第零話 プロローグ
月夜の大海原に、大小様々な島が連なって浮かんで居る。まるで仙人の棲む秘境の様な其の島には一つひとつ城が築かれ、城壁の至る所に一帯の支配者を示す家紋が描かれた旗が風に吹かれ踊っている。此処は芸予諸島。嘗て日本一の大海賊としてその名を轟かせた者達―村上海賊が住まい、守護する地域だ。
其の島の中腹に位置する城の屋根の上に青年が一人、海を眺めている。青年は白い着物を身に纏い、腰には護身用の懐刀を挿している。青白い月に照らされたその顔は何処か物憂げで、両目に広がる海を見据える目はまるで不安を隠し切れない幼子の様に開かれている。
目に映る海は、其の不安をそのまま反映させたかの如く大きな白波を立てうねりを作る。青年を嘲笑う様に揺れる波は止むことは無く、自身を照らす月の光さえ自分を非難しているのかと思ってしまう。白波と月光。この二つだけが、今のこの場を支配している―はずだった。
突如、侵入者を示す鐘の音が鳴る。其れと同時に、至る所で悲鳴や怒号が飛び交い始める。敵が奇襲を仕掛けてきたのだ。青年はさっと立ち上がり、周囲の状況を確認する。外で見張りをしていた者達は既に倒され、城内まで入り込まれているようだ。其れを認識した瞬間、青年の脳裏に最悪の光景が描かれる。悪寒が躰を駆け巡り、一気に鼓動が高まる。
「異能力―颯」
青年は自身の体を加速させ、城の屋根を駆け抜け或る場所へと向かう。其処は二の丸と呼ばれる建物だった。この城の城主、ひいてはこの村上海賊を率いる其の人物が普段生活している場所である。青年はその建物へ駆け込み、城主の居る部屋へ押し入る。
「総代!ご無事で―」
目の前には、頭に思い浮かんだものと全く同じ光景が浮かび上がっていた。腹を刺され、血を流す城主。返り血で赤く染まった部屋。そして、血で濡れた剣を拭く、一人の人物。だが一つ、青年が完全に予想していない事が起きていた。本来なら今すぐこの敵を腰に挿した小刀で手傷を負わせ、城主を治療が出来る場所へ運ばなければならない。だが青年は動けなかった。何故なら、今目の前に立って居る者は、いや、御仁は―
嘗て目の前に倒れている者と志を共にし、青年に武と知恵を授けた筈の―青年の世話係だった筈の人物だった。
「嗚呼、坊っちゃん。来て仕舞われましたか。お久しゅう御座います。いやはやご立派になられたものだ。」
「そんな、貴方が、如何して、、、」
老人は呟く。
「誰にも判りますまい。この気持ち、この憎悪、、、」
老人の眼には、苦楽を共にしたあの時の様な輝きは宿っていなかった。
ふと老人は外の様子を確認する。見ると、この城に飾られたものと同じ旗を掲げた船が三、四隻向かってきている。騒ぎを聞きつけた仲間の船だ。
「おや、流石村上の端くれか。この時間帯だというのに来るのが早い。ではこれにて、私はお暇させて頂く。」
すると老人は、青年が声を上げる間も無く煙の様に消えてしまった。
呆然と立ち尽くす青年の足元で、小さく呻き声がする。
青年ははっと我に返り、うずくまる男に声を掛ける。
「総代!」
総代と呼ばれた城主は辛うじて聞き取れる程の声量で言葉を繋ぐ。
「早く、、蔵へ、、、奴、、鍵を、、、」
「承知しました。急ぎ向かいます。」
青年はそう云うと近くに居た仲間に城主の介抱を任せ、異能を使いほぼ一瞬で蔵の前へ移動する。すぐさま扉を開けようとすると、青年は扉の鍵がかかっていないことに気付く。青年は冷や汗を流しながら、祈る様に扉を開ける。
「っやられた、、、!」
青年は絶望した。本来この蔵の中には、「異能武器」と呼ばれる武器が保管されていた。其れらは異能を持った者によって武器に何らかの形で異能を付与して作られた武器のことを指し、中には非常に危険な殺傷能力を持った武器も多数保管されていた。その為強固な封印を施し、城主の持つ鍵でしか開けることのできない南京錠まで取り付けていたというのに。蔵には、単体では何の役に立つことも無い矢が数本残っているだけだった。
青年は立ち尽くすだけだった。結局、先刻海を眺めていた時の不安が現実となって帰ってきてしまったのだ。青年はその場から動くことも出来ず、ただひたすらに目の前に提示された惨状を眺めることしか出来なかった。
どれ位時間が経っただろうか。ふと、蔵の外から青年を呼ぶ仲間の男の声が聞こえる。其の声を聞いてか、ようやく躰が動き始め蔵の外へと出る。
「舟斗殿!ご無事でいらっしゃいましたか。こんな時にとは思いますが、急ぎお渡ししたいものが、、、」
男は、懐から紙を取り出す。
「これは、、、!」
青年は目を見開いた。今まで深い絶望で埋め尽くされていた心が一気に晴れるような、そんな気分がした。一体如何してこれを、いや、まず何処で、いや、、、様々な想いが青年の中を駆け回る。
その紙とは、名刺だった。
武装探偵社、探偵―村上真帆。
青年が長年探し求めていた人物であり、唯一の兄弟。双子の姉だった。
男は続ける。
「先日、任務のため兵庫へ訪れていた際に頂いたものです。あまりはっきりと確認したわけではありませんが、躰に異常も見られず元気そうでしたよ。」
青年は溢れそうな涙を必死に堪える。ようやく見つかった、唯一の姉。心の底からの安堵と嬉しさが、青年の涙腺を緩ませる。
暫くして落ち着きを取り戻してきたころ、青年は名刺の隅に書かれた小さな文字列に気がつく。
「横浜、、、」
そこには探偵社の住所が書かれていた。神奈川県横浜市。この地よりも遥かに発達した都市。其処に、姉がいる。
舟斗と呼ばれた青年は決意した。
「姉上に逢い、この惨状を打開する。」
青年の目は力強かった。遠くの方で微かに見える海はもう、白波を立てては居なかった。