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ロサンゼルスの夜が明けようとしていた。朝日がダウンタウンの高層ビル群に差し込み、ライブラリータワーが街に影を落とす。いつもならまばらにだが人を見かけるこの路地も、夏の休日の陽気のせいか、時が止まっているかのような錯覚を受ける。
止まった秒針を動かすように、足音が響いた。
カツカツと硬いブーツの音がビルの間をこだまする。彼、仁科 結一の履いた、くたびれたブーツが舗道を叩く。彼の肌を大粒の汗がいくつも伝い、筋肉という筋肉が悲鳴を上げる。時折膝が折れ、地にぶつかってはまた立ち上がる。心臓は時計の針を早送りするように大きく、早く脈打っていた。
彼には此処が何処だかもよくわかっていなかった。ただジェイ・ギブソンの体を背に担ぎ、ジェイに銃弾を撃ち込んだ誰かからひたすら逃げ惑っていた。見知らぬ街、見知らぬ追跡者。ただ一つ分かるのは、足を止めればジェイのように自身も銃弾を撃ち込まれ、ロサンゼルス・タイムズの三面あたりに自分の名が載るであろう事だけだ。
あと何ブロックだ?どれだけ走れば俺達は助かる?
身に纏うシャツを濡らす、ジェイから垂れる液体が汗なのか、血液なのか、彼には判断がつかなかった。もう死んでいるのかもしれない。しかし、彼は例えジェイが死んでいたとしても置き去りになどしないだろう。ジェイにはそれだけの恩があった。
米国籍を取得し、日本を発った仁科はまず陸軍のリクルートの扉を叩いた。ジェイとの出会いはそれが初めてだった。いくら国籍があるとは言え、突然現れた浮浪者のような異国の人間を普通は採用しようとは、人事の人間は誰も思わなかっただろう。しかし、ジェイは違ったのだ。彼は熱い人間だった。ジェイが仁科の情熱を汲み取り、粘り強く人事の説得を行った話を知ったのは彼が入隊して暫くの事だった。ジェイにとっては少し仕事に熱が入った程度だろうが、仁科にはそれを返しきれないほどの恩として感じていた。結果、3年目にはシリアで被弾し、除隊という形にはなってしまったのだが。
人情に熱い彼には、自分を危険に晒そうが、彼を置いていく選択肢など持ちえなかった。
それは彼の目の前の曲がり角から現れた。スローモーションのように見える、突き出されたそれは銃だった。銃口は牙のように此方に向けられ、持ち手の顔は悪意に満ちた笑みを浮かべていた。
フェニックス・アームズHP-22A。典型的な安物小型拳銃。安物にしてはそこそこ上品な代物だが、スラムに行けば50$もあれば手に入るだろう。
次の瞬間には、担いでいたジェイの頭が赤く熟れた果実のように弾けて欠けた。噴き出す血液は仁科の顔を染め上げ、ジェイの頭の中でシェイクされた脳が仁科の頬を伝い、唇に触れた。それを舐めてしまったかもしれない。
仁科にそれを気にする余裕はなかった。そう、次は自分の番なのだから。きっと状況も飲み込めぬまま、訳もわからない異国の路地で、たったの50$の代物に脳をまき散らされて死ぬのだろう。そうだとばかり考えていた。
カチッ、カチッ。
ジャムだ。安物銃が弾詰まりを起こした。
仁科はまた走り出した。死体となったジェイを担いで、再び休日の朝の陽気を血生臭さでかき乱す。
気が付いた時には、彼は警官に保護されていた。担いでいたジェイの死体はいつの間にか降ろされていて、死体袋に収納される様をぼんやりと覚えている。
悲しさで溢れていた。しかし涙は流れなかった。それどころか今は生きている実感すらもなく、ただただ病院の殺風景な白い部屋の中で、ベッドに寝かされて虚空を見るだけの日々を送っていた。
ある男が訪れるまでは。




