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前編

 昨日二月十三日は、国立大学の第一段階選抜合格者発表日だった。幸いにも俺は希望した学部に合格する事ができ、第二段階選抜個別学力検査と私立大学のB日程の受験に向けて、受験勉強も佳境に差し掛かっていた。

 しかし二月十四日といえば、世間は受験よりもむしろバレンタイン一色だ。もっとも、学校での成績がトップクラスで国立受験レベルの実力を持っている以外はごくごく平凡な高校生である俺には、チョコレートをもらう予定などまったくなかった。もちろん義理チョコならば、二学期まで所属していた地学部の後輩達から連名でもらったりもしたのだが。

 後輩達からの義理チョコを受け取ってから教室に戻ると、そこには既に、俺以外の誰の姿もなかった。ほとんどのクラブでは、二学期に入ると同時或いは学校祭が終わる秋ごろに三年生は引退する事になっているので、終業後まで学校内に残る者はほとんどと言っていいほどいないのだ。

 けれど、予備校に向かうために帰り支度をしていた俺の名前を呼ぶ声に反応して顔を上げると、見覚えのある女子生徒がいた。

 お世辞にも美少女だとは言えない顔立ちの彼女は、三年になって初めて同じクラスになった、井沢陽菜乃ひなのだ。記憶力に自信がある俺は、今のクラスになって間もなく、全員の顔と名前を記憶している。

 ほっそりとした輪郭にスレンダーというか寸胴というか幼児体型というか、まあ、出る所が出ていない凡そ女性らしさに欠ける体型。個性的とも言える一重瞼で、化粧っ気は全くない。近視と乱視が強いらしく、体育の時間まで銀縁メガネをかけている。いつもショートにしている髪は、真っ黒のストレート。まったく手を加えていないらしく、今時珍しいくらいの平凡な容姿。

 成績は、あまりよくなかった気がする。いつも五~六人で固まっているグループの中にいて、何が楽しいのかは分からないが、時折教室中に響くほどの笑い声を上げている。

 と、井沢陽菜乃に関して俺が知っている事といえばその程度。同じ教室で十か月もすごせば誰でも知り得る範囲の情報だけだ。

「足立、君。これ、よかったら」

 彼女が、背中に隠していたらしき小さな包みを差し出して来た。今日が二月十四日という事は、恐らく中身はチョコレートだろう。しかし、だ。俺と井沢とは、言葉どころか挨拶さえもろくに交わした事がない。くどいようだが、同じ教室に十ヶ月間もいたにもかかわらず、である。

 そんな井沢が俺にチョコレートを渡そうとするなんて、まさか本気だとは思えない。

 小さな包みを持つ手が微かに震えているのは、恐らく緊張のためだろう。だがその緊張の理由がどこにあるのかまでは、見ているだけでは判断をつけかねた。

「あ、の?」

 そんな事を考えていた俺に、不安そうに井沢が小首を傾げる。

 その時ふと、俺がよく話をするクラスメイトの吉野と熊本が、時々井沢と言葉を交わしていた事を思い出した。おそらく彼女がまともに話をする男子生徒は、あの二人くらいなものだ。悪い連中ではないのだが、時折悪ふざけをする事があるのも知っていた。

「井沢さん、だっけ?」

 俺が初めて発した言葉に、井沢がほっとしたように表情を緩める。

「これ、何かの冗談なのかな? 吉野達に何か言われた? でもあいつら、そんな奴じゃないと思うし」

「なにも。なにも、言われてない」

「ふうん? じゃあ、女子の間で賭けでもしているのか、それともなにかの罰ゲーム?」

 決してモテキャラとは言い難く、言葉を交わした事さえもない俺に好意を寄せるような事はあるはずがない。ならば、考えられる可能性としては、誰かに唆されたのかそれとも罰ゲームか何かかもしれないという事くらいのものだ。

 井沢の頬が真っ赤になった。俺の言葉が図星だったのだろう。そう判断する。

「悪いけど、他の奴をあたってくれるかな。俺、からかわれるのは嫌いなんだ」

 からかわれて喜ぶ人間などいない。俺は努めて冷たい口調でそれを伝える。とたんに浮かぶ傷ついたような表情に、僅かながら苛立ちを感じた。

 被害者はむしろ俺の方だというのに、これだから女なんて面倒なのだ。こんな事のために費やされた俺の時間を、返してもらいたいくらいだ。

 俺は鞄を手に取り、井沢に背を向けた。待ってという井沢の声が聞こえたが、それを無視して教室の前の出入り口へと向かう。しかしいきなり走り寄って来た井沢に追いつかれ、コートの襟を引かれたと思ったら、制服のポケットに包みを押し込まれてしまった。

 いらなければ捨てろと言い逃げて、井沢が教室から飛び出していく。呆気に取られた俺は、とっさに追いかける事もできなかった。もっとも、追いかける必要などなかったのだが。

 茫然と後ろ姿を見送っていた俺はふと我に返り、予備校の授業が始まるまであまり時間がない事を思い出した。  あまりのばかばかしさに大きく息を吐き、昇降口へと向かう。ポケットに突っ込んだ手に、無理やり押し付けられた小さな包みを感じながら。




 一夜明けて教室に現れた井沢の顔は、悲惨なものだった。

 仲のいいグループの女子が驚いたように声を上げ、それにつられるように男子の視線もそちらに向く。俺もその例外ではなく、ついうっかり見ていると、井沢と目が合った。

 当然の事といえば当然なのだが、井沢は慌てて俯き、不自然なまでにわざとらしく視線を逸らしてしまった。昨日の今日では、無理もないのだろうけれど。

 様子を見に行っていた吉野が戻り、どうやら徹夜で本を読んでいたらしいと、頼みもしないのに報告して来た。やはりこいつが井沢を唆したんじゃなかろうか。そう思ったが、吉野が俺に言ったわけではなく、同じ場所にたむろしていた熊本に教えたのだとすぐに気付き、こっそりと安堵の息を吐く。

 昨日井沢が去り際に俺に投げかけた

『誰にも何も言われていないし、賭けでも罰ゲームでもないから』

という言葉がどこまで本当なのかを判断するには、俺はあまりにも井沢の事を知らなさすぎた事に、この時になってようやく気付いた。そしてそれは俺が、よく知りもしない井沢の事を、根拠もなしに疑っていた事の裏返しでもあったのだ。

「井沢さんが暗く沈んでいるのって、すんげー珍しいよな」

 熊野の言葉に、いつものうるさいくらいの笑い声を思い出す。

「俺、何回か近くの席になった事があるんだけどさ。話しかけるとびっくりした顔をするんだけど、なんてーの? 恥ずかしそうにこう、にこって笑いかけて来るんだよ。それがなんか面白可愛くてついついかまっちゃうんだけど。熊野もだろう?」

 吉野のそれは、恐らく、異性としてよりも珍しい生き物やペットに対するのと同じ感情なのだろう。その口調からそう理解できたにもかかわらず、頭のどこかで面白くないと感じている俺がいる。

 それがどういう事なのかと考える前に予鈴が鳴り、俺は思考を中断せざるを得なくなってしまった。




「足立君、ちょっとそこまで来てくれる?」

 一時間目が終わり休憩時間に入ると同時にご指名を受けた相手を、顔を上げて確認する。たしか、隣のクラスの小室かおりだ。くっきりとした二重瞼にぱっちりと開いた大きな目が印象的だが、取り立てて美人というわけでもない。ダイエット志向が強いのか何なのか瘠せすぎなんじゃないかと思うような体型の女子が多い中で、出る所は出ているふっくらとした体型の彼女は、その性格の穏やかさも手伝って、実は一部の男達から妙な人気を集めていた。妙なというのは、まあ、オトシゴロの男の考える事だからあっち方面が主なのだが。

 そんな小室に名指しされた俺に、いくつかの視線が突き刺すように注がれる。羨ましがられるのは苦ではないが、あいにく小室は俺の好みというわけではない。さらにいつも見かけるおっとりのほほんとした雰囲気とは異なり、その大きな目が真っ直ぐに俺の顔を睨みつけて来ていた。

「悪いけど、忙しい」

 何が嬉しくて、こんなけんか腰の呼び出しに応じなければならないというのか。

「あなたが昨日泣かせた井沢陽菜乃の事で、話があるのよ」

 声をひそめて言う小室を、まじまじと見た。そういえば、井沢と小室は仲が良かっただろうか。二人のどちらにも興味がなかった俺は、曖昧な記憶を辿ってみたが、よくはわからなかった。

「泣かせた?」

 思わず井沢の席に視線を向けたが、どうやら授業の後半に居眠りをしたままの状態でいるらしい。原田が起こそうとして肩を揺すっているのが見て取れた。

「今日のひーこちゃんの顔を見て、分からなかったの? 足立君って、バカ?」

 小学生のガキの頃ならともかく、近年俺に向かって「バカ」呼ばわりする人間など皆無に等しい。ある意味新鮮だが決して嬉しくはないその言葉に、思わずむっとしてしまう。

「わたしは別にかまわないんだけど。ここにいるみんなの前で話したって」

 いちおうこれでも気を遣ってやっているのだという恩着せがましいその言葉に、これが癒し系とうわさに聞く小室かおりと同一人物なのかと疑いたくなるのも無理はないだろう。

 教室内で話すにしては、さすがに聞こえのいい話題ではない。仕方なく立ち上がり、それを確認した小室が歩きだした後に続いて教室を出た。




 小室が向かったのは、三年生の教室がある二階の水飲み場の一つだった。この寒い中、小室は物好きにも、掃き出し窓から外のテラスに移動している。必然的に俺もそこまで行かなければならないのだろうが、そうと分かっていればコートを着て来たのだが。

「最初に聞いておきたいんだけど。足立君、ひーこちゃんからのチョコ、まさか捨てたりしていないわよね?」

 どうやら、昨日井沢が無理やり俺の制服の上着のポケットに押し込んで行ったチョコレートの事らしい。まずいな、頭の隅で思いつつも、表情を変えるようなヘマはしない。

「まさか。いくら俺でも、そんな血も涙もないような事はしない」

 嘘は言っていない。

「信憑性がないんだけど? っていうか、今間違いなく手元にはないんでしょう」

 すうっと、大きな小室の目が細められる。

 ぎくり。顔には出さずに、少し焦った。なぜわかるんだ。もしかして読心術でも使えるのだろうか、小室は。

「足立君って、見かけ倒しなのね」

「は?」

「小さい時に言われなかった? 自分がされて嫌な事は、人にはするなって。よく知りもしない相手の事を思い込みだけで勝手に蔑んで傷つけるなんて、人間としてサイテーの行為じゃない?」

 確かに、俺は昨日、井沢を傷つけたのだろう。しかしそもそも、俺の事をよく知りもしないうえに言葉を交わした事もない井沢が、いきなりバレンタインチョコなんて物を寄越したりしたからだ。

「ひーこちゃんはね。もう何か月も前から、足立君の事が好きだったんだから。ひーこちゃん、こういう事には鈍感だから、最初は好きだなんて気がつかなかったみたいだけど、それでもやっと最後の最後に好きだっていう気持ちだけ伝えたいって、頑張ったのに。それをなに? 誰かに唆された? 罰ゲームだ? 人の気持ちを平気で踏みにじっておいて、よくも涼しい顔で学校に来られたわね」

 女のヒステリーほど見苦しいものはない。けれど小室は静かな口調で、淡々と言葉をつないでいく。俺は呆気に取られながらも、その言葉をとりあえず聞き逃さないように留意した。後で聞いていなかったなんて事になったら、何を言われるかわかったものじゃない。

「ひーこちゃんって、人前では絶対に泣かないのよ。わたしの前ですら、数えるほどしか泣いた事がないの。それなのに、昨日足立君に会ってからはずっと泣きっぱなし。一晩中泣きでもしない限り、あんな顔にはならないわ」

「ちょっと、待ってくれ」

 気が済むまでは言わせておこうと思ったのだが、いい加減一方的な物言いに辟易して来る。

「井沢さんが俺に好意を持っていたとして、だ」

「仮定じゃなくて、そうなのよ」

「わかった。とにかく、井沢さんが俺の事を好きになったのは井沢さんの勝手だし、告白して来たのもそうだ。ろくに話した事もない、顔と名前くらいしか知らない相手から一方的にコクられて、それに応えなくちゃいけない義務なんてあるのか?」

「足立君には、ろくに話した事もない相手であるひーこちゃんを心ない言葉で傷つけて、一晩中泣かせる権利があるっていうの?」

 そういう事を言っているわけじゃないんだが。

 そろそろ疲労を感じ始めた時、水飲み場から駆け出した井沢が小室の名前を呼びながら、息を切らせて飛び込んで来た。

「わたしの大切なひーこちゃんを泣かせた男に、自分がした事の重大さを教えていたのよ」

 小室が俺を責めていた事は、どうやら井沢の想像通りだったらしい。

「ななななな、なに、言ってるのっ!」

 慌てて小室を止めようとしているらしいのだが、そんな事くらいでは気がおさまらないのか、小室はなおも俺を険しい目つきで睨みつけて来る。

「チョコレートを渡すまでひーこちゃんがどれだけ悩んでいたのか知りもしないで、勝手に勘違いをしてひどい言葉で傷つけるなんて。こんな最低なクソ野郎、ひーこちゃんが許しても、このわたしが許さない」

 女がクソとか言うなよ。心の中で密かに突っ込みを入れながら、仲裁の役目を果たしていない井沢を見た。目の下の隈は、女子達のみならず吉野や熊本が気にするほどひどく、泣き腫らした瞼が腫れぼったい。慌てて走って来たからだろう、ショートカットの髪がぼさぼさに乱れ、かなり見苦しい状態だ。

 どうして俺がこいつのために小室に詰め寄られ、こんなに居心地の悪さを感じなければならないのか。

「井沢さん」

 文句の一つも言ってやろうと思い声をかけると、明らかに井沢の肩が跳ねた。今にも泣き出しそうに歪んだ表情には、怯えの色が混ざっている。これではまるで、俺が苛めているようだ。

 さらに言葉をかけようとした時、タイミング悪く二時間目の始業ベルが校舎内に鳴り響いた。小さく舌打ちをして井沢を見ると、ほっとしたのかいくぶん表情から強張りが消えている。

 授業が始まる事を口実に、井沢はその場所から小室を連れ出す事にしたらしい。俺としても貴重な自習時間が削られるのは避けたかったし、小室から解放されたかったのでちょうど良かったのだが。

「ごめんね、足立君。授業始まっちゃったけど、今から急げば、遅刻にはならないと思うから」

 小室の腕を取って引っ張りながらも、あくまでも井沢は俺と目を合わせようとはしない。それが卑屈に見えて、なぜか腹が立った。けれど井沢にそんな態度を取らせる原因を作ったのが俺自身なのだと思い至り、もう一度小さく舌打ちをする。

 ごめんねを繰り返しながら教室に戻っていく井沢の後を追うように歩き出した俺は、知らず唇を噛みしめていた。

※この作品は、2007年3月に書いたものです。大学受験システム・日程等は当時のもので、現在とは異なっていますので、ご了承下さい。

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