子供
◆個室
そこには変わらない無人の個室。 では、無かった。
何者かの気配がする。もともと1人用の狭い個室だ。どこから視線を感じるかなんて、すぐにわかってしまう。視線の感じる先、テーブルにこちらも目を配る。薄暗い部屋で見えづらかったが、確かにテーブルの下に子供台のシルエットが座ってこちらを見上げていた。
ただ、顔ははっきりと見えない。これは部屋が薄暗いからでは無かった。初めから、例えるならピンボケした写真のようにゆらゆらと顔のみが歪んでぼやけているのだ。
あの時、ガラスの反射越しに見た子供の顔は反射で見え辛かったのではなく、あれで正しかったのだと理解した。
「なんで…」
お前がここにいるんだよ。その一言が言葉にならない。
指に力が入らず、持っていた布巾が床に落ちる。
子供は一瞬、落ちた布巾に目をやるが、すぐに俺の顔に視線を戻した。
互いに動かないこと数秒間。
まるでさっきの繰り返しだ。
そして、品定めしていた様な視線が歪んだ。
「『みつかっちゃった』」
今回ははっきりと聞こえた。低く枯れた成人男性と甲高い女性の声が混じったような、二重に聞こえる不思議な声だった。
のそりとテーブルから出てきたそれは、言葉を続ける。
「『こんどはこっちがみつけるばんだね』」
「は?」
グニャリ、という擬音が正しいだろうか。分かりにくい表情が、さらに分からなくなる。
辛うじて、声の抑揚からそれが楽しそうなことは感じ取れた。そして、それが楽しそうな声を出したことに、怖気がする。
こいつが言っていることは、きっとそのままの意味なのだろう。
かくれんぼ。鬼役が隠れている人間を見つける遊戯。
大人から子供まで、誰でも知っている簡単な遊びだ。
ただ、なんで俺がコイツとかくれんぼをやらなくちゃいけないのか、それだけが分からなかった。
隠れた方がいいのか。どこに?バックヤード?トイレ?裏口から逃げる?
コイツは、どうやって俺を見つける?いつまで隠れていればいい?
正直、この空間の中で見つからない場所の想像がつかない。
なぜなら、隠れられる場所なんて今までのバイトの中で考えたことがなかったからだ。
考えを張り巡らしている間も、それはゆらゆらと揺れて待っていた。
無理だ。ここでは、きっとすぐに見つかってしまう。
さっきまで、きっとこの子供は散々探し回っていたのだろうから。
ならば、違う場所…。絶対に見つからず、逃げ通せる場所……。
体は血の気が失せているのに、頭だけはしっかりと働いている不思議な感覚。
時間としては、どれほど経っただろうか。硬直して数分か、数十秒か。
体感時間としてはもっと長かったが。その最中、普段の数倍は頭を回転させたおかげで馬鹿な考えが一つだけ浮かんだ。側から見れば、馬鹿な考えだろうけれど。これしか思いつかなかった。
かくれんぼというのであれば、隠れる間は待っていてくれるはずだ。
一般的なルールであれば、かくれんぼは決められた秒数を鬼が数え、数え終わったなら鬼が捜索開始の合図を送る。
「もういいかい」
隠れる子側が隠れ終わったなら。
「もういいよ」
隠れる側が、この言葉を発した後に鬼役が動き出すのだ。
ならば。開始の合図を言わなければどうだろうか。
賭けだが、これはいい考えだ。
久しぶりに、自分が冴えていると斉藤は感じていた。
そんな斉藤を、空虚な瞳で「それ」は眺めている。ゆとりが出来たからといって、怖くないわけではない。
乾いた喉を湿らせるため唾を一つ飲み込み、斉藤はゆっくりと口を開いた。
「まだ、だよ。まだ。……待ってくれ」
斉藤の言葉を聞いたそれは、ゆらゆらとしていた顔の揺れを止めた。
やばい。失敗しただろうか。間違えた?
ぶわり、と全身に冷や汗が流れる。先ほどの女性客の悲惨な姿が頭に浮かんだ。
「『いつまで?』」
今度は子供のような純粋な声で、それが聞き返す。
いつまでと聞かれたら、できればいつまでも。と答えたかったがそこはスルーする。
「とりあえず、まだだよ」
「『わかった、じゃあ、ここでかぞえてる』」
これは、上手くいったのか?心の中でほくそ笑む。
あとは、コイツに近づかなければいいことだ。
ちらり、と時計を流し見る。あと少しこの化け物を個室に閉じ込めていられるだろうか。いや、俺なら大丈夫だ。上手くいく。さっきだって上手く言いくるめられたのだ。ただ、慢心してはいけない。そういう油断が、すぐに足元をすくってしまう。大丈夫だ。俺はヘマはしない。
「あぁ、準備ができたら。教えますから」
その言葉を聞くと、ソイツは一つ頷き薄くなって消えていった。
数秒の無音の時間の後、我に帰った斉藤はゆっくりと周りを警戒する。ホラー映画なら安心した瞬間に死角から襲いかかってくるのが定石なのだ。できれば振り返るなどの動きはしたくない。…したくはないが、このまま横歩きで移動するわけにもいかない。数度の呼吸を置いて恐る恐る周りを見渡す。ソレの姿は見えないし、ゾクリとする嫌な気配も感じなくなっていた。
「ははっ…」
張り詰めた空気から解放された安堵からか、自然と笑いが漏れる。
床に落ちた布巾を拾い上げ、斉藤はそのままチーフのいるであろう、カウンターまで少し足速にそれでいて足音を立てないように移動した。
────────。
斉藤が立ち去った十数秒後。
無人の個室の扉が、ゆっくりと閉まったのを監視カメラだけが映していた。
◆
日の出を迎えるのがこんなにも嬉しいと感じたのは、いつ以来だろうか。
暗闇の端から白く、青く空模様が変化していくのを、斉藤は待ち侘びていた。
時刻は五時過ぎ。まだ静かではあるが、徐々に街の生活音が奏でられ始める時間帯。
それが六時になると、薄く明るかった空はしっかりとした青に塗り替えられ。
七時になると、車のエンジン音や人々の声で騒がしくなる。
「……やっと終わったぁ」
登りきった太陽を愛おしく見つめ、喜びを隠しきれない声色で斉藤は笑っていた。
「嬉しそうだね、斉藤くん」
「えぇ、まぁ。ここ最近で一番嬉しい瞬間ですね」
チーフから買ってもらった缶コーヒーを、ぐいっと飲み干す。
「まぁ、今日は色々あったからね」
チーフも若干の疲れが顔に表れていたが、斉藤はもっと疲弊していた。あんな化け物と一瞬とはいえ対峙していたのだ。疲弊しない方が少数だろう。ただ、そんな疲労もあと数分で帰宅できる喜びに変わる。疲労が大きい分、家に帰った時の安心感は大きいのだ。
「そうっすね。チーフもお疲れ様でした」
「斉藤くんも、お疲れ様。今日は家に帰ってゆっくりしたいね」
「まったくですね。今日は朝から呑んでもいい気分です」
そんな会話をしていると、朝からシフトに入っている男の子がやってきた。
「おはようございまーす」
「おはよー」
「おはようございまっす」
制服に着替えたのを確認し、チーフが昨日の内容などの申し送りを行なっているのを聞きながら、斉藤も私服に着替え始めた。
「本当っすか、それめっちゃ大変だったですね」
「でしょう。もしかしたら、店長とかから色々連絡あるかもしれないから。もし僕とか呼ばなきゃいけなくなったら、携帯に連絡して。寝てなかったら、すぐ来るから」
「わかりました。斉藤さんは?」
「俺は…多分寝てるから。メールでも送っといてくれると、助かるかな」
「わかりましたぁ」
「んじゃ、お疲れ様でした!」
着替え終わると、そのまま裏口から外に出る。
裏に止めてあった原付に近づき、鍵を外す。ヘルメットを取り出し、鞄を収納ボックスに入れる。
バイクの向きを変えエンジンを掛けると、原付特有の軽いエンジン音が駐車場に響いた。
それから、その場に長居したくない斉藤はすぐに公道を走り出し、ここから少し離れたコンビニまで向かった。
コンビニで買ったコーラを飲みながら、スマホで除霊について調べる。
検索内容『除霊 近く 神社 寺』
検索結果『○○市の神社一覧』
適当に目についた神社をタップする。ここから原付で行ける範囲で、すぐにお祓いをしてくれるところはあるだろうか。
何箇所かの神社や寺をネットで確認し、電話番号を確認する。
「帰ってからでいいか…」
飲み干したコーラをゴミ箱に捨て、自宅への帰路に着く。
コンビニから原付で30分程度。町から少し外れた所にある2階建てのアパート。その中の203号室が斉藤の部屋だった。
帰宅し、荷物を床に置く。飲み散らかしたアルコールの空き缶に、コンビニ弁当の残骸。掃除をするのは2週に1回程度なので、普段はテーブルの上に溜まったらゴミ袋に放り込む程度だ。
ベッドに腰を下ろし、スマホの検索画面をもう一度開く。
検索するのは「かくれんぼ」の内容。
そして、それに纏わるホラー系の掲示板などを検索する。
調べ始めて一時間程度だろうか。全くといっていいほど、有益な情報は見つからなかった。
「やっぱり、見つからないよなぁ」
スマホをベッドに放り投げ、その後自分の身もベッドに預ける。天井のシミを眺めながら、今日あったことを再度思い返す。
状況としては、自分は「アレ」を認識し、「アレ」も自分を認識してしまった。
そして、恐らくであるが「アレ」が行なっているのは、かくれんぼだ。
───あの女性客。恐らくあの女が俺の前に「アレ」とかくれんぼをしていた。どこで出会ったのか等は不明だが。きっと俺も見つかってしまった場合は同じ末路を辿る可能性が極めて高い。
昨日。正確には今日の未明。廊下で泡を吹きながら、のたうち回っていた女の姿を思い出した。
「………っ」
怖い。腹から首筋へ、ゾワリと恐怖が駆け抜ける。
急いで放り投げたスマホを手に取り、先ほど調べていた神社や寺の情報を再度確認する。
何か、助かる方法を見つけなくてはいけない。無意識に、鍵に取り付けていた交通安全のお守りを握りしめる。
お守りや護符、お祓い。ホラー映画や夏の特番でよくあることでも、現実では何をどうすればいいのかわからないことが多すぎた。
とりあえず、お祓いの電話をしたほうがいい。できれば、早急に対応してもらえる所を探そう。
やるべきことが決まりすぐに電話をかける。
数回のコール音の後に電話は取られた。
「はい、もしもし」
電話に出たのは、落ち着いた声の男性だった。
「どうしました?」
「あ、えっと。その…急にこんな事言うと、頭おかしいかもしれないんですが、変なのに目をつけられたというか。やばい霊みたいなのと今日出会って…お祓いして欲しいんですが」
「落ち着いて、お祓いはわかりましたが…説明できる範囲で教えてください」
「は、はい」
斉藤は今日の出来事を詳しく説明した。
女の客の事。子供の姿をした「アレ」の事。そしてかくれんぼに誘われたこと。
説明を聞いていた男が電話の向こうで息を呑むのを感じた。
そして。
「よく聞いて下さい。ソレはきっと私では祓いきれません。申し訳ない」
男は、同じく落ち着いた声でそう言った。
「なんでですか。俺、アイツに見付かったら殺されるかもしれないんすよ?!」
突き放された様な気がして、声が荒くなる。
「一つ、私が言えることは。貴方は無視を決め込むべきでした、見えていないふりをする。それが一番の解決策でした。でも、貴方は答えてしまった。ソレが視えると、相手にも気付かれてしまった」
「なんだよ、じゃあ。俺のしたことは、悪手だったってことか?」
あの状況じゃ、あれが最善だと思っていたのに。無視すればよかった?何を言っているのだ。
「貴方が出会ったのに似た存在は、実は皆さんよく遭遇しているんですよ、視えていないだけで。アレらはこちらが反応しなければ興味を失いますから…。でも視える人間には興味を持って憑いてきます。貴方は職場で引き離したと考えているようですが、アレらにこちらの常識は通用しません。貴方がそこに居ないと分かったら、きっと探しに行きますよソレは」
その言葉に、アレがこのアパートへ向かってくるのを想像してしまった。
「助けて下さい……お願いします」
震える声で、顔も知らない相手に縋る。
助けてくれるのであれば、誰でもいい。
「お願いしますっ!」
死にたくない。
もう一度、アレと出会すなんて御免だ。
「…申し訳ない。私では力不足です」
他を当たって下さい。と付け加えられ電話が切れた。
無音になったスマホを耳に当てたまま、斉藤は動かなかった。いや、動けなかった。
それは自分を見捨てた相手への怒りと、その相手が祓えないとまで言った存在に対しての恐怖からだった。そんなにヤバい相手だったのか、と。
数時間前に、勝ち誇っていた自分が哀れだった。