第23話 頭も、中身も、全部腐っちゃってるんだね
……これは夢ではないだろうか。そう思えるほどの出来事が、目の前で起こっている。
ナイフを手にした火車さんは、尻餅をつき動けない俺に、容赦なく刃を振り下ろしてきた。その狙いは、正確だ。
なんで、どうしてと、考える間もない。ただ、あぁ俺は死ぬのか、とのんびりした感想を、抱いていた。
まるで世界がスローモーションになったように、迫る刃を見つめて……俺は……
ガギンッ!
……鋭い音を立てて、ナイフが弾かれるのを見た。
「主様、無事ですか!」
「……あ……え……?」
視界に映るのは、黒……黒い服を身に纏った、一人の少女の姿。
その声には、聞き覚えがある。昨日、そして今朝で嫌でも頭に残ってしまった、底抜けに明るい声。ただ、今は明るさはまったく感じさせない。
俺と火車さんの間に割って入り、ナイフを弾いた彼女は……振り向き、俺を見つめた。黒い髪、黒い瞳……口を隠すかのように、口元布を巻いている。
「く、くの……」
「しー」
咄嗟に彼女の名前を呼びそうになったが、口元に指先を当ててその先を制する。あの布は、やっぱり正体を隠すためにつけているのだろう。
口元を隠しただけでも、人の印象は変わるものだ。
「ちっ、なんだてめえ!」
「ふっ」
自身のナイフを弾かれ、火車さんはどこに隠していたのか、逆の手でもう一本のナイフを取り出す。それが、久野市さんの顔へと振るわれた。
しかし、久野市さんはそれを読んでいたかのように、上体をそらし避ける。
後ろへ飛び、同時に手に持っていたクナイを投げる。
「! ちっ」
投げられたクナイは、一直線に火車さんの顔へと向かっていく。火車さんはそれを、ナイフで弾く。
しかし、それも僅かな隙を作ることになり、その隙に久野市さんは俺の襟首を掴み、一緒に距離を取る。
「その動き、ただ者じゃねえな。何者だ」
「……答える必要はない」
「あっそ。でもま、"同業者"ってわけじゃなさそうだ。
それに、今の隙を突いて攻めるじゃなくそいつを連れて引くとは……むしろ、私とは真逆ってわけだ」
対峙する、久野市さんと火車さん。両手にナイフを持つ火車さんは、俺の知っている火車さんであるはずなのに、まったく知らない人みたいだ。
そんな彼女が、久野市さんとは真逆の立場だと、そう言っている。
久野市さんは、俺を守るために来たと言っていた。俺の命が狙われているため、それから守るためだと。つまり護衛。
その久野市さんの立場と真逆……ってことは……
「お、俺を殺そうと……してる、のか……」
「んな確認するように言わなくても、見りゃわかんだろぉ。なぁ木葉っち」
俺を殺そうとした……殺し屋のようなものだろうか。
昨夜の久野市さんの話は、半信半疑だった。だけど、こうして実際に命を狙われた以上、信じるほかない。
けど……その相手が、まさか火車さんなんて……!
「ウチは、依頼人の命令で木葉っち、アンタを殺す。悪いけどおとなしく死んでよ、その女がアンタの護衛って言うなら、アンタの言うことなら聞くんでしょ。
ソイツ、下がらせてよ」
「なっ……そんな、俺を殺す、なんて……」
そんな言葉を、火車さんから聞きたくはなかった。
「はっ、まあ同情はするよ。アンタ本人に非はない、ただ莫大な遺産が相続されただけ。なんて悲しいんだろうねぇ。けど、金ってのはそれだけで人を惑わす力があるんだ。恨むなら自分の境遇を恨みなよ。
……だからせめて、苦しまず逝かせてやろうって言ってんだ。ウチなりの温情ってやつだよ、だから、ね? おとなしく……」
俺に非はない、けれど死んでくれと、火車さんは言う。同情すると言いながら、その顔は笑っていた。
いつもの笑顔で、心が温かくなるあの笑顔で……俺に、死ねと言う。
くそ、なんだっていうんだ。人に、それも友達だと思っていた相手に、命を狙われて……こんなの……
「ペラペラとうるさい口だね、性悪女」
「……はぁ?」
彼女の言うように、自分の境遇……運命を呪いかけたその時だった。一瞬、誰の声だか、わからなかった。
けれど、そんなことを言うのは、一人しかいない。
「お金は人を変える、確かにその通り。
自分の境遇を恨め? 確かに主様の境遇は複雑なものだよ」
「そうだろ? だから、一思いにヤッてやろうって、ウチの優しさが……」
「けど、あなたさっき言ったよね。依頼人の命令だって。つまり、あなたもお金で動いている……
なのに、ぐちぐちと変な理屈並べて、自分には責任がないみたいな言い方してる。……ゴミみたいな考え方だよね」
「……っ」
彼女は、本当に久野市さんなのだろうか……俺が聞いたことのない、冷たい声だった。
火車さんに比べれば、久野市さんと過ごした時間は全然少ない。だから、火車さんの豹変に比べれば、驚きは少ない。
なのに……この、背筋が震えるような、感覚は……?
「ゴミ、だと?」
「そう。お金で雇われてるだけで、人を殺すことになんの責任も感じないあなたのこと。頭も、中身も、全部腐っちゃってるんだね」
「……言うじゃねぇか」
それは、火車さんを煽っている……のだろうか。その証拠に、火車さんの雰囲気が変わった。
これは、危ないのではないだろうか。今、火車さんは両手にナイフを持っているが、久野市さんは丸腰だ。さっき放ったクナイは、離れた位置に落ちている。
距離を詰められたら、久野市さんの方が不利だ……
「なら、そのゴミみたいなウチに殺されるお前はなんだろうな! てめえも対象と一緒に、ぶっ殺してその首を依頼人に届けて……っ」
「それに、話も長い。挑発に乗って周りが見えなくなる。そんなんじゃ殺し屋なんて務まらないと思うんだけど……
ま、どうでもいいか」
激昂する火車さんは、ナイフを構えて踏み出す……かのように、見えた。だが、そうはならなかった。いや、できなかった。
それは、まばたきの間の、一瞬の出来事。俺の目の前にいたはずの久野市さんの姿は、消えていて……
離れたところに立っている火車さんの後ろを、取っていた。それだけでなく、火車さんの手首を掴み、火車さんが持っているナイフを火車さん自身の首に突き付けていた。
ほんの、一瞬の出来事で……俺を殺そうとした女の子が、捕らえられた。




