にしたい神殿としても理想のかたちだろう。
癒しの力を持つ奇跡の女性ルーナの活躍は、国中の誰もが知っている。救われた有力貴族が後ろ盾になってくれるため、反発もほぼないはずだ。
「罪滅ぼしとして、ルーナ様に与えられるものは与えておきたいのです。きっと不慣れな作法に苦労するでしょうから、本格的に王妃殿下から教育を受ける前に、基礎を教える機会をわたくしにくださいませ」
「私の一存では決めかねる。相談してくるから、結果は待ってくれ」
本当に真面目すぎて、不器用で、フレデリカは心配になる。
そんなクラレンスは神妙な顔つきで、地下牢の前から去っていった。
***
フレデリカの願いは、慈悲深い聖女ルーナによって叶えられることになった。
魔力封じの腕輪と監視付きという条件は付けられたが、実現しただけ奇跡。本来、死刑囚の願いなど叶うことはないのだ。
さすがに公にするのは王家としても体裁が悪いので、フレデリカは神殿から派遣された世話役に扮し、一日に数時間だけルーナに王子妃教育を施すことになった。
「ルーナ様、お上手です」
教えた通りのお辞儀ができたルーナを、フレデリカは褒めた。
教育をはじめて数日経ったが、ルーナはとても飲み込みが早い。真面目で、努力を惜しまない性格なのはもちろん、臨機応変に立ち回れる器用さも彼女は持っていた。
処刑まであと三週間。十分に基礎は自分のものにできるだろう。
「フレデリカ様の教え方が、とても分かりやすいお陰ですよ」
「まだ余裕がおありのようですわね。もう少し厳しくしましょうか」
「望むところです!」
ルーナが気合のあまり両こぶしを作ったので、フレデリカは「淑女の仕草失格です」とすかさず注意を入れる。
するとルーナはすぐに拳を引っ込めて、目を泳がせた。気を抜くとすぐに淑女の仮面が外れてしまうのが問題だが、これは練習を重ねていくうちになくなっていくだろう。
あまり心配はしていない。そんな気持ちでルーナを眺めていると、彼女の表情が曇った。
「……ねぇ、フレデリカ様。どうして、もっと早くに私たちこんな風になれなかったのかな?」
気を抜いてしまっていたのは、ルーナだけではなかったらしい。
無意識に緩ませてしまっていた表情を、フレデリカは引き締めた。
「本当にクラレンス殿下と私の間には何もなかったんです。もっと、早くから腹を割って話す努力をしていたら……っ」
「わたくしは、ルーナ様の命を狙ったこと、実は後悔しておりません」
「微塵も? やり方を間違えたということも思っていないと?」
「えぇ」
フレデリカがきっぱり答えると、ルーナの眉間により深い溝ができた。
「どの件も、綿密に調べればフレデリカ様に繋がる証拠が出てきました。隠蔽できそうなことも……あらゆる人や物を経由して、複雑ながらも、最後はフレデリカ様に辿り着く。末端の手先すらも利用されたと気付いておらず、あまりにも巧妙でした。つまりフレデリカ様は計算して、処刑されるために私への嫌がらせを繰り返したということです。その理由を教えてください」
そう言ってフレデリカに向けられたルーナの視線は、射貫くように鋭かった。
ただの嫉妬で悪行を重ねたのではないと、確信しているようだ。
以前より気高い雰囲気を纏っているルーナは、神殿のトップになる素質を十分に兼ね備えていると、改めて確信する。
だから、もう少しだけ試したくなってしまう。フレデリカは無表情のまま、ゆっくりと口を開いた。
「チャンスを三回あげましょう。当てることができたら、素直にすべてを打ち明けますわ」
「――!」
処刑執行の三週間前。
こうしてフレデリカとルーナの賭けが始まった。
***
フレデリカと約束を交わしたルーナは、すぐにクラレンスに協力を仰いだ。彼もまた、フレデリカの動機に疑問を抱き、処刑という結末を悔いている人物なのだ。
「やはり、フレデリカは自ら処刑を望んでいたのか。でも目的が分からない。当初は、皆と同じく嫉妬……かと思っていたが、牢に入った後の妙な清々しさを見るに、やはり嫉妬とは考えられない」
「ですが、フレデリカ様がクラレンス殿下に向ける眼差しには、いつも愛情が宿っているように見えましたよね?」
「……自惚れでなければ、私もその自覚はある。が、ただの嫉妬ならば私から離れようとは思わないはずだ」
フレデリカは、幼少からクラレンス一筋というのは有名だった。それは執着……と言っていいほどの熱量だった。
だから周囲はフレデリカの犯行動機は『嫉妬』だと思っているし、とってきた行動もそれを示している。
しかしふたりの考えは、嫉妬という単純な答えを否定していた。
「嫉妬はしていないけれど、愛情はある。フレデリカ様が処刑されることで、クラレンス殿下に何かしら大きな利益を与えられるとしたら? クラレンス殿下を愛するがゆえに、自分の身を犠牲にしたという可能性もあるかもしれません」
「今回の件で私が得することとは一体……っ、もしかして!」
「フレデリカ様が王妃になるより、聖女の私が王妃になることで得られる最大のメリットは、この国を狙う隣国を牽制できることです。我が国の軍神であり、王弟であるヴィンス殿下が病で臥せっている今、聖女の名前は強固な盾となるでしょう」
国王にはヴィンスという、年の離れた弟がいる。年齢は今年二十五歳と、国王よりも十六歳である甥クラレンスに近い。魔法と剣を巧みに使う国最強の騎士だ。
数年前の隣国との戦争で英雄となった軍神ヴィンスの存在は、領土侵略を目論む他国への牽制にもなっていた。
しかしヴィンスは一年前、正体不明の病に倒れ、公務の遂行すら難しくなった。もし彼の状態が知られてしまったら、野心の高い国が侵略に踏み込むかもしれない。実際に戦争が起きれば、クラレンスの治世は波乱となるだろう。
そこでルーナが治療をすることで病の進行を止め、クラレンスが公務を代行することで、ヴィンスが病に侵されている事実を隠蔽してきたのだったが……。
「この事実を知るのは一部の幹部のみで、王命によりフレデリカ様の耳にも入れないようにしていましたが、知ったタイミングでは……」
「あぁ。ルーナ殿の力をもってしても、今も叔父上は完治には至っていない。フレデリカが万が一を想定していたのなら――」
ルーナとクラレンスは頷き合うと、フレデリカがいる地下牢へと向かった。
「癒しの力を持つ聖女を害したとなれば、侵略国家は大陸で孤立するのは必至。それを分かっていて戦争を起こすほど、その国も愚かではないはず……フレデリカ様は王命を効率的に覆し、聖女である私を国の盾にするために、犯行に及んだ。そうですね?」
ルーナは鉄格子を挟んで、質素な椅子に座っているフレデリカに堂々と告げた。
しかし。
「残念。チャンスはあと二回ですね」
フレデリカは間を空けることなく、ルーナとクラレンスに不正解を告げたのだった。
***
「フレデリカのことが分からない」
クラレンスはルーナと別れて私室に戻るなり、額に手を当てた。
フレデリカとは六歳のときに王命で婚約し、かれこれ十年の付き合いだ。あれがほしい、これがしたい、と彼女はクラレンスに対してはっきりと主張するような性格。幼いころから上機嫌なのも不機嫌なのも、容易に察知できていたはずなのだが、気付けばフレデリカの思惑が読めなくなっていた。
それはいつからだったか……。
わずかなヒントすら欲したクラレンスは、フレデリカの兄ダレンをこっそりと呼び寄せた。
「妹に変化……ですか?」
ダレンは突拍子もない質問にもかかわらず、真剣に考え始めた。
「フレデリカは、その……正直いうと苛烈な性格で、分かりやすかったはずなのだが……今は雲を掴むように、考えていることが分からなくなっていて。いつから変わってしまったのだろうかと。公爵家ではどうだったかと、気になってしまったのだが」
「殿下の仰ることも、なんとなくわかります。我が家族も違和感をずっと抱いていましたから」
「たとえば?」
「今までの妹なら、聖女を排除する場合は父か僕に相談するはずなんです。その……他の令嬢に対しては、そのようにしていたので」
ダレンは歯切れが悪そうに告白するが、クラレンスに咎める気はない。
王太子妃の座を狙い、フレデリカを引きずり落とそうとする令嬢がいたのは認識している。害をなそうとする人物を排除しようとするのは当然の防衛で、これまでは社交界の影響を考慮した範囲で、上手い立ち回りをしていたと記憶している。
だからこそ聖女ルーナのときだけ、フレデリカが単独で動いたことに腑が落ちないのだ。
「ちなみに、ダレン殿はいつ頃から違和感を持っていたのだ?」
「ちょうど一年ほど前でしょうか。妹が原因不明の高熱で倒れ、目覚めてからです。性格が柔らかくなり、勉強する時間が増えました。僕たち家族は、妹が悪夢でも見て、次期王妃としての自覚が刺激され、己を律するような成長をしたのだろうと思っていたのに……まさか、裏で聖女を害そうとするなんて」
ダレンは悔いるように膝の上に乗せた拳に力を入れた。
フレデリカは良い方向へと変化したように家族から見えていたのだろう。しかし、実際は家門を揺るがすようなことが起きてしまった。
(また矛盾している。ルーナ殿を排除しようとしているかと思ったら、本来の目的は自らの処刑。真面目になったと思ったら、家族も予想できなかったとんでもない犯罪に手を染める……一年前がきっかけで、悪夢ときた。まさかな?)
クラレンスは記憶の奥から、古い伝承を引っ張り出した。
あまりにも古く、真実かどうかも分からない話だ。
しかしながら、聖女という魔法では起こせない癒しの奇跡を扱う存在が実在し、大陸のほとんどが共通の神を信仰している。伝承にかけてみる価値はゼロではない。
クラレンスはルーナに相談し、ひとつの答えをフレデリカに持って行くことにした。
「フレデリカ、君は神託を授かった。その神託で見せられた最悪の未来を回避するため、ルーナ殿を王太子妃に据えるべく、フレデリカは神に指示されるまま悪行を重ねた。どうだろうか?」
過去に、神託を授かった乙女がいたという記録が残っている。突然その乙女は未来を見てきたかのような予言を王に告げ、聞き入れたことで災害や不作の影響を最低限に抑えることができたのだとか。
フレデリカの性格の変化と、思うままに処刑へとたどり着いた手腕は、伝承と重なる部分が多い。
だからクラレンスは、神託の存在を改めて信じてみようと思ったのだが――
「不正解です。ただ、前回よりは随分と正解に近くなりましたね。チャンスは残り一回です」
フレデリカは前回と変わらず、無表情でそう告げたのだった。
***
まるで答えが分かれば、フレデリカの処刑が撤回できると信じているかの如く、王太子クラレンスと聖女ルーナが必死になって答え探しをしている。
「相変わらず、純粋なおふたりね」
フレデリカはわずかに顔を緩ませ、安い茶葉で淹れられた紅茶に口をつけた。
与えたチャンスはあと一回とだけあって慎重になっているようだが、処刑まであと一週間を切った。
それぞれ王弟ヴィンスを支える責務があり、忙しいのにもかかわらず、ふたりはフレデリカとの面会を絶やさない。なにかヒントを引き出せないか、積極的に話しかけてくるのだ。
そんなクラレンスとルーナは、この数週間で絆を確実に深めているのだが、どれだけ本人たちは気付いているだろうか。
見守っている側近たちの敬意が高まっていることも、知らないかもしれない。
(クラレンス殿下とルーナ様は互いを支え合う、理想の国王と王妃になるはず。あとは私が処刑されれば、すべて願い通りになる)
フレデリカは「ふふ」と小さく笑みを零し、再び紅茶に口をつけた。
そして処刑の三日前、クラレンスとルーナが最後の答えを告げに来たのだった。
ルーナが、緊張した面持ちでゆっくりと口を開いた。
「転生憑依という奇跡があると、神殿の伝承にありました。悪しき未来を変えるため、神が死んだ者の肉体に異世界の人間の魂を宿らせるらしいのです。本物のフレデリカ・ラングレーの魂は一年前の高熱で死に、新たに身体の主となった貴女が神の意志を継いだのではありませんか?」
よく調べたな……フレデリカは感心した。
けれど――
「あぁ、惜しい。これまでの答えで一番近いですわ。でも不正解です」
ルーナとクラレンスの顔は、分かりやすく強張った。
よくみれば、ふたりの目の下には隈ができていた。必死に調べ上げた回答を否定され、しかもそれが惜しいという判定だからこそ、ショックが大きいようだ。
「不正解ですが、あまりにも禁忌に等しい領域に踏み込んだことを評価し、少しだけ明かしましょう。皆様の知る、愚かなフレデリカ様は確かに死にました。しかし処刑の意志は神のものではなく、わたくしのものでしてよ」
「どうして!? 嫉妬もしていないのに、死ぬと分かっているのに、罪を犯したのですか!?」
「ルーナ様、これ以上わたくしは答える気はありませんわ。あなたたちは、賭けに負けた側なのですから」
「――っ!」
ルーナはショックでふらつき、クラレンスは慌てて彼女の肩を支えた。
その光景をフレデリカは眺めながら、密かに胸を撫でおろした。
それから三日後、フレデリカには毒杯が授けられた。
躊躇うことなく飲み干せば、甘く飲みやすい味で、胸の苦しみもなく意識が薄れていく。
(良かった……無事にフレデリカ様をこの世から消せる。これできっとあの方は死なない)
フレデリカは満足げな笑みを浮かべ、死を受け入れた。
そう思っていたのだが。
「どうして、フレデリカ・ラングレーを処刑に導いたのですか?」
沈みきったと思っていた意識がふと浮上したと自覚したとき、ルーナの問いかける声が聞こえた。
不思議に思っている間にも、フレデリカの口は勝手に動いた。
「未来でフレデリカ様は私の愛する人を殺してしまう。だから先に殺しておきたかったの――……はっ」
フレデリカは慌てて口を押さえた。死んだと思っていた己の身体は、麻痺を感じつつもきちんと反応するではないか。
瞬時に、自分が飲んだものの正体を察した。
(あの毒杯は自白効果のある王家の魔法薬だったのね。飲んだら確実に死ぬのは間違いないけれど、やられた……!)
自白の魔法薬を飲んだ人間は、操られたように質問に答えてしまう。あらゆる隠し事は無意味となり、すべてを曝け出してしまうことから、人間の尊厳を簡単に奪うといっても過言ではない恐ろしいもの。
ただ脳と体への負担が強く、飲んだ人間は例外なく翌日には死ぬという遅効性の致死毒だ。
(王家秘密の禁忌の薬を持ち出すなんて! ルーナ様は薬の存在を知らなかったはず。彼女に入れ知恵したのは――)
さっと周囲を見渡せば、場所は牢から客間に移動しており、ルーナとクラレンスが枕元でフレデリカを見下ろしていた。
壁際のソファには国王陛下が腰を下ろして見守っている。衝立の奥にも人の気配があることから、魔法薬を処方した医者も控えているのだろう。
「ふふ、最後の最後に油断したわ」
清らかなクラレンスが、国王を動かしてまで魔法薬を持ち出すなんて考えもしなかった。
それだけフレデリカが秘めていた真実を知りたかった証拠でもあり……選んだ手段は狡いが、諦めの悪さは好ましい。
彼女は、口元を押さえていた手を外してルーナを見つめた。
「素直に答えてくれるのですね」
「この毒を飲んだ限り、死ぬ未来は変わらないんですもの。この命の灯が消えるまで、いくらでも」
明かすつもりはなかったが、願いの成就は約束されている。運命は今から変えることは不可能。
彼女は微笑んでみせた。
「それでは、ご質問は?」
「フレデリカ様が殺してしまう愛する人とは誰ですか? そして貴女は誰ですか?」
「死んでしまうのは、王弟のヴィンス殿下。そしてわたくしはヴィンス殿下の妻、王弟妃だったアンジェリーナです」
部屋にいる誰もが息を呑んだ。
ルーナは代表者として、声を震わせながら問いかけを続ける。
「ア、アンジェリーナ様は急病で、二年前にお亡くなりに……でも、どうしてヴィンス殿下はまだ生きているのに、フレデリカ様が殺すと分かったのですか? 神託を授かったのですか?」
「神託とは違うわね。わたくしは二度目の人生を送っています。一度目の人生はそれはもう悪夢のような世界でした」
アンジェリーナは瞼を閉じ、一度目の人生を思い浮かべながら語り始めた。
ヴィンスに溺愛される生活は、幸福に満ちていた。後ろになでつけ整えた黒髪に切れ長の青い目、逞しい体躯に威圧感を感じる人も多かっただろう。
けれどアンジェリーナを見つめる眼差しは常に愛に溢れ、抱き締める腕は常に気遣いがあった。
彼女にとって、ヴィンスはこの世のすべてと言えるほどに、愛していた。
しかしある日、ヴィンスは病に倒れてしまう。そこで密かに神殿から派遣されたのが数年前に聖女の力に目覚めたルーナだった。
ルーナは密かにヴィンスのもとへ通って癒しの力を使い、クラレンスはヴィンスの代わりに公務をこなしてくれた。
ルーナとクラレンスの存在にどれだけ助けられたか。アンジェリーナは、今でもふたりに感謝しきれない。
そんな三人の献身もあって、ヴィンスの病は回復に向かっていたのだが……ある日、ルーナが襲撃にあって重傷を負った。二度とベッドから起き上がれないという、最悪の怪我だった。その上癒しの力を使うことができなくなった彼女は、聖女の称号を失った。
それからヴィンスの症状は急速に悪化し、あっという間に死んでしまったのだ。
軍神と聖女が消えた国際情勢は、急速に不安定になり、ただでさえ多忙だったクラレンスは忙殺されることになる。
いつ戦争が起きるか分からない。もし戦争が起きたら……ヴィンス亡き今、我が国は苦戦必至。クラレンスは国民を守るため奔走していた。
だというのにフレデリカは理解せず、支えることもせず、クラレンスに相手をしてもらえないことを周囲に八つ当たりするばかり。勝手に王城に押しかけることも多かった。
次期王妃の愚行の尻拭いはクラレンスの役目で、悪循環の深みにはまる日々。
そんなある日、フレデリカはいつまでもクラレンスに会えないことを嘆き、応接間にあるお酒を勝手に飲んでしまった。
その日、公爵家の迎えがくるまでクラレンスの代わりに対応に当たっていたのはアンジェリーナだ。慣れないお酒にフレデリカは随分と酔っていて、彼女はアンジェリーナに日々の鬱憤をぶつけた。
「そのとき、フレデリカ様はこう言ったのです。“まだルーナ様が、クラレンス殿下と同じ王城にいるなんて最悪。ちゃんと殺してって依頼したのに”と。つまりルーナ様を害したフレデリカ様は、遠回しにヴィンス殿下を殺したと判明したのです」
愛するヴィンスを殺した。
それだけでも忌々しいのに、可愛いルーナを害し、大切なクラレンスをも苦しめている。
フレデリカ・ラングレーはこの世から消すべきだと、アンジェリーナの復讐心に火が灯った。
「ただ罪に問いたくても、証言はわたくししか耳にしておらず、物的証拠はありません。公爵家を敵に回すには、切り札がなさすぎました。確実にフレデリカ様を消し、クラレンス殿下の汚点にならない手段でなくてはなりません。そう考えている間にルーナ様が息を引き取りました。そうして気付いたときには、わたくしは二年前の時間軸に巻き戻っていたのです」
聖女ルーナを救済するために、神が時間を戻したに違いない。
しかし記憶が残っているのはアンジェリーナだけ。
これはフレデリカを消すために神が与えてくれた、機会なのだと受け取った。
未来でフレデリカが聖女を襲うと告げようとも思ったが、まだ訪れていない未来の悪行を証明するのは不可能。アンジェリーナの妄言、などと判断されて行動を制限されても困る。
「そして考え抜いた結果、王家の禁書に書かれていた禁術を用いて、フレデリカ様の身体を乗っ取ることにしたのです。それが今から二年前……代償として、魂を失ったわたくしの肉体は鼓動を止めました。そして一年ほど時間をかけて、わたくしは自身の魂をフレデリカ様の肉体に馴染ませ、高熱が出て弱ったときに彼女の肉体の所有権を奪ったのです」
あとはルーナが実際に怪我をしないように襲撃を仕組み、クラレンスに非がないようにフレデリカの婚約者という立場から解放すればいい。
こうすることでルーナは癒しの力を失うこともなく、結果愛するヴィンスの死を回避できると考えた。
そして最後は処刑という方法で、憎きフレデリカの肉体をもこの世から消すことも叶う。
アンジェリーナが思い描く、できる限りの大団円。
まだ罪を犯していないフレデリカが可哀想?
アンジェリーナはそうは思えなかった。
世界がリセットされたとしても、一回目のフレデリカの罪は消えたわけではない。あの絶望は今も記憶に焼き付いている。
「ということで、フレデリカ様が処刑を望んだように見えた正解は“復讐にかられたアンジェリーナが、周囲への実害を最低限に抑え、フレデリカ様をこの世から消すため”でした。そしてわたくしは、達成したのです」
自白剤のせいで少々喋りすぎてしまったが、後悔よりも復讐が成功した充実感のほうが上回っている。
もう思い残すことはない。
静寂が支配した部屋でひとり、アンジェリーナは微笑みを浮かべていた。
「君は、また俺を置いていくのか?」
そのとき、聞き慣れた男性の声がした。
ハッとアンジェリーナが声のした方へと視線を向ければ、衝立の奥から愛しい人――王弟ヴィンスが姿を現した。半年前に偶然見たときより、ずっと顔色が良い。ルーナの治療が順調だということが分かり、安堵しつつも言葉にできない切なさが込み上げる。
この人だけには知られたくなかった。
フレデリカの死に関心を向けるような人ではないというのに、どうしてここにいるのか。
「ヴィンス、様……なぜ?」
「半年前、フレデリカ嬢の姿を見たとき、一瞬だけアンジェリーナの仕草と重なった。今回クラレンスから“フレデリカの肉体には別人がいる”と聞いたときもしかしてと思い、同席させてもらったのだが――本当に君だったとは……!」
「わたくしに触らないで!」
ヴィンスはアンジェリーナに触れようと手を伸ばすが、拒絶の言葉によって止まった。
本当は今すぐ抱き締めてもらいたい。愛しい彼の温もりを感じたい。
しかし、この肉体は忌々しいフレデリカのもの。ヴィンスには、ほんの少しも触れてほしくない。
懇願するように見つめれば、ヴィンスの手は引っ込められた。その手は強く握られて白み、小刻みに震えている。
「アンジェリーナ。二度も君に置いていかれたら、病が治ったとしても……もう俺は生きていけない。置いていくな」
「何をおっしゃっていますの? 禁術を使い、今世ではまだ大罪を犯していない公爵令嬢を死に導いたわたくしは極悪人。酷い女のことなど捨ててください」
「俺のために命を捧げてくれる妻を、見捨てられるわけがないだろう!」
「――! でも、もう自白の魔法薬を飲んでしまったわ!」
ルーナとクラレンスがその場で崩れ落ちる。ふたりの顔は白を通り越し真っ青で、死に繋がる魔法薬を用いたことの後悔に押しつぶされそうになっていた。
おかしい。
ヴィンスの死は回避できた。ルーナも無傷で、クラレンスは悪女から解放された。ハッピーエンドじゃないか。
数分前まで、その狙いは成功し、大団円だと思っていたのに……。
身体はベッドに横たわっているのに眩暈がする。
「アンジェリーナ、答えてくれ」
「……?」
「君はまだ生きたいか? それとも本当に死にたいのか?」
愛しい人は、自白剤のせいで本音しか話せないときに、残酷な質問をするものだ。
アンジェリーナの答えはただひとつ。
「生きたい……! 本当はヴィンス様と、一緒に生きたかった! でも自分が死ぬよりも、あなたの死のほうが嫌だった。わたくしこそ、あなたを二度も失いたくなくて……こうするしか思いつかなくて……ひっく、うぅっ」
堰を切ったように、アンジェリーナの目から涙が溢れ出した。
客間では、声を我慢するような泣き声だけが響く。
「生きたいんだな?」
「は、い……でも、わたくしは」
「アンジェリーナ、俺の愛を甘く見られては困る。大丈夫だ。ちゃんと君を生かし、フレデリカ嬢はきちんとこの世から消すよ」
あまりにも予想していなかったヴィンスの言葉に、アンジェリーナは目を丸くした。
***
あれから数日後、アンジェリーナは元の身体を取り戻していた。
死んだ二年前から全く変わらない肉体を、そのまま。
屋敷の庭園に出て、動きに問題ないことを確認したアンジェリーナは苦笑する。
「ヴィンス様ったら、保存装置を独占していたなんて。想像もしていませんでしたわ」
王族の葬儀には時間がかかる。埋葬までの期間腐らないよう、遺体は王家秘蔵の保存装置に入れられるのだが、ヴィンスはアンジェリーナに使い続けていたのだ。
葬儀後、埋葬したのは空の棺で、アンジェリーナの本当の遺体はずっとヴィンス所有の屋敷で大切に保管していたのだという。
「アンジェリーナの魂を失っただけでも耐えきれないというのに、肉体まで失うことまでまだ受け止めきれなかったんだ。次の王族が亡くなるまでという条件のもと、兄上が許可してくれて良かった。お陰で、君を取り戻すことができた」
ヴィンスは、後ろから包み込むようにアンジェリーナを腕の中に閉じ込めた。
病によりやや細くなってしまった腕だが、ルーナが完治まであと少しと言っていたので、いずれ元通りの逞しさを取り戻すはずだ。
そう、取り戻すと言えば……。
「保存装置もそうだけれど、禁術を応用して、わたくしの魂だけを元の身体に戻すなんて、今でも信じられませんわ。さすが国最強の剣士であり魔法使いですね」
あの晩アンジェリーナは自身の肉体を手に入れて復活。毒に冒されたフレデリカの肉体は、アンジェリーナの魂を移動したと同時に息を引き取った。
ヴィンスは約束通り、アンジェリーナだけを生かし、フレデリカをこの世から消したのだった。
「俺に魔法の才能があると見抜いた君の言葉を裏切らずに済んで良かった。そうそう、戸籍はきちんと用意できそうだよ。義父上も義母上も快く協力してくれた。これからは君のことはアンジュと呼ぼうかな」
アンジェリーナは二年前に死んだことになっているため、生家の両親に事情を説明し、生き別れた双子の妹アンジェリカとして身分を作り上げることにしたのだ。
愛するアンジェリーナに瓜二つのアンジェリカを街で見つけた王弟が恋に落ち、調べたところ赤子時代に誘拐された双子の妹と発覚。見初められたアンジェリカは、亡き姉の代わりに王弟を支える――というシナリオだ。
若干無理がある作り話なのでまだまだ調整は必要だが、ヴィンスと国王をはじめ、王太子クラレンスと聖女ルーナも味方に付いているのでどうにかなるだろう。
「ふふ」
「アンジュ?」
「あまりにも、わたくしに都合が良すぎる展開だと思いまして。夢を見ているようですわ。ヴィンス様、ありがとうございます」
あらゆる罪を重ねたのに、重々しい罰はない。
国王の許可無く屋敷の敷地から出てはいけない――という軟禁命令は出たが、ヴィンスの鳥籠に戻っただけのこと。
彼がそばにいれば、外の世界に出れなくても構わない。
苦労をかけたのにルーナとクラレンスは、むしろ感謝の言葉を告げてくれた。
(ふたりを絶望に落とさずに済んで良かったわ。聖女を悲しませるなんて許さないという、これも神の導きなのかしら? 何より……)
美しい思い出が詰まった庭園で、再び愛するヴィンスと一緒に歩くことができるなんて、奇跡以外の言葉が見つからない。
悪女になってしまったのに、これまで以上に幸せに満ちた世界が用意されている。
アンジェリーナは咲き誇る薔薇たちを眺めながら、顔を緩ませた。
「俺が、君と一緒に生きたかっただけだ。次また置いていこうとしたら、国も何もかも捨てて追いかけるからな?」
「それは、わたくしも同じですわ。愛しています。ヴィンス様」
「俺も、君だけを愛している。今世こそ、永く、ともに――」
そう告げたヴィンスの口付けを、アンジェリーナは目を瞑って静かに受け入れた。
唇から伝わる温もりが、相手の『生』を証明する。
こうして前世に果たされなかった『愛する人と生きる』という、アンジェリーナの夢の続きが始まったのだった。
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