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機械文明との戦い

作者: 鈴木美脳

【偽りの正義が存在する】


 実際には、「偽りの正義」が存在します。

 しかし、現代文明は、「偽りの正義」が存在しているとは思っていません。「正義」そのものが存在していると思っていないからです。

 現代文明は、「正義」について、曖昧で主観的で危険な概念だと思っていて、もっとずっと具体的な、物質的な財やその量を価値の単位として、社会や政策は議論されるべきだと思っています。

 その意味で、現代文明のあり方、つまり現代文明の生き様にとって、「正義」は主要なテーマではありません。

 その意味で、現代文明の概念の空間には、「正義」という概念は存在しません。現代文明は、「正義は存在しない」と考えているのです。

 しかし実際には、「正義は存在しない」という考え方は、やや逆説的ではありますが、それ自身が一つの「正義」を構成します。社会的な思想というものは常に、多数者に許容されることなどを通して、実社会における実質的な権力としての効果と無関係ではないからです。

 そして、知られてはいませんが、「正義は存在しない」という考え方は、「偽りの正義」です。

 つまりそれは、人々の幸福に対して不合理な思想であり、死力を尽くしてでも撃破されるべきものです。



【偽りの正義が存在する証拠】


 「正義は存在しない」という考え方は、「偽りの正義」です。

 そう私は主張しました。大事なのは、そこに添える論拠です。もっと言えば、大事なのは、そのための証明のテクニックです。ですからそこに、注目していただきたい。

 その証明のテクニックは、難しいものではなく簡単で、知ってしまえば何でもありません。ですが、作るのは簡単ではないし、核兵器を作るよりも意義深いことです。なぜなら、核兵器がいくつか使われても人類は死滅までしませんが、現代文明の誤謬が放置されれば、人々の実質的な幸福は破滅へ向かってしまうからです。正しい思想こそは、明日の人類のための武器だからです。

 「優れたものほど栄える」という認知バイアスが、現代文明には存在します。言い換えると、弱者や敗者の味わう苦しみは、自己責任だとして軽視されがちです。そしてその認知バイアスは、「偽りの正義」が存在することに由来してしか存在しえません。よって、その認知バイアスが存在するという明らかな事実をもとに、「偽りの正義」が存在するという潜在的な事実を証明できます。これが、証明の核になるトリックです。



【認知バイアスと現実の距離】


 現代文明を覆っている、「優れたものほど栄える」という通念。それは、「偽りの正義」です。

 もちろん、「優れたものほど栄える」ということは、話題や側面によっては明らかにありますし、自己責任と見なして妥当な話題というのも明らかにありえます。しかし、客観的で実質的な性質よりも、人々の認知がその方向に誇張されていれば、それは「認知バイアス」だと言えます。ここで批判しているのは、そのような、客観的な事実と認知との不合理なずれです。「優れたものほど栄える」という過度な信念が現代文明には潜在的に存在して、それが「偽りの正義」だと私は言っています。

 では、「優れたものほど栄える」という過度な信念とは、どのようなものでしょうか?



【肯定的信念の負の影響】


 その信念は、「努力すれば報われる」だとか、「実力があれば報われる」だとか、「才能があれば報われる」といった構造の形を取っています。

 そういった構造の考え方は、もちろん善用も可能である反面、例えば自分よりも立場が弱い人々について、「努力しなかったことの自己責任だ」とか、「実力がないことの自己責任だ」とか、「才能がないことの自己責任だ」という正当化にも汎用されてしまいます。

 そのような考え方は、現実の社会が、「平等なチャンスのある競争社会」であるほどに妥当です。つまり、「平等なチャンスのある競争社会」であるほどに、努力や実力や才能は報われると考えられるからです。しかし、現実の社会は、多く人々が思っているよりもずっと、「生まれの格差がある互助社会」です。

 つまり、ここにおける客観的事実と認知の距離も、現代文明の「認知バイアス」の一つだと言えます。

 なお、私が今言っているのは、「生まれの格差」を減らそうという論点ではありません。「生まれの格差がある互助社会」を過度に「平等なチャンスのある競争社会」だと見なすことの、心理的な欺瞞性について論じています。



【自己責任論の心理的由来】


 努力や実力や才能が社会的に報われると過度に見なすことによって、どのような心理的現象が起こるでしょうか? 3つ指摘します。

 第1には、苦しみを味わっている他人について、いくらか淡泊になることによって、そのことで自分の心を悩ませず、気楽に幸せに生きることができます。

 第2には、自分よりも社会的なステータスが低い人々を見下すことで、競争社会における自分の今と将来について、心理的な安心感と肯定感を得ることができます。

 第3には、自分が否応なく組み込まれている既存の社会体制に対して肯定的な思想を持つことで、現在の社会と摩擦することで生じうる、心理的または経済的なストレスを減らすことができます。

 「生まれの格差がある互助社会」を過度に「平等なチャンスのある競争社会」だと見なす認知バイアスによって、この3つの心理的な喜びを得ることができます。逆に言えば、そのような心理的な快楽が、その認知バイアスが存在する由来です。

 そして、このように生じる主観的な幸福は、結論から言えば、社会的な因果関係を大きく視野に入れた場合には当人の幸福にとって合理的ではないことから、「当面の幸福」にすぎない、短期的で刹那的で実体に欠く「当面の喜び」や「当面の快楽」にすぎないのだと指摘しておきます。例えば、立場の弱い人を見下して得る満足感が、人間の本当の幸福としては実体に欠く、と申し上げれば、多少の感覚的な類推はしていただけると思います。人を蔑んで笑う者は、前提として何らかのコンプレックスに苦しんでいると言えるからです。



【本当の正義が存在する】


 つまり、努力や実力や才能が報われる、「平等なチャンスのある競争社会」だと人々が見なす心理的な理由はあって、ですが同時に、大きな視野で捉え直せば、その信念は彼ら自身にとって不合理でありえます。

 そのように考えますと、先ほどの3点に照らして、次の3点の問題意識をいだくことができます。

 第1に、遠く離れた他人の苦しみであっても、それについて私達はもっと敏感であるべきではないか?

 第2に、立場の弱い人を時に侮辱し、あるいは立場の強い人に安易に媚びいる態度は、道徳的に戒められ自省されるべきではないか?

 第3に、既存の体制を成立させている近代的な社会思想の正当性については、十分に批判的な議論が継続されるべきではないか?

 結論から言うと、この3点は、正しい指摘です。ゆえに、この3点を、「本当の正義」だと言い切ることができます。

 よって逆に言えば、先ほどの3点をもたらした認知バイアスは、「偽りの正義」なのだと言い切ることができるのです。

 現代文明においては、「生まれの格差がある互助社会」を過度に「平等なチャンスのある競争社会」だと見なす認知バイアスがあるせいで、議論され優先されるべき「本当の正義」はどこまでも軽視されていて、なのにその現状を正当化する「偽りの正義」が、社会と人々の認知を強く覆ってしまっています。



【自己責任論の自明な限界】


 いくつかのことを、私は、結論から申し上げました。それらを証明する次のトリックも大切なので、注目していただきたい。

 「優れたものほど栄える」ということを一般的に主張することは、論理的に客観的には不可能です。これが、そのトリックのすべてです。

 「優れたものほど栄える」ことは、個々の具体的な事例や話題の側面としては当然にありえます。ですが、個別的ではない一般的な理屈としては、その考え方は妥当な近似ではありえません。

 それは、始めから、集団的な一種の社会病理としてしか存在しえない発想であり、認知バイアスによってのみ眼前に浮かびうる幻影なのです。

 例えば、他者のための自己犠牲的な行為というものが、人間にはありえます。利益のない親切を他人に対して行ったり、あるいは旅先においてマナーを守ったり、そういったことは広く、数理的に厳密に言えば、自己犠牲的だと捉えられます。あるいはもっと強く、例えば技術者倫理にこだわって社内で地位を失ったり、あるいは祖国を守るために進軍して命を落としたり、自己犠牲的な行為というものは、人間の社会には、陽にも陰にも広く潜在しています。

 そのような、協調的であって競争的ではない因果をすべて軽視し尽くした果てにしか、「優れたものほど栄える」という認知は起こりません。

 そして、人間社会の現実は、近代経済学の自由市場原理で捉えきれるものではありえず、競争的のみならず協調的な側面を常に残します。よって、「優れたものほど栄える」ということが一般的に起こることはありえませんから、正当にそう主張することもできません。利己主義への完全な満足は私達人間にとって必ず悪手であり、私達は、自分以上の偉人達が味わった苦しみへの敬意と感謝を捨ててしまうべきではないのです。

 個人のスペックを経済で測るあまり内面の良心の価値を見捨ててしまうべきではないし、さらに言えば、幸福の概念を物質的な安寧に帰着させてしまうべきではありません。

 よって、利己主義に満足することの社会的な正当性は否定されますから、「正義は存在しない」という事実上の正義が「偽りの正義」だとは示されました。



【弱き心から湧く邪心】


 「優れたものほど栄える」という客観的な現実が一般的には存在しないなら、どうしてその認知だけはあるのでしょうか?

 それはすでに、3つの快楽として説明しました。

 人間は、集団としてはとても強い動物ですが、個々人はとても脆弱です。自分一人では生きていくことができず、社会から弾き出されれば死んでしまいます。

 ですから、人間個人は、属する社会の圧倒的な多数者に逆らう行為を決してしません。多数者という権力に逆らう論点なら、それを心の中で考えることすら絶対にできないのです。それゆえ、現代文明の「偽りの正義」の矛盾によって圧迫され滅ぼされていく人々の多くも、社会を否定して心を悩ませるよりは、自分自身こそ否定しておとなしく死んでいきます。

 社会がテクノロジーによってシステムとして発展していくほど、人間は個性の枯れた歯車としてそのメカニカルの一部にされていきます。都市化によって人間の流動性は増大し、他者の価値は互いに、かけがえのない存在から代替の効く存在へと変わっていきます。

 そうして私達はいつか、そのシステムに逆らうことをやめた。逆らうという発想を捨てました。自分よりもずっと強い相手と、必ず負ける戦争をして死んでしまうことは、まったくのナンセンスだからです。

 だから現代人は、思う「正義」を心から語り合うことをやめてしまった。「本当の正義」を語ろうとする者がいれば、「偽りの正義」の権威によって自動的に屠殺される社会が実現しました。



【私達に残された希望】


 しかし、現代文明の秩序を超えた先には、より良い幸福があるかもしれません。認知バイアスによって得られる3つの快楽は、私達にとって合理的ではないかもしれないのです。

 「優れたものほど栄える」と考え、自己責任論で淡泊に世界を見ることは、心の迷いを払い、深い安心をもたらします。ですが、そのようにして、言わば利己主義に満足してしまうことは、「本当の正義」の合理性を仮定したもとでは、自身を優先して人々を不幸にする倫理的な悪行です。

 このため、「優れたものほど栄える」という認知や発想は、必ず、何らかの悪意に基づいているのだと言ってしまえます。非常に厳密に見ればそれは常に、私的利益のための反社会的で積極的な視野狭窄でしかありえないのです。

 当面の私的な安心感と、長期的な人類全体の幸福とを客観的に区別した視点を持つならば、こういった俯瞰的でメタな議論を論理的に展開することはどこまでも可能です。「偽りの正義」に覆われてしまっている現代文明の問題は、適切に対処し解決される余地をまだ明らかに残しています。

 つまり、この戦争は、必ず負ける戦争ではないのです。



【人間のための社会へ】


 私達人間は、限りなく知的ではありません。

 そして、社会システムというものは、私達人間とはまた別の生き物です。

 社会システムが、テクノロジーによって強大で巧妙になっていくことは、時の流れの必然であって避けられません。

 しかし、そのシステムの不幸な奴隷として生きる運命を選ぶか、あるいは幸福な細胞として生きる運命を選ぶか、人類には選択する余地があります。私達人間は、私達人間自身にとって幸福な秩序を形成していかねばなりません。

 その意味で、システムつまり文明は、「機械文明」として発達していきます。

 そこにあって私達は、機械文明から下される命令によって、兄弟同士で殴り合い殺し合って満足しているような存在へと、貶められるべきではありません。

 そこを区別する分水嶺は、私達の心に「良心」が残されているかどうかです。利己性に満足する単位ほど便利に都合良く酷使できるからです。

 他者の苦楽に共感し、苦労を憐れんで共に担いうるような、内なる心の「良心」という正義、つまり「本当の正義」に基づいて、私達の価値観が私達のためのものへと再構成されたとき、そしてそのときに限って、私達人間は勝利を手にすることができます。



【機械文明との戦い】


 以上の理由により、私達は、この「機械文明」の「偽りの正義」と戦っていくべきなのだと、私は考えます。

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