2話
「………………」
俺は少しだけ錆び付いているドアノブを握り締めたまま凍り漬けになっていた。
理由は簡単だ。目の前でホクホクと白い湯気を昇らせている発育の良い少女が居たからだ。
「あ、……おはようございます」
バスタオルで髪を荒々しく拭く少女は、俺の姿を一目見て挨拶をくれる。
「………………お、おはよう……ございます?」
状況が整理できない中。なんとか挨拶を返した俺は、開いたままの扉をゆっくりと閉じる。
何が、どうなっている?
落ち着いて辺りを見渡せば、ログハウスのような丸太が壁一面を覆っている。明らかに俺の家ではない。
あの虫けらめ……次に会った時はミンチにしてやる。二度も会いたくないが。
部屋の小物や布団の柄とさっきの少女から、この部屋は彼女の部屋なのだろう。
広さ的にはワンルーム。それと申し訳なさそうに設置された一口コンロとシンク。物が異なるため正確な判断は出来ないが、俺の部屋と同じくらいの広さだ。
「ふぅ~」
部屋の中央で傍観していたところ。ピンクのバスローブに身を包んだ少女が出てくる。
今度こそ叫ばれると覚悟した俺は、
「あのぉ……どちら様ですか?」
首を左に傾ける彼女に向かって、ため息を吐き出した。
見ず知らずの人間に対して、裸と遜色ない格好で出てくるのは、些か問題があるのでは?
「俺は人身一」
と、名乗ったはいいが、これ以上の説明が出来ない。正確には、不審者度合いが急激に上がる。
本来であれば、俺は通報されていても不思議ではないのだ。少女の部屋に不法侵入しているわけだからな。弁明の余地がない。
しかし、目の前の少女は叫び声を上げるどころか、俺に水の入ったコップを手渡してきた。
「一さんですかぁ」
噛み締めるように俺の名前を呼び、水を喉に流し込む少女。
よく考える間でもないが、目の前の少女はとびっきりの美人だ。モコモコとしたバスローブからでも、彼女のプロポーションはグラビアアイドルと遜色がないほどだとわかる。
対して、目の前にはスッポンのような位置付けであるブサイクな俺。彼女のストーカーが、ついに部屋の中に潜入した。そんな状況だと言われれば、俺ですら納得しそうになる。
「えっと……お仕事は?」
「配達の仕分け作業……」
「配達? なんの?」
「色々……だな。家具や家電、雑誌や参考書。古着なんてのも運んでいる」
「へぇ~」
「………………」
なんだこれは? 事情聴取か??
仮に事情聴取だとすれば、ベッドに腰かけている少女は、警察か、あるいは、それに準ずる職業に就いているのだろうか?
ならば、部屋の中に侵入者が居ても、叫ばずにいられることに納得が……
いくわけがねぇだろ。
「ねぇ?」
「はい……?」
少女は手に持っていたマグカップを背の低い机の上に置き、
「何か聴きたいことは?」
と、首をかしげて尋ねてくる。
聴きたいことは、富士山のように沢山ある。
しかし、どれを聴いていいのか。それがわからない。
「…………特に無いな」
と、適当な返答をしておく。「特に無い」というのは、本当に便利な言葉だと、我ながら思う。
「えっ?」
大きな瞳を点にして、彼女は驚いている。予想外な返答だったのだろうか。
「も、もう一度聴くよ? 何か聴きたいことは??」
「何か」のところを強調して、再度訪ねてくる少女。残念ながら、
「何度尋ねられても特にない」
「えぇー……」
顔をフグのように膨らまされても困る。
「ぷはぁ~……これがラストチャンスだからね? な・に・か、聴きたいことは?」
今度は俺に詰め寄るように、上半身だけを前に屈めて来る。バスローブの中は裸なのだろう。胸の谷間が直視できるほどだ。
「い、いや。とく「例えば、私の名前とか!」……」
な、なるほど。名前を聴いて欲しかったのか。
「じゃあ、名前を教えてくれ」
「よろしい!」
目の前に座る少女は、上半身を起こして胸を張り、
「私はモニカ。王立アリアナ学園の騎士学科に通っているの」
と、赤い革で作られた手帳の中を見せてくる。証明写真のような胸より上の顔写真。その写真の横には、モニカ・ヴァンと名前が書かれている。
「これでもトップランカーなんだからね!」
「……そうか」
「トップランカー」がいったい何なのかは知らないが、「トップ」というだけあって恐らく凄いのだろう。
彼女には悪いが、名前や職種を聴いたところで、これ以上の接点はないだろう。
予感や直感ではなく、俺の三十年近くの人生経験により、そう判断を下す。
幸い、通報する様子もない。彼女の気が変わる前にここから撤退するのが良策だろう。
「それでは失礼する」
少しだけ温い水で喉を潤し、俺はその場で立ち上がる。正座をしていたために、足を動かす度に鈍い電流が走る。
「えっ!?」
「え?」
腰が浮き上がったところでモニカは、今日一番の驚いた表情を見せる。
「帰るんですか!?」
帰れるものなら帰りたいが、方法に心当たりがない。
だが、
「そうだな。そのつもりだ」
彼女の家から出ていくためには、嘘でも「帰る」としか言えない。無論、帰る手段が見つかれば、直ぐにでも日本に帰るつもりだが。
「ど、何処に帰るんですか!?」
「何処って」
瞬時に思考を働かせたが、それもすぐに中断させられる。
「異世界から来た貴方に、帰る場所なんて無いですよね!?」
返答を考える余地すら無くなってしまった。