1話
それは胸くそ悪い夢だった。
自分で設定したスマホのアラームに起こされた俺は、冬場には有り難くない冷水で何度も顔を洗う。
別に、自分がブサイクだからとか、潔癖症だから、といった理由じゃない。まぁ、ブサイクな点は認めるが。
「そんなに顔を洗っても、オイラは消えないよ?」
自分の事を「オイラ」と呼ぶ人の形をした虫が、俺の視界から消えないからだ。
虫と例えたが、正確にはトンボのような細長い羽根を二対。どこぞのゲームに出てきそうな二頭身半の身体で、ワチャワチャと飛び回っているのだ。
手の平より一回り小さいのが、ワチャワチャと……鬱陶しいにも程がある。
多分、まだ寝ぼけているんだろう。だから、滝行のように顔をザブザブと洗っていたのだが……幻覚に言われては仕方がない。
ひたすら洗った顔を天日干しした紺と深緑のラインが特徴なタオルで拭き取っていく。
「じぁあ、行こっか?」
と。人型昆虫は言う。
行く? いったい何処に?
「オイラの世界にさっ!」
疑問を口にする前に、目の前でヒラヒラとふざけた事をミュージカル調に吹聴する昆虫。蠅叩きは俺の家にあっただろうか?
「それともなにかい? こんなツマラナイ世界にずっっっと! 居る気かい?」
「つまらないって所は同感だが、お前の世界が楽しいって保証もない」
今日の第一声が、こんな言葉でいいのだろうか。自分の台詞が耳に届くのと同じくして、そんな感想を抱いた。
だが、
「それは大丈夫だよ! なんたってーー」
昆虫はめげずに続ける。
「美女、美少女が、ウハウハなパラダイスっ! なんだからっ!!」
と。
「ふざけるな」
ハイテンションな害虫と異なり、俺のテンションは地面に墜落した。もともと低空飛行していたのも原因だろう。
「ハーレムなんぞに興味はない」
そもそも。そう言うのは、見た目も性格も抜群にいい奴か、巨大な権力を持った人間に与えられるものだ。
いや、そういう人間に自然と形成される一種のコミュニティだ。
「え……もしかして、ゲ「俺はノーマルだ」……だよね? なら、何で?」
とんでもない誤解を一蹴したとたん。害虫は首を傾けて訪ねてくる。そんな虫に、
「俺は生涯、独りで生きていく。パートナーなど要らん」
淡々と告げてやった。口にして余計に気分が悪くなる。
俺は枕元に置いてあった箱ティッシュを荒々しく掴み上げ、害虫を叩き潰そうと降り下ろした。
が。人を型どった害虫は、箱ティッシュを粉砕しながらも、空中でパタパタと浮いていた。
「……人が親切にしてやってるのに、そういう態度をとるんだ」
害虫のテンションが急降下。
それと同時に、俺の視界も地面へと向いて落ちていく。
身体の力が一気に抜けた。そうとしか表現できない状況に戸惑う。
「いいよ。そっちがその気なら、こっちも徹底的にやるから」
いったい何を?
と口にしたつもりだったが、声が一切出ない。
頭の上から降ってくる声の主を睨もうとしたところでーー
視界が真っ黒に染まった。
一面の黒。次第に音もなくなり、自分と言う存在が無くなったかのようだ。
落ち着いているんじゃない。むしろ焦っている。
だが、恐怖心も奪いさらわれている現状に、成す統べなく、倒れ込んでいるしかないのだ。
「はっ! はぁ……はぁ……」
肺に空気が雪崩れ込み、意識が戻ってくる。すぐに両手を見つめ、グーとパーを繰り返す。
大丈夫。俺の身体で、俺の意思もしっかりとある。
「……最悪だ」
朝から胸くそ悪い夢を見させられた。俺はベッドから立ち上がり、洗面所へと向かった。
既に異世界へと拉致されているなどと知らずに。