4話
誰かと朝ごはんを食べる。
いったいどれくらいぶりなんだろうか。と、頭の中で俺の人生を遡っていく。
ここ二十年は「誰かと一緒に」という記憶がない。常に一人というわけでもないが……記憶に残るような出来事は、大概、一人だった。
「ほら、行きますよ?」
ワンルームのど真ん中で一人。悲しい記憶を読み漁っていたのだが、モニカに声を掛けられて中断することに。出掛ける準備が整ったのだろう。
「あ、あぁ。って!? お、おいっ!?」
「はい? なんですか?」
「なんですか? じゃないだろ」
間抜けな声を出している彼女は、未だにピンクのバスローブ姿なのである。いくら世間離していようとも、公道でバスローブなのはおかしい。
そんな意味を込めて、
「そのままの格好で行くつもりか?」
と、これまたピンク色の紐で編まれたサンダルを履こうとしている目の前の彼女に尋ねる。
しかし、
「はい、そうですよ? なにか、おかしいですか?」
どうやら俺が含んだ心配は、華麗にスルーされたようだ。
「……公の場をバスローブで彷徨く人はいないだろ? それに、君は女の子だ。無闇に肌を曝すもんじゃない」
と、当たり障りのない口調で言うが、
「はぁ……」
返ってきたのは、ため息が一つ。
分かった。郷に入っては郷に従え。
この世界では、バスローブはスーツと同じく、公の場でも不思議ではないのだろう。そう仮定しておく。
だが、今は十二月。季節は冬だ。現に、拉致される前は、吐く息も白く、水も凍えるように冷たかった。
そして、カッターシャツとバスローブでは、
「俺より寒いだろ?」
と、両肩を擦りながら彼女へと問う。
確かに、カッターシャツとバスローブを比べれば、バスローブの方が生地が分厚い。吸水性にも優れていることだろう。
だが、肌の露出度合いで言えば、断然、バスローブの方が多い。
つまり、手首から足首まで覆っている今の俺の格好よりも、太ももから手首までしかなく、しかもベルトのような分厚い紐で前が閉じられているだけのモニカの方が寒いはずだ。
だが、彼女は首をかしげては、
「はい? 寒い??」
などと……季節感まで無いのだろうか。
「今は冬だろ? そんな格好をしていれば、風邪をひくぞ?」
「一さんの世界は、冬だったんですか?」
「………………」
その言い方は、
「……春、夏、秋、冬。今の季節は?」
ここぞとばかりにマッタリと厭らしい笑みを浮かべたモニカは、
「来週は真夏日ですよ」
と。
なるほど。
紺色より黒に近いアスファルトからは陽炎が吹き上がっている。
蝉のような耳に突き刺さる高音も、そこら中で響いている。
なにより。肌を貫通していく日射しが、夏の予感が、五感の過半数を占めている。
「靴は大丈夫ですか?」
「あ、あぁ。問題ない」
今の俺には身に付けていた衣服とここでは使い物にならない弊紙と硬貨が入った財布。異世界から拉致されたという証のスマートフォンだけだ。
つまり、今履いているヨレヨレの革靴は、彼女が所持していたものであり、下駄箱の奥に眠っていた代物。文句を言う権利も気分もない。
「で? なにか食べたいものってあります? あんまり高いのは無理ですが、私が一さんにご馳走してあげます!」
ニヤニヤと笑いながら言う彼女には、拳骨の一つでもプレゼントしてやりたいところだが……一文無しの俺には、彼女のささやかな自尊心を壊す力がない。
この世界に拉致される前のーーあと上着を羽織って仕事に向かうだけの状態で、俺は彼女のベッドに寝ていたのだ。
右のポケットに薄い携帯電話が入っていたし、左のポケットに薄い財布が入っていた。
財布があるならば、彼女の朝ごはんもご馳走できるかもしれない。
いや、それだけに留まらず、三日程度の生活ならば、なんとかなるかもしれない。
そして、中身をモニカに見てもらったのだが……
「う~ん……どれも見たことないですね」
と、一蹴されてしまった。地獄の沙汰も金次第という諺も、異世界では通じないらしい。
「何でもいい」
「う~ん……その注文は、当店では受け付けておりません」
「なら、この店のオススメを頼む」
「かしこまりました!」
元気な返事を返してきたモニカは、俺がついてきているかを確認しつつも、軽快な足取りで前を歩いていく。
歩くこと五分少々。
彼女に案内されたのは、レンガで建てられた喫茶店だ。その建物の様子から、仕事で愛知県に出向いたときに寄った有名なチェーンの喫茶店を思い出す。
「この時間帯で、なにかとお手頃となれば、喫茶店が良いかと思いまして。どうです?」
確かに、朝から脂気の多いものを食べる気分でもない。喫茶店は絶妙なチョイスだろう。
「あぁ。良いと思うぞ」
「お気に召したようでなによりです」
と、彼女は店の扉に手を掛けて、
「それじゃあ、入りましょう!」
扉を大きく開いた。