気づけば森のなかです
目が覚めたとき、俺はぷかぷかと浮かんでいた。
大空を飛んでいるわけじゃない。
地上一メートルくらいのところに、浮かんでいるのだ。
……ええと、なにこれ?
俺は寝起き直後の頭をフル稼働させて状況把握に努めるが、まったく理解が追いつかなかった。
とにかく、俺は浮いている。
それはわかった。
けど……俺は、どうして森のなかにいるんだ?
地面は湿った土が剥き出しになっていて、あたりには樹齢一〇〇年くらいの木々がうっそうと生い茂っている。
俺は風に流されるようにして、木々の隙間を縫うように森の奥へと移動しているところだった。
俺に空を飛ぶ力はないし、てことはこいつは魔法だろう。
けど、いったい誰が俺に魔法をかけたんだ?
まさか、俺が寝ぼけて俺自身に浮遊の魔法をかけたってことはないだろうし。
だって、俺は魔法杖を持ってないからな。
そうなると、一番怪しいのは俺の両親なんだけど……。
「父さん? 母さん?」
もしかして、サプライズのつもりだろうか。
そう考えて呼んでみたが、ふたりの反応はなかった。
静まりかえった森のなかに、俺の声が響くのみ。
「ていうか、いつまで浮いたまま――っ」
どすん。
俺が身をよじった瞬間、急に地面に落下した。
浮遊の効果が切れたみたいだ。軽くジャンプしてみたけど、すぐさま地面に着地する。
「いったい、なにがどうなってるんだ?」
俺に魔法をかけたのが父さんか母さんだとすると、俺を森のなかに追いやったのも父さんと母さんということになる。
どうしてふたりは、俺を家から追いだしたのか。
……まさか、俺を森に捨てたんじゃないよな?
「い、いやいやいや、そんなまさか……」
俺はその可能性を必死に否定する。
捨てられる理由が思いつかなかったのだ。
いままで大事に育てられてきたし、俺はわがままを言ったことはない。
反抗期は前世の時点で終えているし、両親に反発したことはないのだ。
俺を育てるのは、ほかの子どもより何倍も楽だったはずだ。ちゃんと手伝いもしてきたしな。
そんなわけで、父さんと母さんが俺を捨てたとは考えられない。
そうなると俺が森にいることに説明がつかないのだが、そのへんは父さんと母さんに直接聞いてみればいい。
俺は家に帰ることにした。
「早く帰らないとな」
なにせ今日は待ちに待った魔法杖を買いに行くのだ。
こんなにわくわくしたのはいつ以来だろうか。
少なくとも、転生してからははじめてだ。
「こうしちゃいられないな」
俺は深い森のなかを歩いていく。
歩いて、歩いて、歩いて……
そして――
「どこだ、ここ……」
完全に迷子になってしまったのだった。
目覚めたときより薄暗くなっているし、どんよりと湿った空気が漂っている。
どうやら森の奥深くに迷いこんでしまったようだ。
普通の五歳児なら、泣き叫んでもおかしくない状況――。
だが、俺に恐怖心はなかった。
それは俺の精神年齢がほかの子どもに比べてずば抜けて高いってのもあるが、なにより俺には鍛え抜かれた武術がある。
この世界に転生してからというもの全力を出したことはないが、そこまで衰えてはいないはずだ。
身体は幼くなっているし、筋力だって衰えているが……まあ、猪くらいなら勝てるだろう。
問題は魔物と遭遇することだけど……。
この世界には魔物が存在している、だから不用意に町の外へ出てはいけない――って話は父さんにされたことがあるが、俺は生まれてから一度も魔物を見たことがない。
てことは、魔物なんてそうそうお目にかかれるものではないのだろう。
それに、魔物に勝てないと決まったわけじゃないしな。
「こっちが森の奥深くってことは、逆方向に行けば森を抜けることができるってことだよな」
そうと決めた俺は逆方向に歩を進めるが、いつになってもゴールは見えない。
しかも、すげえ腹が減ってきた。
そういえば、今日はなにも食べていないのだ。そのうえ歩きまわったことで、かなりの空腹感に襲われる。
ちょっとどこかで休むか……。
そんなことを考えながら歩いていると、近くに巨大な岩を見つけた。森のなかに突然出没した岩には、ぽっかりと空洞が空いている。
ちょうどいい、あそこで休むか。
俺は岩に向かって歩を進める。
近づくにつれ、岩はますます巨大に見えた。空洞の上下には氷柱みたいに尖った岩が何本も伸びていて、まるで怪獣の牙みたいな印象を受ける。
そして、空洞の近くには目のようなものがついており……
ぎょろり、と。
眼球が動き、俺を見下ろしてきた。
ずずず、と大地を震わすような音を立て、岩が立ち上がる。
これ、岩じゃねえ!
魔物だ!
魔物なんて見たことないが、俺は直感的に察した。こんな動物がいてたまるか!
『ブモオオオオオオオオオオオオオオ!!』
魔物が威嚇してくる。
次の瞬間、猪を何倍にも大きくしたような魔物は木々を吹き飛ばしながら俺に突進をしかけてきた。
大地が震え、俺はまともに立つのが精一杯だ。
まずい、殺される――!
死に直面した瞬間、
ぶちん、と。
俺のなかでなにかが弾けた。
◆
老人は森を駆けていた。
一〇〇歳とも、三〇〇歳とも見て取れる。まっしろな髪と髭を生やした、年老いた男だ。
彼は凄まじいスピードで森のなかを疾走している。
先ほど食事をしていた際、魔物の咆哮を耳にしたのだ。
あれはこの一帯の主たる魔物――ベヒーモスの鳴き声だ。
本来、ベヒーモスはおとなしい生き物だ。
気弱なのではなく、王者の余裕を纏っている。たとえ多くの魔法使いに囲まれようと、落ち着きは失わない。なぜなら、ベヒーモスは強いから。
そんなベヒーモスが、あそこまでの咆哮を響かせた。
どんな状況でも落ち着いている森の主が、威嚇したのだ。
あのベヒーモスが威嚇するなど、ここ三〇年ではじめてだ。
つまり、この森にとんでもないバケモノが現れたということになる。
この森の管理人として、そんなバケモノを放っておくわけにはいかないのだ。
「このあたりじゃったか」
老人は歩調を緩め、用心深くあたりを見まわす。
「! あれは……!」
巨大な岩の前に、子どもが横たわっていた。
慌てて駆け寄る。
子どもは、血だらけになっていた。
「魔物に襲われたか……」
老人は亡骸の前で手をあわせる。
だが――
「……ぅ」
と、子どもがうめき声を上げたのだ。
まだ生きている!
老人は咄嗟に子どもを抱きかかえた。
そして、目を疑う。
「こ、これは……返り血!?」
子どもは血だらけになっていたが――しかし、その身体には傷一つついていなかったのだ。
返り血ということは、どこかに傷を負った人間がいるということだ。
老人は負傷者を探すべく、顔を上げた。
ぼたぼたと、老人の顔に液体が降りそそぐ。
手で拭ってみると、それは血液だった。
「……」
老人は、おそるおそる頭上を見る。
岩だと思っていた物体に大穴が穿たれ、そこからどくどくと血があふれ出していた。
「ま、まさか……」
老人は子どもを抱きかかえたまま、岩の正面にまわりこむ。
そこにいたのは――
「ベヒーモスじゃと!?」
顔面に風穴を開けられた、森の主の亡骸だった。
風穴は肛門まで続いており、子どもはその真下に血だらけになって転がっていた。
と、いうことは……
「この子が……ベヒーモスを倒したのか……」
つまり、この子どもこそ、あのベヒーモスを怯えさせた張本人ということだ。
そう考えた瞬間、老人はぞくぞくと震えた。
恐怖心ではない。
これは――高揚感だ。
老人は、思わず笑みを浮かべてしまう。
「ようやく見つけたぞ。わしの後継者を――!」