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ネットカフェ  作者: モコ犬
1/2

深夜の来店客

蒸し暑い夏の夜、梅雨も明けた7月の終わり際。

片田舎の田んぼの中にある2階建てアパートの一室、時刻は二時過ぎ。アパートの住民が寝静まった頃に男は部屋のクローゼットの中で震えていた。

暗闇の中で、男性が手に握っているのは懐中電灯と近くの神社で購入した御守り。部屋の出入り口や窓の近くには盛り塩が置かれている。部屋の中で聞こえるのは時計の秒針の音と自分の荒くなっている呼吸音だけ。

「…なんで、こんな目にっ」

思わず、小声で悪態をつく。なんで、こんな目に遭わなくてはいけないんだ。何も、俺は悪いことなんてしていない。運が悪かっただけだ。

こんな状況になってしまった原因の、この数日間を焦る頭で可能な限り、冷静に振り返る。

そうだ。あれはーーーーー。



斉藤(さいとう) 和人かずと27歳。

彼は片田舎にあるネットカフェで働きながら、毎日を過ごしていた。

今日も深夜のシフトに入っており、静かな夜の店内で返却されたグラスや食器をゆっくりと洗っていた。

時計に目を向ける、あと数時間、上がりの時間までは、こののんびりとした時間を過ごすのだろう、と彼は考える。このような田舎にあるネットカフェでは平日の深夜帯では客も数える程度にしか居ないのだ。さらに時刻は深夜1時過ぎ、来店している客も半数以上は寝ている頃だ。

この後に行う業務といえば、漫画や雑誌の整理とドリンクバーの清掃。次の業務を考えながら、洗い終わったグラスや食器を布巾で拭き終わると、食器棚に戻す。

「あ、斉藤くん。洗い物終わった?」

カウンターから声がかかる。そちらに視線を移すと、深夜チーフが暇そうに雑誌を見ていた。

「はい、終わっちゃいました。新刊って今日無かったっスもんね」

漫画や雑誌なんかは新刊が入る場合、新刊コーナーや準新刊コーナーの設営なんかを行う。日によって入荷の量は変わるが、今日は申し送りを見た限り入荷はしていなかったようだ。

「無かったねー。あ、そういえばこの前教えてくれた漫画、昨日読んだけど。面白かったよ、最初は少女漫画なんて、って思ったけど意外に読んでるとハマるもんだね。あれも続き早く読みたいねー」

「でしょ。俺、ここの漫画結構読み尽くしてるんで、意外に博識なんですよ」

深夜シフトの旨み、ではないが。客が少ない時間のネットカフェ店員が空いた時間にすることといえば、スマホを触るかこんな風に漫画や本をカウンター裏での控室で読むくらいだろうか。

「でも、あれだね。恋愛物とか読むと。彼女とか欲しくなっちゃうね。斉藤くんは彼女いないの?」

雑誌を読みながら、定番の話題を投げかける。この話題は自分が入ってから数年、年間に十数回はされたような気がする。要するに、彼女なんで作らないの?ということだろう。

「いやー。欲しいんですけどね。出来ないっスね」

定番の返答をして、相手の反応を見る。

チーフは、「作ればいいのに」なんて予想通りの返事をしながら雑誌のページを捲っていた。



◆来店

入り口の方から、来客を告げる音が流れた。

チーフと2人で顔を見合わせる。こんな時間に珍しいなぁ。なんて考えながら扉を開けて、カウンターまで歩いていく。バックルームからカウンターまでは、扉1枚だけで隔たれている為、チャイム音がしたらすぐに駆けつけられる。

カウンターの前に立っていたのは推定20代前半の女性だった。急いできたのか、少し髪が乱れている。髪は薄い茶髪、身長はあまり高くない。しきりに入り口の方を振り向いているが、誰か後から来るのだろうか。

「いらっしゃいませ。本日はどちらをご利用になりますか?」

メニュー表、この場合は時間での利用料金と各部屋の利用表を見せる。

大体は1人ならネットを使用できる個室利用が多い。次に多いのは1~3人用の小カラオケ室の利用だろうか。

「あ…。漫画とネットが出来る個室をお願いします」

「はい、個室ですね。それでは会員カードをお願いします」


女性は会員カードを持っていなかった為、カード作成の手続きを行う。身分証明書として運転免許証を確認。住所等の情報登録が終わってから、会員カードと免許証を女性に渡す。女性はカードを受け取った後、店内を少し見て口を開いた。

「えっと、それと……店員さん達を呼んだら、すぐに駆けつけれそうな部屋ってどこですか?」

出てきたのは、おかしな質問だった。

「えーっと…」

「あ、ごめんなさい。その、夜中に1人だと。その…不安なので…なにかあったら」

俯きながら、女性は両手を不安そうに握っていた。女性1人での利用に不安がある客が一定数いることは知っている。

「あ、わかりますよ。それでしたら…えーっと。この部屋はどうでしょうか。ここから近くで、物音がしたら多分気付けると思いますよ」

その言葉を聞くと、女性は頷き了承した。

「…じゃあ、その部屋でお願いします」

席の伝票をを渡し、女性が移動したのを確認すると、小声でチーフを呼ぶ。

「チーフ、ちょっといいですか?」

「んー?どうしたー?」

周りに聞こえない程度の声量で先程の女性の話を一通り説明すると、チーフは少し困ったような表情をし始めた。

「それ、大丈夫なの?」

「大丈夫とは?」

「なんか、おかしくない?こんな時間に女の子1人で来て、恐いからすぐに人が来れる部屋とってくれって…。誰かから逃げてる可能性とか、トラブルになりそうじゃない?」

言われてみれば、というよりも自分でも薄々そんな気はしていた。ふと、女の子が入った部屋に視線を向ける。扉は閉められており、部屋に入った後は、飲み物すら取りに出てきていない。

本当に、なにかトラブルが起きそうな気がして、心が騒つく。

チーフの言っているようなトラブルに自分の業務時間に遭わないようにと、心の片隅で願いながらコーヒーメーカーの清掃をゆっくりと行なった。


◆アクシデント

時刻は深夜3時半。残っていた業務内容もあらかた終わらせた。

まだまだ、外は暗く。静寂の時間が変わらずに過ぎている。読んでいる途中の漫画を置いてグッと背筋を伸ばす。


結局、あの客が来てから2時間近く経ったが何も起ききていない。

スタッフルームにある監視カメラの映像に目を向けるが、映像内には誰の姿も映っていなかった。


カメラ1:入り口前。異常なし。

カメラ2:裏口出入り口前。異常なし。

カメラ3〜5:漫画コーナー。異常なし。

カメラ6〜9:個室前廊下。異常なし。

カメラ10〜12:カラオケ室前廊下。異常なし。


モノクロで、少し荒い画質。その中でカメラ7の画面を何となく眺める。言わずもがな、例の女性客のいる部屋の通り廊下の映像だ。

室内の様子などは勿論わからないが、少なくとも彼女は来店してから、一度も部屋から出ていないと思う。飲み物を取りに来た素振りも無い。もちろん、絶対なんてことは言えないが少なくとも、入店した後から彼女の姿は見ていない。

ふと、入り口の映像に視線を移す。

「………あれ?」

そこには、小さな男の子がうろちょろと走り回っていた。背格好から見て、小学生くらいだろうか。

おかしいな、今日は子連れの客は居なかったはずだ。

子供は誰かを探している様子で、キョロキョロと周りを見渡している。

「どうしたの?」

隣から、チーフが顔を覗かせる。

「あ、いえ。子供が……」

「子供?こんな時間に?」

「えぇ、入り口のカメラに写ってるんで、ちょっと見てきます」

席から立ち上がり、入り口まで移動する。

もしかしたら、近くに親がいるのだろうか。それとも、あんな子供が深夜徘徊?

なんて考えながらあっという間にレジ前に到着、レジ周りを見渡すが、肝心の子供の姿が見当たらない。それどころか、子供の居た気配も無い。


「あれ?」


入り口近くの物影や屋外も確認する。外には利用客の車や無断駐車と思わしき車が数台停まっているだけだったが、思い返せばそもそも来店音すらも聞こえなかった。

首を傾げながらもバックルームに戻ると、チーフが真剣そうな顔でこちらを見ていた。

「チーフ?」

「…消えた」

「消えた?」

監視カメラの画面1を指さすチーフ。

「斉藤くんが着く前までカメラ見てたんだけど、そのまま漫画コーナーまで子供が走って行ったから、他のカメラ確認してたんだけど。全く姿が見えないんだ」

「どこかのカメラの死角にいるんじゃないですか?」

「そうかもしれないけど…。斉藤くんがカウンターまで移動する数秒で、そこまで移動できるかな?走った音も聞こえなかったし…」

チーフは怪訝そうな視線をモニターに向ける。

確かにあの数秒で移動できるとは思えない。それにチーフが言っているように走れば、はっきりと音が聞こえるはずだ。

ゾワり。嫌なイメージが浮かぶ。それはチーフも同じなようだった。

「あー、これは。見ちゃった感じかもね」

なにを見たのか。なんて無粋なことは聞かない。

チーフが言っているのは自分達は心霊現象に遭遇したのではないか、ということだ。

「俺、幽霊見たの初めてだわ。こっわ!」

なんて少し戯けながら、チーフは体を大袈裟に震わせたが、正直笑えなかった。

これだけハッキリと姿が見えるものだろうか。もしかしたら、徘徊している子供なのではないか。

「……俺、一応漫画コーナーも見回ってみます」

正直なところ、子供が隠れていれば。安心できる気がする。でもそれと同じくらいに、見つからなかった時の高揚感もある。不思議な感覚だった。何の変哲もない生活の中で、こんなアクシデントが起きるなんて考えていなかったからか。


心霊現象なんて、正直なところ信じていなかったし、仮にあるとしても自分には霊感なんてないと思っていたから、実際に体験できるなんて思っていなかった。

チーフは、やめた方がいいんじゃない?と言ってきたが。万が一、これが徘徊している子供だった場合も面倒臭いことになりそうなので、どっちなのかをはっきりさせたかった。


スタッフルームの扉を開けて、漫画コーナーに向かう。店内に子供の足音がしないか気掛けながら、足速に漫画コーナーを巡るが、子供の姿は見当たらない。漫画コーナーから出る際に天井に設置してある監視カメラに視線を向ける。きっとカメラの向こうでは、チーフが面白そうに画面を見ているに違いない。

漫画コーナーには居ないと断定し、今度は個室のある方へ向かう。まだ寝ているお客を起こさないようになるべく音を立てずに移動する。

因みに、この店の部屋割りは1人部屋が10部屋、2〜3人用の部屋が10部屋。カラオケルームが5部屋程度となっており、あとはビリヤード台が2台、卓球台が2台となっている。

現在利用中なのは、1人部屋が4部屋、2〜3人部屋が2部屋、カラオケ1部屋のみである。

現在使用されている部屋番号のメモを見ながら、客の入っていない個室を調べる。まずは奥部屋からだ。

ゆっくりとドアを開ける。未使用の部屋は灯りがついておらず薄暗い、ドアを開ければこの狭い室内だ、誰も居ないことは確認できるが念の為テーブルの下も軽く確認したら、すぐに他の部屋へ移動する。

隣の部屋も、同じように確認を行う。

まるで、かくれんぼをしているみたいだ。

扉を開ける前に、室内に子供が隠れているイメージを思い浮かべて、ゆっくりと開く。

ホラー映画では、こういう役回りは油断した瞬間に襲われるものだ。


続けて個室の確認を終え、カラオケコーナーへ移動しようとしていたら、カウンター近くの個室から物音が聞こえた。何か擦れるような、そんな音。


「見回りですか?」

背後で、消え入りそうな女性の声がした

ビクリと体が反応し、ゆっく振り返るとあの女性客が佇んでいた。眠れていないのか、来店時より少し疲れているような表情だ。

「いや…あー。はい。そうです、見回り中です」

一瞬、子供を探している。と言いそうになったが。もしも、見つけられないモノだった場合が反応に困る。

それに、お客に対して不用意に怖がらせる必要は無い。

そうですか、と女性は軽く頭を下げすぐに部屋に入っていった。一瞬、部屋の中が見えたがとても綺麗に使われているようだ。店員としては、やはり綺麗に部屋を使用してくれる客の方がありがたい。

うんうん、と1人で頷きながら、そのままカウンター前を通り過ぎカラオケコーナーの方へ移動しようとすると。チーフがカウンターから現れた。

「斉藤くん、見つかったかい?」

「いえ、後はカラオケの方だけですね。もしかしたら、あのカラオケのグループの中にいるかもしれませんし」

その可能性はかなり低いと分かっている。

「…僕も一応カメラで確認してたけど、あれから子供の姿は映ってなかったよ。斉藤くん。あれはやっぱり見えたらいけないものだと思うけどねぇ。それよりも、子供のことは忘れて仕事しようか」

正直、今できる仕事はほとんど残っていない。そんなこと、チーフも知っているはずだ。

それでも、見つけられないモノを探して遊んでいるよりは何か業務をしているほうが良いと判断したのか。

「まぁ、窓拭きでもしておこうよ」

雑巾を掃除用具入れから取り出し、手渡される。

「普段よりも、念入りに掃除しようか」

「……はい」



入り口のガラスを拭き始めて、十数分。

室内のライトに反射して、ガラスに自分の姿が反射している。

屋外に止めてある車をなんとなく見ていると、自分の後ろに誰かが立っている気配がした。チーフが来たのかと思い、振り返ろうとしたが。そうでは無いことに気がついた。

ガラスには自分の姿のみ。後ろには誰も立っていないし。近づいてくる足音も聞こえなかった筈だ。

ぶわり。と一瞬で鳥肌がたった。

振り向くことはできなかった。何かがきっとそこに居るのを確信したから。

振り向けなかったが、視線だけを反射しているガラスを使い、後方を確認する。

狼狽えながらも移動していた視線が止まった。

自分の左下。腰のあたり。うっすらとだが、反射して見えたのはあの子だった。

俺の後ろから楽しそうな顔を覗かせている。ただ、その笑顔に悪寒を感じたのはきっと本能からだろう。

───見つけてしまった。

あれだけ探していた存在を、いざ見つけてしまったことに後悔している自分がいた。しかも、探していた相手からも認識されていることに余計に恐怖心を感じる。子供はガラス越しではなく、じっと自分の顔を見上げているようだ。まるで、品定をしているような、そんな感覚に襲われる。

俺が視えていることに、子供は気付いているだろうか?頼むから、気付かないでくれ。


そうしていること体感時間で数分程度だろうか。

漫画コーナーの方から、小さな足音が聞こえたと思ったら。


「───ひっ」

お互いに動きがなかった時間が破られた切っ掛けは、女性の小さな悲鳴だった。声のした方を見ることはできないが、今現在利用している客の中で、女性客は1人だけだ。声の主が誰なのか容易に想像できる。

ガラスの中の子供が、声のする方に振り向いた。


「待って」

震える声が聞こえる。

「待って、───ねぇっ!まだだよ!」


子供が、声のする方へ指を刺した。

ゆっくりと口を開けて、何か言葉を発している。ただ、何を言っているのか俺には聞こえない。

「まだ!まだ!」

徐々に女の声が大きくなる。

「まだだってばぁああああああああっ!」

悲鳴にも似た叫び声。その間も、子供の口は止まらない。


そして。

子供が何か言い終えたと分かった瞬間。


ゴトン。 パリン。

と鈍い音となにか割れる音が二つ響いた。重いものが床に落ちたような。そんな音。

何が起きたのだろう。気付けば女性の声も聞こえなくなっていた。


恐る恐る、ゆっくりと顔を向ける。

幸いにも子供の姿は見えない。そのまま漫画コーナーと個室へ繋がる通路。その先へ視線を移す。

そこには廊下の真ん中で倒れている女性。その近くには割れたマグカップが落ちていた。


ビクッ、ビクリと痙攣している女性。

体が動かない。手に持っている雑巾の感触が、気持ち悪く感じた。

近づいて、確認しないと。何かの発作なのか。痙攣したままの放置するのはマズイ。

でも、近づくのが。怖い。

なんだ、さっきのは。なんだったんだ。

さっきまであった子供の気配は、もうしない。


「どうした!斉藤!」

突然の大声に、飛び跳ねる。

カウンターから、チーフが慌てたように駆け寄ってきていた。

「なにがあった!」

「え?」

「お客さん!大丈夫!?聞こえる!?」

すぐに女性に駆け寄り声をかけるも反応は見られないようだった。

チーフが声を掛けている間も、ビクビクと痙攣している女性。口の端には泡が溜まり、目は白目を向いている。鼻血と、頭部からの出血。出血は傷が深いのかゆっくりと血だまりが広がっているのが分かった。

隣でチーフが、すぐにスマホを取り出し。


「───あ、救急車をお願いします!〇〇町のネットカフェです。はい。いえ、女性のお客様が意識不明で廊下に倒れています。勢いよく倒れたみたいで、頭部からも出血しているようです。痙攣も見られます。え?ーーはいっ。あ、斉藤!未開封のティッシュと…綺麗な未使用のガーゼかタオル!持ってきて!あ、あとゴム手袋!綺麗なやつ!」

チーフからの指示に、やっと我に帰り。バックルームまで走る。

言われたものを急いで探し出し。すぐに廊下へ出ると、廊下にチーフの懸命な声が響いている。そしてチーフ以外の人の気配も感じてこれた。先ほどからの大声や物音に、目を覚ました他の客たちが、扉を開けて様子を見ているようだ。

持ってきた、ガーゼなんかを渡すと、チーフは少し震える声で。

「すぐ救急車来るから、サイレンの音聞こえたら、斉藤。入り口の自動電源切って、扉開けっ放しにしとけ。俺は…このまま傷口押さえとくから。頼むな。」

「は、はい」

数分後、遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めた。

言われた通り、入り口の自動センサーを切り、入り口を開けておく。羽虫が店内の明かりに誘われて入ってくるのを、不快に思いながらも遠くから聞こえるサイレン音と、赤色灯に少しだけ安堵する。




それからは、あっと言う間だった。

救急車に運ばれた女性と、急に倒れたことのみを救急隊に説明する。説明が終わり、早急に遠ざかっていくサイレンを見届けたあと、すぐに廊下の清掃に取り掛かった。

少し乾き始めていた血液の近くに清掃中の看板を立て、消毒液を作る。

感染症対策のマニュアルを見ながら、倉庫に置いてある汚染時の清掃用具を持ってくる。

「いやぁ、大変だったねぇ」

チーフが苦笑いしながら床を拭いていく。その表情は、疲労しているようで、先ほどの的確な動きをしていた人物とは思えない。

「チーフって、すごいっすね」

「いや、時々あるんだよ。体調不良で運ばれる人。斉藤くんは初めてだった?」

「はい」

「そっかぁ、じゃあ驚いたでしょ。って、まぁ俺もビックリしてるんだけど」

あはは、乾いた声。あんなことが起これば疲れて当然だ。

「でもさ、あの女の人。なんか悲鳴あげてたよね?なにかあった?」

手が止まる。

チーフを見ると、こちらをじっと見ていた。

「何かって、なんすか?」

「斉藤くん、入り口のガラス拭いてたし。近くにいたなら、何か知ってるんじゃないかなって」


あの子供の笑った顔を、思い出してしまった。

あの女性が倒れた理由は、きっとあの子のせいなのだろう。

それでは、ガラス越しとはいえあれを視てしまった自分は大丈夫なのだろうか。

最悪のイメージが頭をよぎり、背中全体に鳥肌が立つ。

(──大丈夫、大丈夫だ。きっと。俺は、なにも悪いことなんてしていないのだから。)


「いえ、なにもわかんないっすね」

あんなものと、もう二度と関わりたくない。腕時計をそっと見る。帰る時間には、まだ長い。

早く、家に帰りたい。帰って、酒でも飲んで今日のことを忘れられるくらい、笑えるDVDでも観ながら布団で眠りたかった。


「斉藤くん、悪いけど。ここは僕が掃除しておくから。あの客がいた部屋の清掃を先にお願いしていいかな?一応、忘れ物も無いかもう一度確認しておこう」

掃除が終わったら、あとで裏で少し休憩しよう。と付け加えたチーフに賛成し、すぐに個室へ移動する。


先ほどのチーフとの会話で、掃除が終わったあとの一服に、僅かながらの気持ちに余裕が生まれていた。

「さぁて、確認と掃除、ちゃっちゃと済ませますか」

扉を開ける。




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