第八話 地雷は見えない
初めて入る勇利のアパートは綺麗に片付いていた。2DKのそこは
“目で見る昭和50年代”
のような作りだった。
瞬間湯沸かし器のある台所に旧式のガスレンジ。小さなちゃぶ台のある居間に14インチのテレビデオ。桜の切り抜きの張っている襖。その奥の薄暗い和室に紅い布団が二枚しいてあり、それを寝具と認識するより早く、紅の色の艶かしさに俺の心臓は脈を早めた。
そこには退廃的で背徳な雰囲気が漂っていた。
自分の中に浮かんだ妄想から目を逸らすように振り向くと、勇利と視線が合い小さく頷くから、そこにうっすらと目を開け俺と目線の合った絵里子さんを下ろした。
「ありがとね、兄貴。こんな事までしてくれて。ちょっと待ってて。今支度するから。」
彼は襖を閉めると居間に俺を置き去りにした。
衣擦れの音がする。
母親の着替えでもしてやっているのだろう。
ふと思う。だから彼は女が嫌いなのかもしれないと。愛してやまない母親の女を売る、その行為が彼を男の所へ走らせたのかもしれない。大好きだからこそ、女は汚いと。
会うたびに彼の違う側面が見える。俺の目に映る彼は基から聞く “頼りになる親友” と言う通り一片だけではなく、どろどろと生々しく、そのくせ愛情に飢え今にも倒れそうに脆かった。
そんな俺の想いなど無視し、勇利は元気よく台所に立った。
「家に帰ってもろくに食う物無いんだろ?」
帰ろうとしていた俺だったが、立ちこめる出汁の匂いに腹の虫がぐぅと鳴く。あはあはとおかしそうに笑う勇利。真っ白い歯がこぼれそうだ。
「絵里子さんの田舎の方の雑煮なんだって。昔はよく作ってもらったんだけど、さすがにここ数年は口にしていなくってさ。久方ぶりに食べたくなって俺が作ってみたんだ、どう?」
それは懐かしい味がした。味噌仕立てで、だしに灰汁味が有り、柏肉が浮いている。それから焼いた切り餅に蕪の葉と人参。
「旨いよ。」
あっという間に平らげた俺にお代わりをよそってくれる。
「嬉しいなあ。やっぱ食べてくれる人がいると違うよな。」
もし彼が女なら亭主選びに困らなかっただろう。
基の為に作ってくれた手料理を何度もご相伴にあずかった。その度に感じたのは、食べる者への愛情だった。人の手がたっぷりと加えられた優しい味。それはいつだって仕事に疲れた俺の体の芯を暖めてくれたものだ。
そんな料理を、さも当たり前の様に口に運ぶ基を正直羨ましいと思っていた。彼は親友に愛され、支えられているのだと。
それが、いつの間に俺はこんな風になってしまったんだろう。
俺の中には基に対する羨望や嫉妬心が密かに根を張っていた。
その気持ちを振り払おうと雑煮を食い終わり腰を上げようとした俺の肩に、勇利の両手が乗った。
「まあまあ。」
そう言いながら彼は俺の肩を揉み始めた。
「せっかく送ってもらったんだから、お礼ぐらいしないとな。」
「いいよ。」
彼の冷たい手に慌てた。
「礼なら雑煮で十分だ。それに勇利も疲れているんだろう?」
母親の迎えやらバイトやらで熟睡は出来ていないはずだった。その言葉を無視するかの様に肩にかかる手に力がこもった。
「こってんなあ。」
それから
「さっきのは絵里子さんを送ってくれた分。これからは俺からのお礼。」
と言って俺の頭に顎を乗せた。彼の甘い香りに目眩がしそうだった。
「それにしても、こってんなあ。」
勇利はうーうー唸った。
「まあな。ディスクワークばっかりになったり、反対に一日中屋外ふきっさらしになったり、いろいろだからなぁ。」
それはとても心地よく、確実にこっている所を押さえた。やがて彼の手でうつぶせに寝かされる。
「少し痛いけど我慢しろよ。」
そう言うと返事も待たず、彼は俺の右手をねじり上げ肩甲骨の裏に指を差し込んだ。
「!!!!!」
さすがに声に出して悲鳴を上げるのははばかられた。それでもうっすらと涙がにじむ。いったい何をした?
彼はくすくす笑って、再度続けた。
「これすると、肩裏の細かい筋肉がリラックスするから、肩こりがとれるぞ。」
挙げ句に、
「基にも他の連中にもよくやってやるんだ。時々泣くヤツもいるけど、弱えぇよなあ。」
などと鼻歌まじりだ。俺は声を堪えるのに必死だった。
その次が背中の中央で、垂直に当たった指先に俺は体を固くした。
「大丈夫だって。今度は痛くしないから。」
勇利はその指先を軽くゆすり始めた。一瞬身構えたけれど、確かにそれは気持ちよく、まれに走る痛みが快楽を増幅させ、肩から頭に痺れが伝わるようだった。
その時彼の伸び始めた前髪がはらりと俺の首筋に落ちた。今時珍しいほど真っ黒くこしの強い髪。今まで短髪だった為にどうしても生えてくる毛が硬くなるのは想像がつく。それにしても、漆黒の暗幕の様なその髪は、ある意味彼の美しさを半減させているといっても過言では無いだろう。頑な過ぎる。俺が言うのも変かも知れないが、彼は何事も真面目すぎるんだ。もう少し緩んだ方がいい。
「部も終わった事だし、勇利はどうして髪を染めたり伸ばしたりしないんだ。その方が似合うと思うんだが。」
何の気無しに俺は呟いていた。
「ああ、これね。」
彼は何気なさを装いながら言葉を探した。肩越しに開きかけた口元がキツく結ばれ視線をそらし、
「・・・・嫌いなんだよ、畜生っ。」
一瞬瞳にあからさまな憎悪の炎が灯ったかと思うと、それはすぐに消えた。
地雷を踏んだ事を感じた。
「昔、いろいろあつてね。そいつの事、いつか兄貴になら話せる気がする・・・・・」
彼が不自然な作り笑いを浮かべたのを感じた。
「てかさ、髪の毛いじるのって頭の悪い馬鹿な女みたいだろ?」
口元を歪めた下びた口調。それはあまりにも彼らしくなかった。
それからの会話は続かなく俺はそのまま快適な眠りに落ちこもうと心に決めた。
Pain つづく