これは武闘家のしわざですか?
アッシュが世界樹へと旅立って3日目の朝。
吹きすさぶ風の音に目を覚ましたリッテラは、不安そうに荒野の様子を眺めていた。
「今日も風が強いねぇ。こりゃ悪いことが起きる前兆かもしれないよ」
アッシュが旅立った日の夕方頃から、強風が吹き始めたのだ。その勢力は衰えることなく、砂塵を舞い上げ続けている。
「こんなに風が強いんじゃ、ノワールちゃんが怖がっちまうねぇ」
退化薬の効果は切れたが、催眠魔法の効果は続いている。3歳児ではなくなったが、この砂嵐を目にすれば不安がってしまうかもしれない。
「ふん。お前はなにを言っているのだ? 怖がるどころか、喜ぶに決まっているのだ」
廃材置き場の整理をしていたリングラントが、全身泥だらけで歩み寄ってくる。
「どうして喜ぶんだい?」
「これがアッシュのしわざだからだ。つまりこの風は、ノワールにとっては吉報なのだ。あいつが無事だというな」
「こ、これがアッシュちゃんのしわざだって? あの魔力で、どうやって風を起こしてるってんだい?」
あのフィリップ・ヴァルミリオンでさえ、この規模の風を3日間起こし続けるのは不可能だろう。わずかな魔力しか持たないアッシュに風を起こし続けることなどできるわけがない。
あるいは世界樹にたどりついただけで、圧倒的な魔力を手に入れたのだろうか。
だとしたらリッテラの実験は大成功なのだが――
「アッシュは深呼吸をしているのだ」
意味がわからなかった。
「これが深呼吸って、どんな肺活量してるんだい!?」
「なにを驚いている。あいつは存在そのものがデタラメなのだ。このくらいできてもおかしくなかろう」
「いや、おかしいよ!? あんた、アッシュちゃんをなんだと思ってんだい!?」
「世界最強の生命体だ。ゆえに、これくらいできて当然のことなのだ。そして深呼吸をしているということは、世界樹にたどりついたということなのだ!」
あいつならたどりつけて当然だがな、とリングラントは嬉しそうに言う。
リングラントは冗談が大嫌いだ。この強風がアッシュの深呼吸だと本気で信じているのだろう。
だとすると人間離れしているにもほどがある。
「ていうかあんた、アッシュちゃんを倒すのが目標なんだろう? どうしてそんなに嬉しそうなんだい?」
正直、リッテラはアッシュの負ける姿がまったくイメージできなかった。
なにを作っても粉々にされる未来しか見えないのだ。
「目標は達成が困難であればあるほど面白いのだ。……お前の考えは違うのか?」
「あんたと同じだよ。アッシュちゃんの強さを目の当たりにして、やる気が上がったくらいさね」
「そうか。お前が腑抜けたことを言えば研究所を乗っ取ろうと思っていたのだが、残念だ」
残念と言いつつも、リングラントは嬉しそうだ。身近に競争相手がいたほうが、負けず嫌いなリングラントはやる気が出るのだろう。
リッテラとて、リングラントと同じ気持ちだ。
だからこそ、弟を研究所に住まわせることにしたのである。
「して、リッテラよ。朝食はまだか?」
もっとも、居候とは思えない態度の大きさにはイラッとするが。
「いま作るから、あんたは身体の汚れを落として――」
『グオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』
突然ゴーレムの雄叫びが響き、リッテラはため息をついた。
「やれやれ。うちの居候は怠け者すぎるけど、うちの用心棒は働き者すぎるね」
いつもは研究所に近づく魔物を撃退してくれるが、最近は人間の訪問者が増えてきた。落ち着いて実験するためにも、ゴーレムを引っ越しさせたほうがいいかもしれない。
などと考えつつ外に出ると、ゴーレムのそばに青い甲冑を纏った人物が佇んでいた。
「ゴーレム! そいつは人間だよ! あんたは土のなかにもぐって――」
『オレ様がニンゲンだと!?』
青騎士が振り向いてくる。
全身から放たれる禍々しいオーラに、リッテラは立ちすくんでしまった。
「あ、あんた……人間じゃないのかい?」
『この《青き帝王》様を二度も下等種族呼ばわりするとは! 許せん! オレ様を侮辱した罪、死をもって償ってもらうぞ!!』
歩み寄ってくる青騎士に、リッテラは慌てて魔法杖を構える。
「な、なんなんだい、その……なんとかってのは!?」
『《青き帝王》様だ!』
「あんたは魔物なのかい!?」
『魔王だ!』
「魔王なのかい!?」
『そうだ!』
「バカな、そんなのありえないよ!」
『なにがありえぬのだ!』
「魔王はアッシュちゃんが倒したはずだよ!」
『ホゥ! 《黒き帝王》が葬られたとは聞いていたが、《白き帝王》と《赤き帝王》も消されたか!』
「あの子、そんなに葬ったのかい!?」
リッテラは度肝を抜かれた。
アッシュが倒したのは《虹の帝王》とかいう魔王だけではないらしい。
『勘違いするなよ、ニンゲン! オレ様はほかの魔王とは次元が違う! なぜならあやつらは四天王の数あわせに過ぎぬのだからなァ!!』
「魔王だと!?」
騒ぎを聞きつけ、リングラントが駆け寄ってくる。
「なにのこのこ出てきてるんだい! あたしが時間を稼ぐから、あんたはノワールちゃんを連れて逃げな!」
「なにを言っているのだ! お前ごときに逃げる時間が稼げるものか!」
「なぁに、あたしには頼もしい用心棒がついてるからね!」
「そ、そうか! ゴーレムに戦わせるのだな!?」
「その通りさね! さあ、ゴーレム! 真の力を解放するときが来たよ! 思いっきり暴れてやんな!」
スパァァン!!!!
ゴーレムが細切れになった。
自慢のゴーレムが瞬時に破壊され、リッテラは正気を失いそうになる。
どうにか意識を保ちつつ青騎士を見ると、半透明の大剣を握っていた。
てっきり魔法を使ってくると思っていたが、青騎士は剣士なのだろうか。
だとすると、生き残る術はある!
「いますぐノワールちゃんを連れてきな!」
「ノワールは病み上がりなのだぞ!? 戦力にならん!」
「戦うんじゃない! 逃げるんだよ! あたしの系統を忘れたのかい!?」
「そ、そうか! 空を飛ぶのだな!?」
「その通りさね!」
リッテラは風系統の魔法使いだ。魔力はさほど高くないが、飛行魔法くらいは使える。
強風に煽られ岩にぶつかる危険があるが、魔王と戦うよりは遙かに安全だ。
「わかったらさっさと連れてきな! アッシュちゃんが休憩する前に逃げるんだよ!」
アッシュの深呼吸と協力して砂塵を巻き上げれば、目眩ましにはなるはずだ。そうやって時間を稼ぎ、空へ逃げるのだ。
相手が魔法使いなら通用しないが、魔王は剣士――。間合いさえ詰められなければ逃げ切ることができるのだ!
そう思っていたのだが――
「な!?」
「どうなっておるのだ!?」
リッテラとリングラントは一瞬のうちに半透明の檻に閉じこめられた。
「こ、これはお前のしわざか!?」
「あんた、剣士じゃなかったのかい!?」
『否! オレ様は水の支配者! ゆえに、あらゆる水を意のままに操ることができるのだ!!』
水を操るということは、半透明の剣と檻は水で作られたというわけか。ゴーレムを切り裂くほどだし、強化することもできるのだろう。だとすると自力で檻を壊すのは無理である。
それは理解できたが、しかし不可解なことがある。
「水なんてどこにあるんだい!?」
青騎士が水を操ることはわかったが、肝心の水が見当たらないのだ。
『愚かなニンゲンめ。水なら貴様の目の前にあるではないか』
「ま、まさか――まさか水蒸気を使ったのかい!?」
『いかにも! たとえ目に見えずとも、水である以上はオレ様の武器になるのだ!』
水蒸気まで操れるのだとすると、魔王の攻撃範囲は広すぎる。
空に逃げたところで意味はなく、間合いを取っても意味がない。
なぜなら人間の身体は、半分以上が水でできているのだから。体内に爆弾を仕込まれているようなものなのだ。
『ようやくオレ様の偉大さを理解したようだな。そう、オレ様がその気になれば貴様らを殺すことなど造作もないのだ!』
だが、と青騎士は愉快そうに嗤う。
『オレ様は貴様らを殺さぬ! 貴様らを殺すのはノワールに――《氷の帝王》に任せるのだ! 貴様らは《氷の帝王》を愛しているようなのでな。愛する者に殺されるニンゲンの顔ほど見ていて愉快なものはないのだ!』
「ノワールちゃんが人殺しなんかするもんかね!」
『まだオレ様の力を理解しておらぬようだな! オレ様はあらゆる水を支配できる! そしてニンゲンよ、貴様らの身体はほとんどが水でできておるのだ!』
リッテラはハッとする。
青騎士は水を支配することができ、人間の身体はほとんどが水でできている――身体のほとんどは青騎士に支配されているのだ。
つまり――
『オレ様はニンゲンの身体を意のままに操ることができるのだ!』
だとすると青騎士の前では強さなど無意味。むしろ強ければ強いほど、青騎士にとっては好都合なのだ。
なぜならそれが人間である以上、青騎士の支配下に置かれ――忠実な手下になるのだから。
「な、なんて怖ろしい魔法なんだい……」
かつて世界を震撼させた《闇の帝王》が得意としていた洗脳魔法と違って防ぐことはできず、さらに解くことすらできないのだ。
なぜなら青騎士の支配下から逃れるには、体内の水分量が半分以下になるまで脱水しなければならないのだから。
そうなれば、待っているのは死である。
これまでに多くの魔王が現れたようだが――世界最強の武闘家を支配下に置ける《青き帝王》こそが、世界最強の魔王だったのだ!
リッテラとリングラントの絶望する様を見て、青騎士は愉快そうに甲冑を揺らした。
『フハハハハハ! ようやく理解したか! そう、オレ様こそが世界最強の魔王――否、世界最強の生命体なのだ!!』
「貴方は最強じゃないわ」
と、騒ぎに目を覚ましたのか、ノワールが歩み寄ってくる。
『貴様! 《氷の帝王》! いまなんと言った!?』
これまでに多くの修羅場をくぐって来たのだろう。圧倒的な殺気を放つ青騎士に、ノワールは平然とした顔で告げる。
「貴方は最強ではないわ。だって、アッシュのほうが強いもの。貴方なんか、アッシュが触っただけで粉々だわ」
『オレ様がニンゲン風情に粉々にされるだと!? 面白い! ならば貴様の妄想、粉々に打ち砕いてくれるわ!』
青騎士はマントを翻した。
『アッシュとかいうニンゲンを葬り、その首を持ち帰ってくれるッ! 恐怖と苦痛に歪んだ生首を目にすれば、オレ様が最強だと認めざるを得まい!』
「そんなことできるはずないわ。だって、アッシュは世界一硬いもの」
『ならば自害を命じるまでだ! いかに強かろうとニンゲンである以上、オレ様の操り人形なのだからな!』
「初耳だわ」
重要なところは聞こえていなかったようだ。
『生首を見て貴様がどういう顔をするか楽しみだ! フハハハハ――』
不気味な笑い声を響かせ、青騎士は姿を消したのだった。