11
「あ、この辺で結構です。ありがとうございました。」
彼女の家のそばまで来たらしく、別れを告げられた。
遡ること30分前。2人で居酒屋を出ると彼女はそのまま繁華街の方へ歩き出した。
特にどこに行こうと言う示し合わせもなく進みだす彼女を引き止めるのも何か違う気がしてついていくことしか出来なかった。
ただ2歩後ろをついていく。彼女は行きたい店でもあるのだろうか。迷うことなく突き進む。繁華街を通り抜けた辺りで怪しいなとは思い始めた。そのまま駅の裏のホテル街も抜けて住宅街の闇の中に踏み入れる。
期待していたわけではないが、どこに行くのかわからない不安とホテル街を素知らぬ顔で抜けていく姿にガッカリして肩を落とす。
それから30分歩いたところで別れを告げられた。
彼女は僕が家まで送るよ、ととったらしい。思い違いも甚だしい。てっきり次のお店に付き合ってくれると勘違いしていたようだ。
「じゃ、じゃあ、気をつけてね。」この事態を受け入れられず歯切れが悪くなる。
「あ、あの、先輩は家こっちの方なんですか?」
「あ〜、うん。そうだよ。」全くの嘘だ。店を出た時点で逆方向に歩いていた。
「そうですか、よかったです。それではお疲れ様でした。」そう言って彼女は角の向こうへ行った。
「お〜笹川。昨日はどうだったん?もしや火遊びしちゃったか!?」
そう言うのは昨日居酒屋で隣に座っていた友人だ。モヤモヤして眠れなかった僕が1限にそのまま出席するのは当然のことだが、代返が当然の彼が1限から出ているのは珍しい。
「それが何も言うことなく家まで送らされたよ。」
「え、てことは初日から家上がったのか!?」
「違う違う。ただただ家の方角まで送らされて、よくわからない道端でさよなら〜って。」そう言って僕は机に突っ伏す。
「ガードは堅かった…ってことか。モテ男の笹川でも落とせない女もいるもんなんだな。珍しい。」友人は顎に手を当てながら関心したような表情を見せた。
「なんだそれ。よく分からないけどお前が1限に出ている方が珍しいんじゃないか?」
「いやいや、笹川くんよ。健全な大学生たるもの、朝から授業に出るのは必然であろう。」
そう言った彼は前日と服装が変わらず、ほんのりと女性もののシャンプーの匂いがした。あの後彼女の家に行って朝までよろしくやっていたのだろう。自分を健全と言い張った彼は、その日の授業全て居眠りで過ごした。
3限が終わり15時を過ぎたあたりで僕は時間が空いてしまい、部室で本を読むことにした。
部室に行くとハルがただ1人座っていた。
窓際の席で膝の上にペーパーバックを乗せて読んでいた。
ドアを開けた人物が僕だと把握すると、こんにちは。と呟いて本に目線を戻す。
昨日のことがモヤモヤしていて、その話をするべきだろうか。とは思いつつも、自分が本を読んでいるときに関係のない話をされてもイラッとするだけだ。だから声をかけることなく最近読んでいたシリーズ物の本を手に取り彼女と対角に座った。
そのあとは誰も部室に来ることなくお互い一言も発さず本に集中していると僕のお腹が鳴る音でいつの間にか日が暮れていることに気がついた。
彼女もその音を聞き外を見て、良い時間になっていることに気がつき本を棚に戻し、そのまま帰り支度を始めた。
僕は昨日のことが悔しいのか、何か引っかかってそのまま見届けることができない。
夕飯でも誘おう、昨日の反省を生かしてはっきりと目的を伝えよう。
そう思っていた矢先、彼女から「笹川先輩、そう言えばこのあと暇ですか?」という誘いなのか分からない問を投げかけられた。何よりも、昨日まで僕は彼女のことを知らなかったし、名前もいった記憶がないのに知っていることに驚いてしまった。
彼女の問いにただ暇だと言うのは何故だか悔しいが、何もいい口実は見つからず、素直に応える。
「そうですか、昨日のお礼がしたいので、夕飯ご一緒してもらえませんか?」そう、完全に僕の役目は取られた。
昨日から思っていたが、彼女は大人すぎる。何もかも彼女の調子に持っていかれてしまう。
しかし、誘おうと思っていた上に暇と言ってしまった手前、断ることもせずただ言いなりになる。
彼女の好きなお店を教えてくれるらしい。
そして辿り着いたのは、大学前駅のそばにある寂れた喫茶店だった。
いつも見るお店だが入ろうともしないし名前さえ知らない。なんとか蔦の裏にある看板の文字を読み上げる。
「ダイ…リン?」
「そうです。私ここのホットサンドが好きなんです。」
「へぇ〜そっか。」
そのまま無言になりお店のドアを開ける。正直喫茶店は普段いかないし、男子大学生の腹を満たそうとするものならば、格安食べ放題よりも高くつくイメージがある。少し渋い気持ちにはなりながらも、断るのは失礼だしただ好感度が下がるなと思い、そのまま後に続く。
ドアについた鈴の音が古臭い。そして、店に入ると、中も寂れた喫茶店の印象そのものだった。ただ、コーヒーの良い香りだけがこの空間を演出する材料のようだ。
ハルは迷わず窓際の席に着く。多分そこが定位置なんだろう。その後について僕も対面に座った。
「笹川さんは何を食べますか?」そう言ってハルは僕にメニューを差し出す。
思ったよりも値段は良心的だった。安心したものの、実際に来たことはほとんどないのは変わらず、メニューを見てもあまりイメージの沸かない物ばかりで正直困った。少しでも良い印象をつけるのに必死で「同じ奴が食べてみたいかな。」と苦し紛れに言ってみた。
彼女がマスターらしき人にホットサンド2つでと頼むと、その人は「今日は友達とかい、珍しいね。」と言った。それに対し彼女は「先輩です。」と応え若干の会話を交わしてマスターらしき人は戻っていく。
「あの人苗字なんて言うかわかりますか?」
「え、ああ〜みてなかったな。」
「大林さんって言うんです。だからお店の名前も…。」
「あ〜なるほど、そう言うことね。」
なかなか安直で、関心もしにくい。なんて返せば良いのか分からず、何故か嬉しそうにしている彼女を見てなんとか笑顔を返した。
そんな特に中身のない会話をしていると、ホットサンドとアイスコーヒーが出てきた。
意外と量も多く、これであれば満足できそうだ。
彼女がそのまま手で食べ始めたのを見習って僕も手をつける。
中に入っているチーズと、焼いたパンの香りが香ばしい。どれどれ、一口かじってみよう。
「…え、お、美味しい!」感動のあまり声が漏れてしまった。ハルはそんな僕を見て少し誇らしげな表情を見せた。表情の変化はかなり少ないため、なんとなく嬉しそうだと察する程度のものだが。
よくこの喫茶店に来ること、中学生の頃からここのホットサンドを食べていること、マスターがその頃はまだ白髪も生えていなかったこと、色々なことを淡々と話す彼女に何故か僕は引き込まれ、自分から話題を出すこともなく、1時間が経っていた。
食事も終え、お店を出るときにお会計をしようと財布を出すと、彼女は「お礼なので」とお金を受け取ることを拒んだ。いくら大人っぽいとは言え、年下の女性に奢らせるほど僕は腐っておらず、なんとか僕が少し多めに出すことを飲んでもらった。
そしてまた今日も彼女を家のそばまで送る。「またお礼しなきゃですね。」と言う彼女に僕は「じゃあまたご飯に行こう」と応えた。
彼女はよそ行きの笑顔で「そうですね。」と言って、また昨日と同じ曲がり角へ消えていった。