その3
「そうね。もう四年も前の事なのに、まだ忘れられないのよね。あの人のことも、あの時のことも、あの日のことも、この店のことも、あの頃のことの全部が忘れられない」美砂は四年前の写真を一枚手に取ると、
「四年前のわたしと、四年前を忘れられないわたし。どこが違うのかしら」
問いかけ、ではなかった。ただの独り言。美砂の沸き上がる独り言。それだけが、浅井との間の空間をいっぱいにしていた。
言葉が出なかった。それ以上の言葉は浅井も、美砂もでなかった。美砂の独り言の波が静まるまで、二人は言葉を出せなかった。
美砂が微笑んだ。
「あなたにお礼、しなきゃ」美砂は言った。
「要りませんよそんなお礼なんて」浅井は言った。
「オバサンのつまらない愚痴を聞いてくれたんだから」
「じゃあ」浅井は言った。「その写真、持ってかえってください」浅井の言葉に美砂の笑顔が消えた。
「こうして俺たちが、こうして話しているのも、何かの間違いです。たぶん、あなたが写真を持ってかえってくれれば間違いはなくなるはずです」
「そんな悲しいこと、言わないで」美砂の顔は本当に悲しい顔をしていた。
「そんな悲しいこと言わないで。女と男はこうして出会っているのに、間違いなんて言わないで」本当に悲しそうな声だった。
浅井は、何も言えなかった。こんなに哀しい声を浅井は今まで聞いたことがなかった。
「私は」美砂は再び話を始めた。「五年も彼とつき合っていたけど、結局、彼が好きだったんじゃなかったの。
彼の平凡な家庭が好きだったの。奥さんの話、娘さんの話、日曜日の午後の話。
それが好きだったの。彼は中々話したがらなかったけど。私はそれが好きだったの」誰に話しているでもなかった。美砂は恐らく誰にも語っていないのだろう。その口調で美砂は話した。
平凡。その言葉が浅井の頭を掠める。
「平凡ですか・・・」浅井は言った。平凡。いつか自分もその言葉の意味がわからなかった日のことが頭をよぎる。
「何かあなたにもあるの?」美砂は静かに言った。
浅井はしゃべろうとした。かつて自分にも恋人がいたこと。
その恋人は今はもういないということを。どこにでもあるような話。それを浅井は喋ろうとしていた。
美砂は待った。じっと待った。浅いが口を開くのを。
沈黙があった。二人は、その沈黙の中にいた。二人のテーブルを静けさではない沈黙が包んでいた。
しかし、浅井は喋らなかった。浅井は途中まで動き始めた口をつぐんだ。
それでも美砂は待った。美砂は待つしかなかった。辛抱強く美砂は待った。音のない空気が二人の間につまっていた。
電話が鳴った。浅井の携帯だった。沈黙が途切れた。浅井は電話に出て何やら話し込んだ。
「すいません事務所から呼び出しがかかっちゃって」浅井は腰を浮かせた。浅井の言葉に美砂はこっくりとうなずいた。
「やっぱり、話せない?」美砂は席を立つ途中の浅井に聞いた。
「いや」言ってから浅井は再び口をつぐんだ。「そうじゃないですけど」
「ごめんなさい、無理に話してもらいたくはないんだけど」美砂は言った。
「女と男の違いなのかしら。男の人は時間がかかるのね」 浅井は席を立ち上がった。
「もし、次に機会があるなら、僕も話すことができるかもしれません。それに」
「それに」美砂は促した。
「こっちだけ聞いてて、喋らないっていうのは、やっぱズルいですから」
「無理しないでね」美砂はやんわりと微笑んだ。「わたしたち初対面なんだし」
「初対面じゃないですよ」浅井は言った。
「初対面じゃないですよ。写真でもう最初に見てますから」その言葉はすんなりと浅井の口から出てきた。それが精一杯だった。
「そうね」美砂はうなずいた。「それもそうね」
美砂はこの時、この日初めて心から笑ったような気になった。
その日の夜、浅井は工事事務所に遅くまで残っていた。
もう仕事は終わっていた。あとは帰るだけだった。しかし浅井は人のいなくなった工事事務所に残っていた。
浅井はタバコを吸った。誇りっぽい事務所に煙がゆらめく。
夜の事務所には静けさだけがあった。工事機械の音もなければ、職人たちの声も聞こえない。
俺はいったい何をしているんだろう。浅井は自問した。
俺は待っているんだ。あの女が来るのを。
俺は喋りたいんだろう。昔のことをあの女に。俺はそんなに昔のことを誰かに喋りたいんだろうか。
もう浅井の手元に間違ってもってきてしまった写真の束はない。
美砂は自分の写真を持ち帰った。執拗に所有することを拒んだ写真を、すんなり持って帰らせたのは何だったのだろう。浅井にはわからなかった。
もとより、美砂のことなど浅井はほとんど知らない。むしろ写真の中の、数年前の写真の中の彼女のことのほうが良く知っている。
ガラスを叩く音がした。事務所の入口のほうを見ると、ガラス戸の向こうに奇妙な笑顔の美砂の姿があった。
美砂の口が「あけて開けて」と動いている。
浅井は最初誰がいたのかわからなかった。ガラス戸の向こうにいるのが美砂だとわかるまで時間がかかった。
美砂が何度も何度もガラス度を叩き、浅井は急かされるように扉をあけた。
「へへ〜、また来ちゃった」覆い被さるようにして浅井に寄りかかってくる。
「うわ、酒くさ」美砂から香水の香りに混じって酒の匂いが漂う。
「酔ってますよ〜」浅井は力の抜けた美砂をむりやり自分からはがすと椅子に座らせた。
「お酒、たくさん飲んじゃったもんね」美砂は声を張り上げる。歌うようなその声は上機嫌だった。
「どうしたもんか」と思いながらも浅井は事務所の冷蔵庫からポカリを出すと、椅子の上で大の字になっている美砂に差し出した。
美砂はポカリを受け取り喉を鳴らしてグイグイ飲んだ。ひとしきり飲み干すと美砂は静かになった。
「工事の事務所ってこんななんだ」椅子によりかかり美砂は狭いプレハブ小屋を見回した。使い古しのパイプ椅子が乾いた音を立てる。
「まだ居るんだ?もう十時だよ」
「いえ、帰ろうと思っていたところです」
「男の人はいつもそうなんだよね」美砂は頭をそらせて天井を仰いだ。「いつも、今来たばっかりとか、全然待ってないよなんて、ウソばっかりなんだもん」言ってから美砂は喋らなくなった。
浅井は美砂の手から空になったポカリの缶を取ると、ゴミ箱に投げ捨てた。ガランと大きな音が静かな事務所に鳴り渡る。
美砂は目を閉じていた。目を閉じている美砂は寝ているようだった。浅井は吸いかけのタバコを持った。
美砂が目を開いた。
美砂はバッグの中身をひっかきまわすと、写真の束を出した。昼間、浅井が返した自分の写真。
「へへへ」薄ら笑いを浮かべて美砂は写真を出して、一枚一枚事務所の机の上に並べた。トランプを並べるように。
「いいこと思いついちゃった」
内藤美砂は写真を一枚持つと、端にライターで火をつけた。写真の上を炎が上って行く。埃っぽい事務所の中に煙と臭いが増えて行く。
「何やってんですか」浅井は火のついた写真を持つ美砂の手首をつかんだ。美砂は写真を放さない。浅井にも動かせない、ものすごい力だった。
「なにって、燃やすの」とぼけたように美砂は言った。
美砂は燃える写真を灰皿の上に静かに置いた。灰皿の中で写真は歪みながら消えていった。灰が残った。
「何で?」
「燃やしたいから」
「そんなのダメですよ」
「どうして?」
「大事な写真でしょ」
「大事?」美砂は言った。「大事な写真だったら、あなたに渡したりしないわよ」
「じゃあ、大事じゃないんですか?」
浅井の言葉に、美砂は浅井の顔をじっと見た。
「大事だから、燃やすの」
内藤美砂はまた写真を持つとそれに火をつけた。
読了ありがとうございました。
まだ続きます